お知らせすることは特にありません。
お預かり郵便物のお知らせ
8
ユキの制止を振り切って店を飛び出した。
ジュンはとにかく走った。
走りながら、自分の言ったことを思い返した。
「姉さんに似ている??」
姉のことは忘れたつもりだった。
いや、本当に忘れていた。
自分の口からその言葉が出てくるまでは。
あの瞬間に口から飛び出したことは、
咄嗟についた嘘なんかではなく、まぎれもない真実だ。
ジュンには、2つ上の姉がいる。
いや、正確には、いた、かもしれない。
どうして惹かれるのか?
わからないままユキを追いかけた。
でも、そこには理由があった。
ただ漠然と確信していた共鳴のような感情は、
潜在的な姉への思いから起こっていた。
ユキは、心の奥深くに沈んでいた姉の記憶を掬いあげてしまったのだ。
雫のようにこぼれた記憶が新しい記憶を想起させ、
堰を切ったように次々と姉の記憶が蘇ってくる。
息が弾む。
突然、
目の前がパッと光るように明るくなり、ふっと体の力が抜けた。
ジュンはとにかく走った。
走りながら、自分の言ったことを思い返した。
「姉さんに似ている??」
姉のことは忘れたつもりだった。
いや、本当に忘れていた。
自分の口からその言葉が出てくるまでは。
あの瞬間に口から飛び出したことは、
咄嗟についた嘘なんかではなく、まぎれもない真実だ。
ジュンには、2つ上の姉がいる。
いや、正確には、いた、かもしれない。
どうして惹かれるのか?
わからないままユキを追いかけた。
でも、そこには理由があった。
ただ漠然と確信していた共鳴のような感情は、
潜在的な姉への思いから起こっていた。
ユキは、心の奥深くに沈んでいた姉の記憶を掬いあげてしまったのだ。
雫のようにこぼれた記憶が新しい記憶を想起させ、
堰を切ったように次々と姉の記憶が蘇ってくる。
息が弾む。
突然、
目の前がパッと光るように明るくなり、ふっと体の力が抜けた。
7
「何しに来たって言われても・・・」
彼女からしてみればごく当前の質問だ。とにかく何か言わなくては。
しかし、頭ではわかっているものの実際に言うべき言葉は見つからない。
ジュンは早くもユキを追いかけてこの店に入ったことを後悔していた。
今となっては普通に彼女を抱いてこの場を出ていくこともしづらい。
最もジュンにはその気は初めからなかったわけだが。
とにかくこの状況を終わらせたい。その一心で彼はこう言った。
「似てたんだ・・・姉さんに」
「え?」
「本当に似てたんだ。でもあんたは俺の姉さんじゃない。最初からわかってたはずなのにな」
「君のお姉さんが、どうかしたの?話がよくわからないんだけど」
「いや、いいんだ。帰るよ。邪魔してごめんなさい」
言って彼女に背を向けドアへと進む。
「ちょっと、待ってよ!?」
待たない。
彼女からしてみればごく当前の質問だ。とにかく何か言わなくては。
しかし、頭ではわかっているものの実際に言うべき言葉は見つからない。
ジュンは早くもユキを追いかけてこの店に入ったことを後悔していた。
今となっては普通に彼女を抱いてこの場を出ていくこともしづらい。
最もジュンにはその気は初めからなかったわけだが。
とにかくこの状況を終わらせたい。その一心で彼はこう言った。
「似てたんだ・・・姉さんに」
「え?」
「本当に似てたんだ。でもあんたは俺の姉さんじゃない。最初からわかってたはずなのにな」
「君のお姉さんが、どうかしたの?話がよくわからないんだけど」
「いや、いいんだ。帰るよ。邪魔してごめんなさい」
言って彼女に背を向けドアへと進む。
「ちょっと、待ってよ!?」
待たない。
6
想像以上に部屋は狭かった。一人用の小さめのベッドと、服をかける為のハンガー、そして何に使うのかよく分からない液体が入ったボトル、ティッシュ、何枚かのタオルが入った小さい棚、そういった物がその部屋にはあった。
ただ部屋といってもそれは部屋と呼べるようなものではなく、広いスペースがカーテンのようなもので仕切られているだけで、よく耳をこらせば隣の部屋で交わされる淫靡な会話や声が聞こえそうになる程だ。だが、それを防ぐ為だろうか、店の中は大音量でトランス系の音楽が流れている。普段そういう音楽は聴かないジュンにとってそのBGMは珍しいものではあったが、決して心地よいものではなかった。
とにかく、今まで全く知らなかった世界に足を踏み入れている事が肌で感じられ、否応にも胸の鼓動が高まっていった。
「シャワー、浴びよっか。」
部屋に入り、唐突に話しかけられて戸惑った。
ユキはそう言ったあとすぐに何の躊躇もなく身に着けていた服を脱ぎ始めた。
「俺も、脱げばいいの?」
たぶんこんな事を聞く客なんてなかなか居ないのだろうな、と思いながらも聞いた。
一瞬ユキの動きが止まった。だがすぐに目を細めて笑い出した。
「もしかしてこういうお店初めて?」
「あ・・・、はい。」
雑誌やドラマでしか聞いた事はないが、よく耳にする台詞。
しかし実際こういう言葉を投げかけられると気恥ずかしいものだ。
「最初はシャワー浴びるのよ。ま、おしぼりで拭くだけのお店もあるみたいだけど、うちはちゃんと洗うの。」
俺はここに何をしにきたんだ?
