小説の「書き出し」

明治〜昭和・平成の作家別書き出し

「恭三の父」 加能作次郎

2011-09-19 14:19:34 | 作家カ、キ
    手 紙
 恭三は夕飯後例の如く村を一周して帰って来た。
 帰省してから一ヵ月余になった。昼はもとより夜も暑いのと蚊が多いのとで、予(かね)て計画して居た勉強などは少しも出来ない。話相手になる友達は一人もなし毎日々々単調無味な生活に苦しんで居た。仕事といへば昼寝と日に一度海に入るのと、夫々(それぞれ)故郷へ帰って居る友達へ手紙を書くのと、かうして夕飯後に村を一周して来ることであった。彼は以上の事を殆(ほとん)ど毎日欠かさなかった。中にも手紙を書くのと散歩とは欠かさなかった。方々に居る友達へ順繰(じゅんくり)に書いた。大方端書(はがき)であった。彼は誰にも彼にも田舎生活の淋しい単調なことを訴えた。そして日々の出来事をどんなつまらぬ事でも書いた。隣家の竹垣に蝸牛(かたつむり)が幾つ居たといふことでも彼の手紙の材料となった。何にも書くことがなくなると、端書に二字か三字の熟語の様なものを書いて送ることもあった。斯(こ)んなことをするのは一つは淋しい平凡な生活をまぎらすためでもあるが、どちらかと言へば友達からも毎日返事を貰ひたかったからである。友達からも殆ど毎日消息があったが時には三日も五日も続いて来ないこともあった。そんな時には彼は堪らぬ程淋しがった。郵便は一日に一度午後の八時頃に配達して来るので彼は散歩から帰って来ると来てゐるのが常であった。
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