「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)
バプテスマは、もちろん死と復活に関連しています。しかしそれ自体は、死でも復活でもなく、埋葬であるのですが。ところで、だれが埋葬される資格を持っているのでしょうか。死人だけです!従って、私がもしバプテスマを求めるとすれば、そのことによって私は、自分が死人であり、墓に納まるよりほかに道のないことを宣言しているのです。
しかし悲しいことに、ある人は埋葬を死の手段として見るようにと教えられてきました。そのため、葬られることにより、死のうと努力するのです。
ここで私は、私たちがキリストにあってすでに死に、またキリストと共に葬られたということに対して、目が開かれるのでなければ、バプテスマを受ける資格がないことを強調したいのです。
・・・少しでも生きているという望みがあると思ったら、絶対に埋葬しないでしょう。
新世界と旧世界の二者の間に、墓が横たわっています。神はすでに私を十字架につけられましたが、私はその墓の中に自分を託することを承諾しなければなりません。私のバプテスマは、御子の十字架にあって私の上に降ろされた神の刑罰宣言を確認します。それは、私が古い世界から切り離され、現在新しい世界に属しているということを確認するのです。
従ってバプテスマは軽く扱うべきものではありません。それは古い生き方からの、はっきりした意識的な絶交を意味します。これが
「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:2)の意味です。
古い世界に生き続けたいのであったなら、どうしてバプテスマを受けたのか。古い領域にあって生きるつもりであったなら、絶対にバプテスマを受けてはならなかった。 「キリスト者の標準」より
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