石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

創造主を離れた結果

2017-06-14 14:35:43 | Weblog


 アダムが創造主である神様の禁じられた「善悪の知識の木の実」を食べたことから、(実際に取って食べさせたのはエバですが、責任は直接神様から言葉を聞いていたアダムになります。)神様との交わりの場エデンの園から追放されました。

それ以来人類は自分で選び取った「善と悪」によって自分を守り、互いを裁き訴え合うようなりました。
完全である神様のことばを離れて、人はてんでに自分の良いと思うことを行い、自分が悪いと思うことと戦って生きるようになりました。国同士がそれをすると戦争になります。

アダムとエバの完全な愛にもヒビが入りました。アダムは神様がくださったエバをとても喜んでいたのですが、
「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)
神様と妻を責めるようになりました。そう・・人は今も神様を責めています。

その実を食べると「必ず死ぬ」と忠告をされていました。だから人は必ず死ぬ者となりました。
しかし、神様はわずかな命で滅びゆくようになった人を憐れんで、御子キリストを世に遣わし、罪のない方に人のすべての罪を負わせて罪の処理をしてくださいました。ご自身との関係を回復して救おうと計画されたのです。

今、すべての平和は御子キリストの中に準備されてあります。十字架による救いを信じて、その信仰を告白した者はそれだけで救われるのです。創造主が一方的に準備してくださった救いです。

 ブログに書いていた「キリストのからだ」とは、御子キリストを信仰して救われた人々(教会を指していますが、建物ではありません)のことを指しています。その頭はキリストです。
一人一人は、キリストのからだの各器官として、神様が準備してくださった力によって御許に召されるまで主と共に働きます。

 この世には動かぬ善悪の基準はありません。人は神のように賢くなって自分の基準によって善も悪も決めるからです。すべての争いの元は此処にあります。決して移り変わることのない創造主の正義に拠る以外に真の平和はありません。

御子のいのちをたまわるほどに愛して下さる方は、造り主なる神様以外にはありません。人は心の深い所で造り主の愛を求めて苛立つのです。その方の愛に戻りたい願いを持っているのです。
「キリスト」を名乗るものは世界に多くあります。でもその人々に安息がないなら、とても残念なことですがまだ創造主の愛に出会っていないのです。

神様は御子の十字架のあがないをもって、救われるべき人々を待っていてくださいます。しかし、何時までもその時が延ばされるわけではなく終わりが来ます。
だからこの事実を知らされている者は懸命に、聖書のメッセージを伝えなければならない今はそういう時です。

 人は一度死ぬことと、死後に神様の裁きがあることが聖書には書かれてあります。
「御子を信じる者は裁かれない。」と書かれています。ただ信じるだけのことです。此処に神様の救いの備えを見ることができます。

造り主はご自分の作品である人を愛しておられます。ただ、罪の処理がなされていない人を受け入れることは、神の義によってできないのです。それゆえに御子を十字架刑によって犠牲にされたのです。

 ことさらにキリストを拒否した者への裁きは、世の苦しみどころではありません。世でどれほど苦しい生涯を送ったとしても、それは終わりがあります。しかし、死後の裁きによる滅びとは、永遠に続く終わりのない苦しみだと書かれています。具体的な記事が聖書には書かれて居ますが、私はそれを此処に書く勇気がありません。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
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ありがとうございました (デ某)
2017-06-15 12:32:45
改めて項を立ててお答えくださり恐縮に存じます。
ありがとうございました。

> 人類は自分で選び取った「善と悪」によって・・・互いを裁き訴え合うようなりました。
> 神様のことばを離れて、人はてんでに・・・生きるようになりました。
> 国同士がそれをすると戦争になります。

神が造られた人類が 神の思し召しと異なり
各々に自立して判断し、各々に自律して行動する・・・。
人間の親と子の関係では
各々一個の人間としてそれは寧ろ自然!だと思います。
そうでなければ、人間はみな神のコピーとなってしまいますから。
しかし対等ならぬ神と子の関係で
なぜ神の意思は子たる人間たちに通じないのでしょう。
その責めを総て「アダムとイブ」に負わせるべきなのでしょうか。

> 人は今も神様を責めています。

神様を「責めて」いるのは、実は「乞うて」いるように思います。
でなければ、人はみな信仰を喪くしてしまうでしょう。

> 「キリストのからだ」とは、御子キリストを信仰して救われた人々を指しています。
> その頭はキリスト・・・人はキリストのからだの各器官として・・・
> 御許に召されるまで主と共に働きます。

「からだの各器官」は人間が各々に分かち合い、「頭」はキリストが支配されるとすれば、
過ち、諍いの源たる「判断」「意思」は
「頭」からではなく「各々器官」から発せられるのでしょうか。

> この世には動かぬ善悪の基準はありません。

そのとおりだと思います。
絶対的な善も悪もなく 常に相対的なものだと思います。

> 創造主の正義に拠る以外に真の平和はありません。

「正義」を創造主に委ねても、
委ねない人々がいる限り 平和は維持されません。

> 「御子を信じる者は裁かれない」と。ただ信じるだけのことです。
> 此処に神様の救いの備えを見ることができます。

「歎異抄」には、古文の教科書で誰もが出会います。
その根幹は「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」。
ここの善人とは「信じるもの」、悪人とは「信じないもの」ですが、
その教えには 或る種の「大きさ」「寛さ」を思います。
「御子を信じない」者のみが、裁かれるのでしょうか。

> 死後の裁きによる滅びとは、永遠に続く終わりのない苦しみだと書かれています。

信仰しない者は 斯くも過酷なのでしょうか・・・。
少し・・・哀しくなります。

私の思ったことを率直に記しました。
ムベさんの「お答え」を求めているのではありません。
私自身の問題として考えてまいりたいと存じます。
ほんとうに・・・ありがとうございました。


真摯なコメントを感謝します (ムベ)
2017-06-15 13:39:40
人の持っている叫びをだと思いました。
神様は御真実な方ですから、答えを準備してデ某さんの人生の中で、直接答えてくださるようにお祈りして居ます。

「答えを求めているわけでない」
確かに、私はこの問いに対する、すべての答えはもっていません。きちんと答えられる能力もありません。

でも主に在って、これだけ丁寧なコミュニケーションを頂いていることを感謝に思っています。

詩編の作者は、心の中の叫びを神に向けて洗いざらい吐き出しています。
怒りも嘆きも哀願も復讐も・・また、特別な祝福も。

なんだかそのように感じました。
創造主への問いかけのように受け止めました。

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