石ころ

ヨブの子供 





 赤信号にバイクを止めてふっと空を見上げた。行き会いの空が広がっていた。筋雲、鱗雲、モクモクとした夏雲・・
肌に触れる風は気持ちよくて、ああ、もうすぐ秋なんだ・・って、少し救われるような思いがした。
忙しい夏だった・・気の抜けない重苦しい夏だったから・・。

 
 今、ヨブ記を読んでいる。しんどい箇所である。今は特にそう感じる。
まず、ヨブの子供たちのことが心にかかった。

主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。(ヨブ記1:12)

子供たちは、ヨブの持ち物として扱われている。そうして、牛や羊と同じようにサタンの手に渡されていた。
旧約聖書にしても、そのように子供達が扱われる箇所は他にはないように思う。これはいったい何なのだろうと・・思った。

 ヨブは子供たちのために執り成し、彼らの罪をあがなうために捧げ物を捧げていた。しかし、その子供たちの名は一人も書かれていない。
例え、ヨブのように正しい信仰を持った親によって、執り成しをされていようとも、それは親の信仰であり、子は自分で神の御前に出て、自分で信仰の歴史を築いてゆくことが必要なのではないか・・。
そうでないと単に親の持ち物に過ぎず、親の祝福として共に祝福されるけれど、神の前にひとりで立つことはないのではないか・・。

結局信仰とは、親の信仰に拠って立つことのできるものではなく、親が代わりに成し遂げてあげられるものでもないってこと。
ひとり主の前に立って、その名を御手に刻んで頂く他ないのではないか・・
自分の選択によって、神さまとの愛の歴史を築いて行くことなのだ。人は誰でも、自分で主の愛を一つひとつ経験して行く必要があるのだ。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。(イザヤ49:15~16)


 親は子供のために何をしてあげることができるのだろうか・・。
今、新約の恵みの時代に居る私たちであれば、「わたしの愛する子」と言われた神のひとり子を賜ったことを知って居る。
それゆえ、私たちも自分の子を神の御手にお委ねることなのだ。親心を誰よりも知っていてくださる愛なる神さまに信頼して、恐れることなくお任せすることなのだ。

しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(Ⅰヨハネ5:20)

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