このままユキと束の間の甘美な時間を過ごして家に帰るのか?
そうすればたぶん、また明日からいつもと何ら変わりがない日常の生活が始まる。
「違うんだ!」
性欲を解消しにここに来たのでは無い。それと同時にユキという人間に興味が惹かれたからここに来たとハッキリ思う事もできない。
もしかしたら何か運命のようなものがユキとジュンを引き合わせたのかもしれない。
「お客さん、何しにきたの?」
さっきと同じような細い目をしてユキはそう聞いてきた
ただ部屋といってもそれは部屋と呼べるようなものではなく、広いスペースがカーテンのようなもので仕切られているだけで、よく耳をこらせば隣の部屋で交わされる淫靡な会話や声が聞こえそうになる程だ。だが、それを防ぐ為だろうか、店の中は大音量でトランス系の音楽が流れている。普段そういう音楽は聴かないジュンにとってそのBGMは珍しいものではあったが、決して心地よいものではなかった。
とにかく、今まで全く知らなかった世界に足を踏み入れている事が肌で感じられ、否応にも胸の鼓動が高まっていった。
「シャワー、浴びよっか。」
部屋に入り、唐突に話しかけられて戸惑った。
ユキはそう言ったあとすぐに何の躊躇もなく身に着けていた服を脱ぎ始めた。
「俺も、脱げばいいの?」
たぶんこんな事を聞く客なんてなかなか居ないのだろうな、と思いながらも聞いた。
一瞬ユキの動きが止まった。だがすぐに目を細めて笑い出した。
「もしかしてこういうお店初めて?」
「あ・・・、はい。」
雑誌やドラマでしか聞いた事はないが、よく耳にする台詞。
しかし実際こういう言葉を投げかけられると気恥ずかしいものだ。
「最初はシャワー浴びるのよ。ま、おしぼりで拭くだけのお店もあるみたいだけど、うちはちゃんと洗うの。」
俺はここに何をしにきたんだ?
このままユキと束の間の甘美な時間を過ごして家に帰るのか?
そうすればたぶん、また明日からいつもと何ら変わりがない日常の生活が始まる。
「違うんだ!」
性欲を解消しにここに来たのでは無い。それと同時にユキという人間に興味が惹かれたからここに来たとハッキリ思う事もできない。
もしかしたら何か運命のようなものがユキとジュンを引き合わせたのかもしれない。
「お客さん、何しにきたの?」
さっきと同じような細い目をしてユキはそう聞いてきた
5
ジュンはまっすぐ店の方に歩きはじめた。
今日を逃してはいけない気がしたのだ。
店も分かったし、ユキという名前も知っている。また今度、という言葉が脳裏をかすめた。しかし、今日を逃すと、二度とユキに会うことができない。それどころか、誰とも口が聞けなくなるような気さえしていた。
そのような切迫した感覚のなか、その足取りは軽いというほどさらさらしていないし、重いというほどどっしりしていない。
後ろ姿は、何も知らない無邪気な子供のようでもあり、全てを知り尽くした分別ある老人のようでもあった。あるいは、そのどちらでもない無機質な機械にも見えた。
とにかく(外見上は)ごく自然に、店の奥へと進んでいった。
中に入ると、赤みがかった間接照明でぼんやりとしている。目の前に背の高い店長らしき男がいた。ジュン自身、なかなか背が高いほうだったが、その男はそれより頭一つ抜きん出ていた。
ただ、大きさ故の威圧感はなく、その視線からは優しささえ感じられた。
それはもしかすると、捨てられた子犬に向けられるそれのように、優しさの中に哀れみを含んでいるのかもしれない。
店長がカウンター越しに何か言った。
ジュンはよく分からず、どうとでもとれるような、「ええ。」という返事をして、周りを見回した。
待合室をかねているようで、先に入った男を見つけた。
街を歩くおどおどした姿とは一転して、実に堂々としている。
人のことを好きになることなどない、いや、正確には“なかった”かもしれないが、反面、人を嫌うこともほとんどない。
ただ、この男だけはどうも気に食わない。それが、どうしてなのかはまだ分からないが、憎しみとも捉えることのできる感情が、腹の中で膨らむのが分かった。
「12.000円です。」
店長が言った。
「え?」
「ですから、ご指名なさるということなので、別途料金がかかり、12.000円になります。」
さっきの「ええ。」はそういうことになったのか、とジュンは納得した。
「あっ、はい。」
ジュンは後ろポケットから財布を抜き出し、お金を支払った。
引き換えに、厚いファイルのようなものをもらい、男とは反対側のソファーに座った。
男は、にやにやとジュンを一瞥すると、視線をたばこの先にやり、火を点けた。灰皿を見ると、これで3本目のようだ。
