小説の「書き出し」

明治〜昭和・平成の作家別書き出し

「灰燼(かいじん)」 徳富蘆花

2010-03-22 05:08:03 | 作家ツ−ト
勝てば官軍負けては賊の名を負わされて、思い出ずれば去ぬる二月降り積む雪を落花と蹴散らして麑城(げいじょう)を出でし一万五千の健児も此処(ここ)に傷(きずつ)き彼処(かしこ)に死し、果ては四方より狩り立てらるる怒猪(いかりい)の牙を咬(か)んでここ日州永井の一村に楯籠りしが、今は弾尽き糧尽き勢尽きて、大方は白旗を樹(た)てける中に、せめて一期(いちご)の思出に稲麻竹(とうまちく)葦(い)の此重囲(ちょうい)をば見事蹴破って、我此翁(おう)と故山の土 にならばやと、残る一隊三百余人、草鞋(わらんじ)の紐緊々(ひしひし)と引しめ、明治十年八月十七日の夜をこめて月影闇(くら)き可愛(かわい)が岳の山路にかかりぬ。
小荷駄をば一切取り棄てつ。各自(てんで)に糧嚢(りょうのう)を帯び、銃を提(ひっさ)げ、太刀を釣り、松明(まつ)を点さず、言(ものい)わず。土人を案内として桐野真先に立てば、薩摩絣の単衣に紺染の兵児(へこ)帯一尺余りの小脇差を腰にぼっこみ尻高々とからげて煙草吸い吸い中軍をうつ南洲、村田貴島別府河野野村山野田坂増田の諸将前後を擁(よう)し、殿(しんがり)には逸見の一 隊。仮令(よしや)鉄壁にもあれ、我前に立たん程のものは蹴破って行かんものと思い込んでは、座(そぞ)ろに打咲まれつ。
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