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石ころ

永遠を目指して



大勢の人々はイエスさまのしるしを見て、もっと知りたいと時も場所も忘れて付いて来た。その時の彼らは何も持ってはおらず、自分の空腹のことさえ忘れていた。
しかし、パンを食べて満腹したとき、彼らは変わってしまった。彼らの中に計画が生まれ、イエスさまをむりやり王にしようと考えた。

「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」と、安定的にパンを手に入れる方法を考えたのだった。それは、イエスさまをなくなる食物としたと言うこと。
イエスさまの与えようとして居られるものは、ご自身にある永遠のいのち。

「わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。」(申命31:20)

人とはこのようなものだろう・・。元々永遠を思うことはできないのではないか・・。苦しいこの世の避け所として思うことがあっても、その苦しみが終わってなを、永遠を求める者がどれだけいるのだろう。

何時だって主が与えて下さるすべての物は良き物であり、祝福であると思うけれど、ある人々には災いである。
家柄や財産、名誉や能力、美貌や魅力それらが、主を知り成長するために用いられるなら祝福と成るけれど、彼らには時に、あまりにもこの世は居心地が良く、満足な状態でありすぎるから、永遠を思う暇はないのではないか・・。

主にあって、成長をして行くには、続く欠乏が必要ではないかと思う。
そこでしるしのパンを食べ、主を知り、みことばを聞く。なを、イエスへの飢えと渇きがあるなら、日々主のパンの養いを受ける。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

そうして、昨日まで聞いたみことばを、さらに新しく聞き続けるなら、
「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)
このみことばにつまづくことはないだろう。なぜならこのように約束されているのだから。

「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」(ヨハネ6:39)
約束のことばを私たちに実現して下さるのは、私たちの理解に拠るのではなく、主の導きによるのであり、私たちが何も持たない者のように、聞き続けることによるのだと思う。

「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。」(イザヤ48:6)

モーセでさえも、昨日聞いたようにしか、主のことばを聞いていないなら、カナンには入れなかった。
みことばからあふれるいのちは日々に新しく満たされるから、その度に成長し、主が与えようとされる永遠のいのちに向けて歩みたい。思いがこの世で留まっていてはいけないのだと思う。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:29)

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コメント一覧

石ころ
保護者さんへ

そうですね。誤解しそうな書き方でした。
期待をしたり、絶望したり今、かなり揺れています。

確かに、私たちはイエスさまの十字架のあがないをすでに得ています。
ただ、イエスさまの教えには、段階があるように思います。
それに、どこまでも付いて行きたいのです。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)

ゴール目指して、コースを走り続けるということは、実際にはどのように過ごすことか・・それはやはり単純にキリストを信じることのみだと思います。
しかし、キリストを信じたときに、もっともっと知りたい、もっと聞きたいと走っていたりします。

昨日と同じ箇所にも、小さくても、新たな発見に導かれたときに、分かち合う交わりを切望してしまいますが・・

今日の箇所は、言葉になりきっていなくて・・申し訳ありません。
心にあるものがうまく伝えられなくて・・燃えさしみたいなもの、今、内にあるもろもろを料理もせずに、生でさらけ出してしまったようです。

保護者さんがみことばを探索してくださったことで・・望みを確かにして、私の言葉を片付けてくださってありがとうございます。
主の御名をあがめます。
保護者
永遠の命とは「キリスト・イエスにある新しい命」「復活されたキリスト自身の命」であり、信じている私達は今、現在すでにこの命を持っています。

今日、詩編16-5・6を味わっていました。「主は私に与えられた分、私の杯・・ 測り縄は麗しい地を示し 私は輝かしい嗣業を受けました。」

土地の割り当てではなく、心が喜び 魂は踊り 体が安心して憩うということでしょうが、
「測り縄の示した麗しい地・輝かしい嗣業」は、復活の後 永遠において実際として主を生きている姿に思えたのです。

測り縄が復活後の未来を指し示しているようで
 将来に素晴らしいものを見て 永遠を思い巡らせていました。

私達の嗣業は主であり、主の嗣業は私達なて!
「主に割り当てられたのはその民 ヤコブが主に定められた嗣業」(申命記32-9)

ハレルヤ!主は永遠を思う心を人に与えられました。 (伝道の書3-11)
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