ジュンはファイルを開いた。
想像どおり女の子を選ぶカタログだったが、その写真の女の子は、不自然なほど、みんな綺麗で、ひどく驚いた。
1枚1枚ページをめくり、ユキを見つけた。
「すいません。この女の子がいいんですが。」
その時、奥から女の子が出てきて、男をつれて戻っていった。
ユキではなかった。
ユキではなかったが、やっぱりその男には不釣り合いの綺麗な人で、ショックだった。
「かしこまりました。すぐ準備させますので、そのままかけてお待ち下さい。」
そう言われ、しばらく待っていると、奥からユキが出てきた。当然のようにジュンの手を取り、狭い部屋へと誘った。
今日を逃してはいけない気がしたのだ。
店も分かったし、ユキという名前も知っている。また今度、という言葉が脳裏をかすめた。しかし、今日を逃すと、二度とユキに会うことができない。それどころか、誰とも口が聞けなくなるような気さえしていた。
そのような切迫した感覚のなか、その足取りは軽いというほどさらさらしていないし、重いというほどどっしりしていない。
後ろ姿は、何も知らない無邪気な子供のようでもあり、全てを知り尽くした分別ある老人のようでもあった。あるいは、そのどちらでもない無機質な機械にも見えた。
とにかく(外見上は)ごく自然に、店の奥へと進んでいった。
中に入ると、赤みがかった間接照明でぼんやりとしている。目の前に背の高い店長らしき男がいた。ジュン自身、なかなか背が高いほうだったが、その男はそれより頭一つ抜きん出ていた。
ただ、大きさ故の威圧感はなく、その視線からは優しささえ感じられた。
それはもしかすると、捨てられた子犬に向けられるそれのように、優しさの中に哀れみを含んでいるのかもしれない。
店長がカウンター越しに何か言った。
ジュンはよく分からず、どうとでもとれるような、「ええ。」という返事をして、周りを見回した。
待合室をかねているようで、先に入った男を見つけた。
街を歩くおどおどした姿とは一転して、実に堂々としている。
人のことを好きになることなどない、いや、正確には“なかった”かもしれないが、反面、人を嫌うこともほとんどない。
ただ、この男だけはどうも気に食わない。それが、どうしてなのかはまだ分からないが、憎しみとも捉えることのできる感情が、腹の中で膨らむのが分かった。
「12.000円です。」
店長が言った。
「え?」
「ですから、ご指名なさるということなので、別途料金がかかり、12.000円になります。」
さっきの「ええ。」はそういうことになったのか、とジュンは納得した。
「あっ、はい。」
ジュンは後ろポケットから財布を抜き出し、お金を支払った。
引き換えに、厚いファイルのようなものをもらい、男とは反対側のソファーに座った。
男は、にやにやとジュンを一瞥すると、視線をたばこの先にやり、火を点けた。灰皿を見ると、これで3本目のようだ。
ジュンはファイルを開いた。
想像どおり女の子を選ぶカタログだったが、その写真の女の子は、不自然なほど、みんな綺麗で、ひどく驚いた。
1枚1枚ページをめくり、ユキを見つけた。
「すいません。この女の子がいいんですが。」
その時、奥から女の子が出てきて、男をつれて戻っていった。
ユキではなかった。
ユキではなかったが、やっぱりその男には不釣り合いの綺麗な人で、ショックだった。
「かしこまりました。すぐ準備させますので、そのままかけてお待ち下さい。」
そう言われ、しばらく待っていると、奥からユキが出てきた。当然のようにジュンの手を取り、狭い部屋へと誘った。
4
そのような思いにとらわれながら、ジュンは二人の後を付いていった。
ユキ達の働いている店までは歩いておよそ五分とかからないところにあり、
彼を自らの存在意義という人にとっての永遠の課題に直面させる大元の原因となった
二人はその店の奥へと姿を消した。
その姿を見送りながら、彼はあの人と話がしてみたい、という強い衝動に襲われた。
あの内一人からは自分と似たもの、近いものを感じる。根拠はさっきの会話だけしかないが、その確信めいた思いは彼の心を捉えて離さない。
ジュンは店の前にある鮮やかなピンク色の看板に目をやり、
そして財布を取り出して所持金を確かめた。
(…現金で3万円か…)
彼には実家からの仕送りと奨学金以外には大した収入もない。
しかし、何ら特別金のかかるような活動や趣味があるわけでもないので
金銭的には比較的余裕があった。財布を閉じてポケットにしまい、
店の方へ近づこうと一歩踏み出した後、彼は足を止めた。
(待てよ、この店に入るってことは…そういうことになる、ってことか?)
