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石ころ

聖書を持つこと



 先週、火曜日のための準備を終えて、これで準備万端相整いまして候・・なんて思っていたところ、いざ火曜日の朝の印刷という段になって、ディスプレーが映らないというアクシデントが起こった。

これでは私にはお手上げ。pcを強制終了するだけで精一杯。
まったく何年使っていても、決まり切った動作以外は何もしないという、ネガティブpcを決め込んでいるんだから・・。そもそも息子のpcなんでね、いくらかの遠慮も・・いや真相は面倒なだけ。

 さて、どうしたものか・・と思案する。「今日は具合が悪くなりまして・・また来週ね。」という理由は出来たけれど、来週がもし来なかったら、どれほど後悔しなければならないだろう・・。年寄りには明日はどうなるかわからないのだから。
以前いろいろな事があって、出かけて行くことに「気が進まな~い」そんな我が儘を主に申し上げていた時、「『御名があがめられるために』せよ。」と言われたことを思い出した。そうして今「礼拝しなさい」と・・。

「ああ、そうだ!」って、それは私自身が主を礼拝させて頂けるチャンスだった。共に聖書を読み、主を賛美して感謝のお祈りをすることにはなんの問題もない。
何時もは、聖書箇所を拡大して印刷をしたものを持って行っていたのだけれど、その日は聖書を2冊持って出かけた。

聖書を渡してみると彼女は眼鏡も掛けずに、不自由なくスラスラと読んで居られた。終わってから聖書を購入されるようにおすすめして、早速注文する。
どうやら私は取り越し苦労をしていたみたいだった。お年なので字が小さくて読めないのではないかと・・。
届いた新品の聖書を持って行くと大変喜ばれて、「縦書きのほうが読みやすくて嬉しい。本を読むのが好きなので、これからは楽しみに読むわ」といわれた。

今まで人に聖書を差し上げたり、勧めて買って頂いたけれど「本当にこれで良かったのか・・」という思いが残ることも多く、彼女には「時」を待っていたのだけれど良いチャンスが与えられて本当に感謝。
最も大切なことは自ら求めて聖書を読むこと。求める者に主が導いてくださらないわけがないと思っているから。

 聖書を紹介した方との交流が一つの節目を迎えるように途切れてしまったり、なんとなく疎遠になって行くことがある。決しておつきあいがなくなるという事ではないけれど・・、もっと曖昧に主の時が消えて行くことがある。

聖書はイエスさまに導く道の光り、それを持っておられるのだけれど今はどうなっているのだろう・・。持っているだけではただの一冊の本に過ぎない。掲げただけで効果のあるアイテムではない。上に手を置くようなギシキに用いるべきものでもない。みことばに人生を賭けて受けるべき、イエスさまのいのちが支払われている救いの御言葉なのだ。


 今日のみことばの箇所では、弟子を受け入れず、弟子が足の塵を払って出て行った地は、「ソドムやゴモラの地よりも・・その裁きは重い」とイエスさまが言っておられるけれど、救いのラインがどこにあるのかは私には量りようもない。

「わたしの弟子・・水の一杯でも飲ませるなら・・報いにもれることはありません。」とも書いてある。確かに私はそのとき、彼らから親切を受けていたのだから・・望みがあるのではないかと期待も残っている。この報いが世的な一時の祝福ではないことを願ってもいる。
きっぱりと語っていても、みことばが腹に苦みを残し続けることがある。

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