石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

「これはわたしの愛する子」

2016-10-12 17:40:55 | Weblog



「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)
神様は、イエス・キリストをこのように紹介された。

父なる神様の悲しみや苦痛は、聖書には一言も書かれていない。
ただ、このみことばを読むたび、これほどに愛するひとり子を賜って救われたのだと・・、私は深い感動と感謝を覚える。

 人は怒ったその瞬間、心の中でで殺しているのだと聞いたことがある。自分の子を一度も怒ることなく育てられる親は居ないだろう・・。人は感情のままに何度か心の中で殺し、そのことを痛み愛おしんで子育をして行くものである。

しかし神である御父と御子の愛は完全である。だから御父はただ一度、十字架において御子を人の救いの為に殺しなさったのだ。



「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)十字架上のイエス・キリストの叫びは、人の罪を負った故に、愛する御父から捨てられるという、イエスさまが経験されたことのない悲痛な叫びである。
イエスさまは地上での孤独な生涯いおいて、唯一支えであった御父との関係を絶たれ、「父」と呼ぶことさえ許されない経験をしてくださった。

神さまは聖であり、罪を決して見過ごすことのできない存在である。「聖さ」と「罪の汚れ」は真逆であるから、神の内に同時に存在することはないのだ。
それゆえに、汚れない御子イエスにすべての人の罪を負わせることによって、罪の処理を十字架によって完成し、人を天国に受け入れようとしてくださったのである。
それゆえ、キリストの十字架を自分のあがないのためと信じるなら、ただその告白によって救われ、天の御国での永遠のいのちをたまわるのである。

この基準に見合う行いを、感情を持って生きる人間になし得ると思うのは正気の沙汰ではない。
御父と御子の愛の犠牲を否定するなら人は救われない。救い主を否定した瞬間に自ら救いを拒否したからである。
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