ジュンは童貞だ。別にそれを恥ずかしいこととは思っていないし、
それをさっさと捨ててしまわなくてはならないというようなこの年代の男性に比較的多い強迫観念めいたものも持ち合わせていない。
だが、それをこんな形で失う、というのはどうなのだろう。
話したこともない人間に、自分の最も弱い部分をさらけ出す勇気が自分にあるのか。
しかし、ユキと話すには、この店に入るほか方法はないというのも事実。
彼女とならきっと分かり合える。俺のこの空虚感を埋めてくれる。
本当に?たぶん。根拠は?ない。じゃあなぜそう思う?わからない。
いろいろな疑問が浮かんでは消え、彼はその思考の連鎖から逃れることができず
しばらくその場に立ち尽くしていた。
気がつけば日は落ち、あたりは極彩色のネオンに支配されていた。
人っ子一人いなかったこの通りにも辺りを伺うような目でおどおどした様子の男や
高価な服やアクセサリに身を包んだ女たちが現れだした。
もはや彼の時間ではない。そう、夜が来たのだ。
そのおどおどした様子の男は彼の横を足早に過ぎ去ると迷い無くユキのいる店へと入っていった。その姿を見て、ジュンは決めた。
ユキ達の働いている店までは歩いておよそ五分とかからないところにあり、
彼を自らの存在意義という人にとっての永遠の課題に直面させる大元の原因となった
二人はその店の奥へと姿を消した。
その姿を見送りながら、彼はあの人と話がしてみたい、という強い衝動に襲われた。
あの内一人からは自分と似たもの、近いものを感じる。根拠はさっきの会話だけしかないが、その確信めいた思いは彼の心を捉えて離さない。
ジュンは店の前にある鮮やかなピンク色の看板に目をやり、
そして財布を取り出して所持金を確かめた。
(…現金で3万円か…)
彼には実家からの仕送りと奨学金以外には大した収入もない。
しかし、何ら特別金のかかるような活動や趣味があるわけでもないので
金銭的には比較的余裕があった。財布を閉じてポケットにしまい、
店の方へ近づこうと一歩踏み出した後、彼は足を止めた。
(待てよ、この店に入るってことは…そういうことになる、ってことか?)
ジュンは童貞だ。別にそれを恥ずかしいこととは思っていないし、
それをさっさと捨ててしまわなくてはならないというようなこの年代の男性に比較的多い強迫観念めいたものも持ち合わせていない。
だが、それをこんな形で失う、というのはどうなのだろう。
話したこともない人間に、自分の最も弱い部分をさらけ出す勇気が自分にあるのか。
しかし、ユキと話すには、この店に入るほか方法はないというのも事実。
彼女とならきっと分かり合える。俺のこの空虚感を埋めてくれる。
本当に?たぶん。根拠は?ない。じゃあなぜそう思う?わからない。
いろいろな疑問が浮かんでは消え、彼はその思考の連鎖から逃れることができず
しばらくその場に立ち尽くしていた。
気がつけば日は落ち、あたりは極彩色のネオンに支配されていた。
人っ子一人いなかったこの通りにも辺りを伺うような目でおどおどした様子の男や
高価な服やアクセサリに身を包んだ女たちが現れだした。
もはや彼の時間ではない。そう、夜が来たのだ。
そのおどおどした様子の男は彼の横を足早に過ぎ去ると迷い無くユキのいる店へと入っていった。その姿を見て、ジュンは決めた。
第3話
@ @ @
俺の名前はジュン。どこにでもありそうな、平凡な名前だ。
俺は大学生で、ただそれだけで、特に何もしていない。
クラブ?サークル?
