石ころ

実質 (マルコ7章)




 形式や建前の祈りは偶像に捧げるものである。それはいのちも感動もない作り物だから。
今も生きて働いておられる主には、血の通った言葉でお話しするように祈りたい。
「娘から悪霊を追いだしてください」と願った女は、少し気むずかしい感じのイエス様に交渉している。

アブラハムも、滅ぼされるソドムの救いのために神様と交渉した。(創世記18章)もし、私たちが切羽詰まっているなら、そうして主以外に救いがないことを知るなら、借り物ではない言葉で一生懸命に哀願するだろう。そうして主はそれを待って居てくださる。

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(マルコ7:27~28)


そうして娘は救われた。主のパン屑は豊かであり完全である。それも12籠もあるのだから・・、私はパン屑をねだりながらのブログ三昧。


 律法をいつの間にか人間の掟にすり替えてしまっているとイエス様は暴かれた。神の言葉は聖霊による解き明かしを必要とするが、人の教えは分かりやすく世に溢れている。
だから気をつけていないとすり替わってしまうのだ。みことばは正確に覚えないとサタンにすり替えられてしまことがある。エバのようにあっという間に取り込まれてしまう。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。(Ⅰコリント1:18)

 父母に与えるものを惜しんで「捧げ物になった」と言い逃れることは、神をも自分をも欺く言葉。親を憐れまない心を覆い、神のことばをないがしろにするから。
そんな人の言い伝えを持ち出して御子を責め立てる彼らは、「白く塗った墓のようだ」とイエス様は言われた。見た目が奇麗でも中は腐っていると。

「すべての食べ物はきよめられる」とイエス様は言われた。食べ物によって汚れを受けるのなら、それを避けることは簡単だけれど、人の心から出るものが人を汚すと言われた。それを変えることは簡単ではない。
だから彼らは言い伝えを宗教的に教え、それによって地位を確立して来たのだろう。それは人の力で出来が、人の思いを変えることは主に拠らなければ決して完成しない課題である。
腹を立てた一瞬に心の内では殺していたかも知れないし・・、私の無分別なんて全くそうであるし・・。ただイエス様の導きの中でヨチヨチと心の内を治めさせていただいたり、赦しの中で過ぎ去らせて頂いたり・・主の十字架により頼んで回復させて頂いて居るのみ。

 聴覚障害者の癒しが書かれてあるが、私の次男も聴覚障害者である。彼はもう20年近くメーカーで技術者として勤めさせて頂いて居る。彼は書くことによってはっきりと必要を伝えることができるし、しっかりとした意志も持っており勤めながら資格も取った。
障害ゆえの課題もあり、いつも助けを受けているだろうが、絶えずイエス様は彼の必要を満たしてくださって居る。主のみわざは一通りではない。
何よりも感謝なことは、彼が毎朝の聖書通読を長く続けていることである。それが自分の弱さ故に辿り着いたことなら、一瞬の癒しよりもはるかに感謝だと私は思う。
命の限り、弱さの中に完全に働く主にあって生きることはとても安心なことだと思うから・・。

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