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石ころ

エリフの間違い



主がヨブの名を知っておられるのだから、ヨブは主に直接話すことができる関係を持っている。たとえヨブが霊的に高ぶっていたとしても、直接主に叱責を受け教えられる権利を持っている。ヨブは主だけを礼拝し、主にすべて差し出して、主にのみ依存しているのだから。

主は罪ある者をその罪の故に関わらないとは言われない。もし、そうなら誰も主を礼拝することができなくなる。すべてをご存じの主は、むしろ罪あるままで来るようにと待っていてくださる。御子の血潮を用意して・・。


エリフはどうして主とヨブの間に立つことが出来るのか・・。彼は自分の罪をどのようにあがなったのか・・、エリフが主とヨブの間に正しい言葉を持って立っても、それは彼の罪のシミのあるものである。それは主とヨブの邪魔でしかない。

義なる言葉は主が話されヨブは直接聴くことが出来るのだ。また、人と神の間に立つ仲裁者はただおひとり、あがないのために聖なる血を流されたイエスだけである。


キリスト者は、自分の口で自分の言葉で主に祈り、自分でみことばを直接探り求め、神の厳しさと甘さを、今のこの現実の中で日ごとに味わうことができる。それこそが真の礼拝である。

今日の主との交わりは永遠までも続くものであって、移り変わることのないいのち。それこそが新しく生まれた私たちの持っているものであって、造り主と私の間には、救い主イエス以外は誰も入れない。


あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(ヨハネ2:27)

わざわざ「その教えは真理であって偽りではない」と書かれているのは、私たちがいかに騙されやすくて、心細い者であるかということを現していると思うのだけれど、この権利を横取りされないように、主の前に自分の足でしっかり立ち、よく耐えてみことばに聴き、イエスさまがいのちに代えて与えてくださったものを、自分のものとして行きたいと思う。


そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(ヘブル10:22~23)

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