ああいう馴れ合いの人付き合いは苦手だ。
それに・・・
何もしていない理由は、したい事が何もないからだ。
だけど大好きな音楽を聴きながら黄昏に浸り、夕日に染まる街をあてもなく歩くのは好きだ。
それも、ただそれだけのハズだった。
夜が街を覆い、そしてドロドロした欲望が渦を巻く時間までには家に帰る。
今日も、そのハズだった。
………………。
道の真ん中で足を止めて何か喋っている女性二人。真剣に話をしているようなのだが、その二人の表情からは怒りや悲しみといった感情は読み取れない。
ただ、何かその二人からは哀愁のようなものを感じた。
普段なら街の喧騒や他人の会話など極力聞かないようにしているのだが、ジュンはこの二人の女性の会話を何とか聞き取ろうと耳を澄ませながら歩いた。何故この二人が気になったのか、という疑問すら頭に浮かばないくらいに集中していた。新しいCDを初めて聞く時のように。
(俺が通り過ぎてしまうまでに、何を話しているか分かるかな。)
「あたしも結婚できるかな?」
「なんでそんなこというの?」
「でも、ユキだってそう思っているんでしょ?」
(結婚?二人とも綺麗なんだから結婚できるかどうかなんて心配いらないだろ。)
「それは…。今の仕事をずっと続けてたら結婚はできないかもしれないよ。でも、私には夢があるの。この仕事はお金の為。だから、私はいつまでもこんな仕事続けるつもりはないよ。」
「こんな仕事、って…。私は、私には他に何も無いから…だからこの仕事をそんな風に言わないで。ユキにはそんな風に言われたくないよ。」
「ヒロミ…。…ごめんね。私ちょっとムキになっちゃったかもしれないね。」
ヒロミの目は少し潤んでいた。
一人を嫌うという理由が寂しいからではなく、他人から馬鹿にされたくないという思いからきているユキにとって、ヒロミという存在はただ、自分をよく見せるための装飾品のようなものであった。
だが、ヒロミにとってのユキは、もっと大きなものだった。友達と呼べるような、仲間と呼べるような、むしろヒロミはユキの事を姉のように思っていたのかもしれない。
実の姉は結婚してしまう。
だけどユキは自分と同じ仕事をしていて、そしていつも一緒に居てくれる。
「お店、行こっか。遅れたら怒られちゃうよ。」
ユキはヒロミの手を引いて、そして喧騒の中へと消えて行った。
ジュンは二人の姿がこのまま夜の街の中でふっと消えてしまうような錯覚に捉われた。
俺には…何かあるのか。
何もしていない理由は、したい事が何もないからだ。
あの二人の女性はたぶん世間から少し蔑まれているような仕事をしているんだと思う。
蔑まれている?
あの女性のうち一人は夢があり、その為に生きている。もう一人は俺と同じ?いや、俺は何もしていないけれど、あの人は少なくとも仕事と呼べる事をしている。
だから、本当に蔑まれなければいけないのは俺みたいな人間の事なんだと思う。何もしてない、ただの大学生。大学生らしく友達と遊んだり、女の話をしたり、合コンしたり…そういう事すらしていない。
俺は一体何ものなんだ?
俺の名前はジュン。どこにでもありそうな、平凡な名前だ。
俺は大学生で、ただそれだけで、特に何もしていない。
クラブ?サークル?
ああいう馴れ合いの人付き合いは苦手だ。
それに・・・
何もしていない理由は、したい事が何もないからだ。
だけど大好きな音楽を聴きながら黄昏に浸り、夕日に染まる街をあてもなく歩くのは好きだ。
それも、ただそれだけのハズだった。
夜が街を覆い、そしてドロドロした欲望が渦を巻く時間までには家に帰る。
今日も、そのハズだった。
………………。
道の真ん中で足を止めて何か喋っている女性二人。真剣に話をしているようなのだが、その二人の表情からは怒りや悲しみといった感情は読み取れない。
ただ、何かその二人からは哀愁のようなものを感じた。
普段なら街の喧騒や他人の会話など極力聞かないようにしているのだが、ジュンはこの二人の女性の会話を何とか聞き取ろうと耳を澄ませながら歩いた。何故この二人が気になったのか、という疑問すら頭に浮かばないくらいに集中していた。新しいCDを初めて聞く時のように。
(俺が通り過ぎてしまうまでに、何を話しているか分かるかな。)
「あたしも結婚できるかな?」
「なんでそんなこというの?」
「でも、ユキだってそう思っているんでしょ?」
(結婚?二人とも綺麗なんだから結婚できるかどうかなんて心配いらないだろ。)
「それは…。今の仕事をずっと続けてたら結婚はできないかもしれないよ。でも、私には夢があるの。この仕事はお金の為。だから、私はいつまでもこんな仕事続けるつもりはないよ。」
「こんな仕事、って…。私は、私には他に何も無いから…だからこの仕事をそんな風に言わないで。ユキにはそんな風に言われたくないよ。」
「ヒロミ…。…ごめんね。私ちょっとムキになっちゃったかもしれないね。」
ヒロミの目は少し潤んでいた。
一人を嫌うという理由が寂しいからではなく、他人から馬鹿にされたくないという思いからきているユキにとって、ヒロミという存在はただ、自分をよく見せるための装飾品のようなものであった。
だが、ヒロミにとってのユキは、もっと大きなものだった。友達と呼べるような、仲間と呼べるような、むしろヒロミはユキの事を姉のように思っていたのかもしれない。
実の姉は結婚してしまう。
だけどユキは自分と同じ仕事をしていて、そしていつも一緒に居てくれる。
「お店、行こっか。遅れたら怒られちゃうよ。」
ユキはヒロミの手を引いて、そして喧騒の中へと消えて行った。
ジュンは二人の姿がこのまま夜の街の中でふっと消えてしまうような錯覚に捉われた。
俺には…何かあるのか。
何もしていない理由は、したい事が何もないからだ。
あの二人の女性はたぶん世間から少し蔑まれているような仕事をしているんだと思う。
蔑まれている?
