小説の「書き出し」

明治〜昭和・平成の作家別書き出し

「恩人」 豊島興志雄

2011-11-24 16:41:01 | 作家ツ−ト
 年毎に彼の身体に悪影響を伝へる初春の季節が過ぎ去った後、彼はまた静かなる書斎の生活をはじめた、去ってゆく時の足跡とぢっと見守ってゐるやうな心地をし乍(なが)ら。木蓮(もくれん)の花が散って、燕が飛び廻るのを見守っては、只悠久なるものヽ影をのみ追った。然(しか)しその影の淡々(あはあは)しいのを彼の心が見た。
 前日からの風が夜のうちに止んで、朗らかな朝日の影が次第に移っていった。その時女中が一封の信書を彼の書斎に届けた。裏を返すと彼の心は一瞬の間緊縮された。手紙は京都の若い叔父からであった。彼は暫く眼を空間に定めて、それから封を切ってみた。断片的な簡短なる文句が続いてゐる。
  一度御地の旧物(きゅうぶつ)を訪はんと存候(ぞんじそうろう)へど、閑暇――閑暇はあり乍ら心臆して未だその期を得ざるまゝに日を暮し候。その後出京の念漸く成りて本夕出発、明日は多分御面接を得ることヽ存候。御新棲の有様も伺ひたくと存候へば……
それから又こんな文句もあった。
  但し此度は微行(びこう)に候、微行とは誇言なれど、此度の出京は君等の外誰も知る者なしとの意に候。然しそは特別の用件あるが故には候はず。たゞ一泊の訪問なるを予め御報申さんが為に候……
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