硬派な生き方を選択しながらも、都会の生き方を忘れずに暮らす「頑固なボス」の痛快辛口日記

誰かがやらなければならない社会貢献がある。利他主義を貫く信条を主張するボスの独り言!

勤労高校生…④

2017-07-13 16:05:56 | 自叙伝

6軒長屋とはいえ、新築で2階建ては過ごしやすかった。

 

さすがに冬になっても屋根の雪降ろしをせずにすんだことはありがたかった。

屋根が雪国バージョンの急こう配であり、トタン板も新しく自然と雪が落ちてくる。

家の中にトイレもあり、水道もある…中学2年生までの超劣悪な暮らしとは何もかもが一変していた。

 

家から汽車の駅までは結構歩く…高台にあった駅までは、「123段」の階段があり冬はキツイ…

 

金に乏しい私の場合は、通学定期を巧みに改ざんした…友人の期限切れの定期を集めては、夜な夜な改ざんに励み3年間で駅員に発覚したことは一度もないほど精巧な出来栄えの定期だった。

ただ、改札口は小走りで行く必要は常にあった。笑

 

高校2年の夏だった。

何と学校へオヤジが来たのだ。

嘘のような本当の話だが、オヤジは私が高校へ進学したことを知らない…

とにかく中学校を卒業した後は、炭鉱へ入るものだと思っていたからだ。だから、自分の部屋にも学ランや勉強道具等は一切置かないようにしていた。

どこかで聞いたのだろう…私の通学先の高校を。血相変えて学校へ来たときは、少々焦ったものだ…

 

「バレたか…」と諦めて、校庭へ降りていき何の用か聞いたが答えなかった。

所在を確認して そそくさとバイクで帰っていったが、「今晩は家に帰らないと、おふくろがヤバイな…」と考え、部活終了後まっすぐ帰宅した。

友人の家を転々としたり、主にバイト先の飯場(おっちゃんたちがメシを食う場所の事)で寝泊まりをしていたので、寝る場所に困ったことはない。

何せ自宅までは遠いのが難点だったのだ。

 

体も大きく そして鍛えられた私に、オヤジは昔のような小言をいう事がなくなった。その分 怒りはおふくろへ向かう訳だが…

 

その頃から成績がみるみる落ちていった…以前は、いつでも復活してやる と思い、何度か復活を果たしたこともあったが、その気持ちはどんどん失せていく。

時期的にも進学先を決める頃でもあり、クラスの連中は自分の成績と見合う大学や ギリギリ可能な「メモリアル受験」を選択する話で相談し合っていた。

この空気からは とにかく逃げ出したかった。

 

選択肢は、就職しかないのか? と。

 

幼い頃から新聞で見ていた サッカーの試合結果。大学や社会人リーグの結果を見ては一喜一憂していたものだ。

昭和40年代の日本リーグでは、釜本さんやネルソン吉村が所属する「ヤンマー」が好きだった。大学リーグでは、早稲田・中央が凌ぎを削る事が多く どちらかに入りたいという希望があった。

 

それも今では夢の夢…何一つかなわぬ夢になった。

 

クラスの担任は保健体育の担当で、人間的に好かないセンコーで相談に値するに至らない…思い切ってサッカー部の監督へ相談したことがある。

高校入学当時の成績…おそらく全体で2番か3番で入学したらしく、B組という事は2番だったとのことだ。

監督曰く…あの成績に戻せば国立の1期・2期も夢じゃなく 授業料もバイト代で充分払える・・・という貴重な情報をもらった事がある。

 

当時の国立大学は、1期・2期の区分で 2期だと室蘭工業大学 小樽商大 弘前大学などが該当する。

1期では北海道大学と内地にはよりどり…山ほどある。しかし、一番のネックは、卒業と同時におふくろを連れて兄の家に連れていく事だ。

 

一方で、私立大学はどうだろうか? と監督に聞いてみたが、入学金や学費を聞いて「目だ飛び出しそうな気分」になったものだ。

とてもアルバイトで支払える金額ではない。

 

一念発起して、おふくろに今一度相談してみたが 結果は同じだった。

学のない両親からすれば、大学の存在価値や社会に出る時の履歴に影響力がある事など理解できるはずがないのだ。

周りのクラスの友人たちは、成績がとんでもなく悪い奴でさえ近畿大学やら ポン大と言われるような地元の大学や およそ聞いたこともないような大学を選択している。入学金や学費の話題など出る訳がないのだ…

 

途方に暮れるのは無理もなかった。

 

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