あの女性のうち一人は夢があり、その為に生きている。もう一人は俺と同じ?いや、俺は何もしていないけれど、あの人は少なくとも仕事と呼べる事をしている。
だから、本当に蔑まれなければいけないのは俺みたいな人間の事なんだと思う。何もしてない、ただの大学生。大学生らしく友達と遊んだり、女の話をしたり、合コンしたり…そういう事すらしていない。
俺は一体何ものなんだ?
2
@ @ @
彼女は時計を気にしている。針は大体十六時五分を指しているが、文字盤には1から12のどの数字も、印もなく、正確な時間はわからない。
先月、男からプレゼントされたばかりの時計はシンプルで、洗練された大人の魅力を醸し出している。その先の指には、いくつかの指輪がはめられていて。どれも高級ブランドらしい主張し過ぎない美しさがあった。
ただ、その上品さが逆に彼女をいくらか幼く見せた。
待ち合わせの時刻は十六時。すでに五分も遅れているが、彼女に焦る様子はない。
場所は地下鉄の出口そばにある大手フランチャイズのカフェで、彼女は人と会うときはいつもそこを待ち合わせに利用する。先に着いた方が何かを飲みながら待てるからだ。
彼女は改札を出ると、バッグからケータイを取り出し、相手に電話をかけた。
相手はもう到着しているようで、かすかだが電話の後ろでカフェ独特の抑揚のない音楽が鳴っているのが聞こえた。
彼女は謝りながら出口の方へ歩いた。遅刻は毎度のことである。というよりも、毎度少し遅れるように行動していると言えばいいだろうか。
彼女は「ひとり」を極端に嫌った。いや、正確には「誰かにひとりと思われること」を嫌っていた。そこにいくらかの侮蔑を感じるし、彼女自身、ひとりきりで街を歩く女性を馬鹿にしているところがあった。
だから、カフェでひとり待つのはいつでも相手だ。
カフェにつくと、やはり抑揚のない音楽が鳴っている。
彼女は好んで音楽を聴かないが、ここで流れる音楽は彼女には心地よかった。自然に聴くことができるし、自然に聴かないことができるからだ。
席を見回すと、女性がひとり笑いかける。
今日待ち合わせたのは同僚である。出勤の前に少し買い物に付き合うことになっている。
姉が結婚するらしく、そのお祝いを探したいというのだ。
しばらくどんなものにするか話した後、カフェを出た。
二人はいくつか互いの行きつけの店を回って、キッチン雑貨をいくつかまとめて送るようにした。
誰かを思って何かを選ぶのは楽しかった。
そうしている間に十七時を回り、彼女たちは自分たちの店へと向かいはじめた。
買い物していた場所からそう遠くはないが、周囲の様子はガラリと違ってくる。
何よりもうるさいのだ。誰が叫んでいるわけでもなく、何が鳴っているわけでもない。足音や会話、鞄の中身の揺れる音、そんな些細な音の集合に耳を覆いたくなる。
彼女はその雑踏のなかで、自分がふっと消えてしまうことを想像する。
誰も気付かない。一緒に歩いている友人さえ。
そういう漠然とした不安を飲み込むように彼女は少し大きな声で話す。
彼女の声はとなりにいる友人にも届いている。
友人の声も彼女に届いている。
「あたしも結婚できるのかな?」
友人の一言に彼女は立ち止まった。そんなつもりはなかったが、足が止まってしまった。
驚いて、友人も振り返る。
彼女も少なからず同じことを不安に思っていたが、それを口に出すと、全てが台無しになることもわかっていた。だから、友人が耐えきれずに発したその言葉が許せなかった。
「なんでそんなこというの?」
彼女の声はいっそう大きくなった。
「でも、ユキだってそう思ってるんでしょ?」
声が震えている。隠していた不安を表に出したことで、感情をコントロールしきれなくなっている。
彼女は時計を気にしている。針は大体十六時五分を指しているが、文字盤には1から12のどの数字も、印もなく、正確な時間はわからない。
先月、男からプレゼントされたばかりの時計はシンプルで、洗練された大人の魅力を醸し出している。その先の指には、いくつかの指輪がはめられていて。どれも高級ブランドらしい主張し過ぎない美しさがあった。
ただ、その上品さが逆に彼女をいくらか幼く見せた。
待ち合わせの時刻は十六時。すでに五分も遅れているが、彼女に焦る様子はない。
場所は地下鉄の出口そばにある大手フランチャイズのカフェで、彼女は人と会うときはいつもそこを待ち合わせに利用する。先に着いた方が何かを飲みながら待てるからだ。
彼女は改札を出ると、バッグからケータイを取り出し、相手に電話をかけた。
相手はもう到着しているようで、かすかだが電話の後ろでカフェ独特の抑揚のない音楽が鳴っているのが聞こえた。
彼女は謝りながら出口の方へ歩いた。遅刻は毎度のことである。というよりも、毎度少し遅れるように行動していると言えばいいだろうか。
彼女は「ひとり」を極端に嫌った。いや、正確には「誰かにひとりと思われること」を嫌っていた。そこにいくらかの侮蔑を感じるし、彼女自身、ひとりきりで街を歩く女性を馬鹿にしているところがあった。
だから、カフェでひとり待つのはいつでも相手だ。
カフェにつくと、やはり抑揚のない音楽が鳴っている。
彼女は好んで音楽を聴かないが、ここで流れる音楽は彼女には心地よかった。自然に聴くことができるし、自然に聴かないことができるからだ。
席を見回すと、女性がひとり笑いかける。
今日待ち合わせたのは同僚である。出勤の前に少し買い物に付き合うことになっている。
姉が結婚するらしく、そのお祝いを探したいというのだ。
しばらくどんなものにするか話した後、カフェを出た。
二人はいくつか互いの行きつけの店を回って、キッチン雑貨をいくつかまとめて送るようにした。
誰かを思って何かを選ぶのは楽しかった。
そうしている間に十七時を回り、彼女たちは自分たちの店へと向かいはじめた。
買い物していた場所からそう遠くはないが、周囲の様子はガラリと違ってくる。
何よりもうるさいのだ。誰が叫んでいるわけでもなく、何が鳴っているわけでもない。足音や会話、鞄の中身の揺れる音、そんな些細な音の集合に耳を覆いたくなる。
彼女はその雑踏のなかで、自分がふっと消えてしまうことを想像する。
誰も気付かない。一緒に歩いている友人さえ。
そういう漠然とした不安を飲み込むように彼女は少し大きな声で話す。
彼女の声はとなりにいる友人にも届いている。
友人の声も彼女に届いている。
「あたしも結婚できるのかな?」
友人の一言に彼女は立ち止まった。そんなつもりはなかったが、足が止まってしまった。
驚いて、友人も振り返る。
彼女も少なからず同じことを不安に思っていたが、それを口に出すと、全てが台無しになることもわかっていた。だから、友人が耐えきれずに発したその言葉が許せなかった。
「なんでそんなこというの?」
彼女の声はいっそう大きくなった。
「でも、ユキだってそう思ってるんでしょ?」
声が震えている。隠していた不安を表に出したことで、感情をコントロールしきれなくなっている。
1
彼はいつものように特に目的もないまま街をうろついていた。
周りは自らの(あるのか否かはわからないが)目的のため路上を急ぐ人々。
そこではお互いの存在が認識されつつも決して関わりあうことはない。
儀礼的無関心という社会のルールに疑問を持ちつつもそのルールを破ろうとはしない。
彼もまた、そんなごく平凡な大衆の一人にすぎなかった。
しかし、彼が「平凡」であるということが一体どういうことなのか、という事を忘れてしまうのは
そう遠いことではなかった。
彼は公立の大学に通う二回生である。
特にクラブやサークルといった類の団体に所属しているわけではないが他に何かしたい事や
しなくてはならない事があるわけでもない。
だから彼が毎日街に出ているのも何か理由があってというわけではない。
ただ、他に行くべき場所もなかったからだ。
街にはいろいろな人がいる。だから自分のようなヤツもいていいはずだろう。
それが彼がそこにいる理由。
その日も彼は当ても無く、i-Podから流れる音楽とともに街を歩き回っていた。
時刻は十七時を越え、日差しも弱まりだし夜の足音が近づいてくるのが感じとれた。
街にはネオンが灯りだし、また色々な欲望に突き動かされた人々が昼間のビジネスマンに代わって
闊歩しだす時間までまだ少し時間がある。
この時間が彼は好きだった。一日のたった二十四分の一足らずしかないこの時間。
この昼と夜の狭間の時間には街は誰のものでもなくなる。その事が彼には素晴らしい事に思えた。
そんな至福の時間に浸っていた彼の気分を害する事が起こった。i-Podの充電が切れたのである。
音楽は人の気分を左右するのに長けている。彼もその魔力に執り付かれた者の一人であり、
このことが彼の陶酔感に水を差してしまった。
「くそっ」誰に聞こえることもないような大きさでつぶやき、耳からイヤホンをはずす。
たちまち聞こえる街の喧騒。それはひそひそとした秘密の話であり、地方から出てきた客を
待ち構える鮫の呼び声であり、誰もが関わろうとしないトラブルの種であり、その他のあらゆるものであった。
そんなメロディーを伴わないBGMをバックに街をいくのはいささか気がのらないものの、耳障りなレベルではなかった。
夜はまだ訪れていない。夜のそれは今とは比べ物にならない。まだ街は「彼の時間」であった。
というわけで彼は夜が訪れるまでいましばらくのひと時を楽しむべく行進を再開した。
しばらく進むと前方から二人の女性が歩いてくるのが見て取れた。二人は何か会話しているようだが急に足をとめて
熱心に話し合いを始めた。声も大きいので話している内容も聞き取れてしまう。
なんとなくバツの悪い気分になり、極力気にしないようにと思ったが、何を話しているのかという
普段なら決して抱かない疑問が何故かその時はひどく気になったのだった。
そこで彼は不自然には見えない程度まで歩くスピードを落とし、聞き耳を立てながら二人に近づいていった。
周りは自らの(あるのか否かはわからないが)目的のため路上を急ぐ人々。
そこではお互いの存在が認識されつつも決して関わりあうことはない。
儀礼的無関心という社会のルールに疑問を持ちつつもそのルールを破ろうとはしない。
彼もまた、そんなごく平凡な大衆の一人にすぎなかった。
しかし、彼が「平凡」であるということが一体どういうことなのか、という事を忘れてしまうのは
そう遠いことではなかった。
彼は公立の大学に通う二回生である。
特にクラブやサークルといった類の団体に所属しているわけではないが他に何かしたい事や
しなくてはならない事があるわけでもない。
だから彼が毎日街に出ているのも何か理由があってというわけではない。
ただ、他に行くべき場所もなかったからだ。
街にはいろいろな人がいる。だから自分のようなヤツもいていいはずだろう。
それが彼がそこにいる理由。
その日も彼は当ても無く、i-Podから流れる音楽とともに街を歩き回っていた。
時刻は十七時を越え、日差しも弱まりだし夜の足音が近づいてくるのが感じとれた。
街にはネオンが灯りだし、また色々な欲望に突き動かされた人々が昼間のビジネスマンに代わって
闊歩しだす時間までまだ少し時間がある。
この時間が彼は好きだった。一日のたった二十四分の一足らずしかないこの時間。
この昼と夜の狭間の時間には街は誰のものでもなくなる。その事が彼には素晴らしい事に思えた。
そんな至福の時間に浸っていた彼の気分を害する事が起こった。i-Podの充電が切れたのである。
音楽は人の気分を左右するのに長けている。彼もその魔力に執り付かれた者の一人であり、
このことが彼の陶酔感に水を差してしまった。
「くそっ」誰に聞こえることもないような大きさでつぶやき、耳からイヤホンをはずす。
たちまち聞こえる街の喧騒。それはひそひそとした秘密の話であり、地方から出てきた客を
待ち構える鮫の呼び声であり、誰もが関わろうとしないトラブルの種であり、その他のあらゆるものであった。
そんなメロディーを伴わないBGMをバックに街をいくのはいささか気がのらないものの、耳障りなレベルではなかった。
夜はまだ訪れていない。夜のそれは今とは比べ物にならない。まだ街は「彼の時間」であった。
というわけで彼は夜が訪れるまでいましばらくのひと時を楽しむべく行進を再開した。
しばらく進むと前方から二人の女性が歩いてくるのが見て取れた。二人は何か会話しているようだが急に足をとめて
熱心に話し合いを始めた。声も大きいので話している内容も聞き取れてしまう。
なんとなくバツの悪い気分になり、極力気にしないようにと思ったが、何を話しているのかという
普段なら決して抱かない疑問が何故かその時はひどく気になったのだった。
そこで彼は不自然には見えない程度まで歩くスピードを落とし、聞き耳を立てながら二人に近づいていった。

