ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

仕事に就いてから・その10

2006年12月27日 08時22分24秒 | 思い出ねーさん
これからが怒濤の激動の日々のはじまりはじまり。
だから今だに頭の中が整理されていない部分がある。ああやってきたのが果たして関わったみんなに理解してもらえているのか、果たして迷惑と思う人もいたのだろうか、いまだ思い出す度に気持ちがモヤモヤする。
だからこうやって書き出して整理している。

新しい課長はねーさんが入社した少し前に某有名通信会社から転職され、やはり新しい技術の模索をしていた方が就いた。
異業種から入ってきているため、あまりそれまでのやり方にこだわらない感じと変な同情心(過去への執着、変化を拒む心持ちからくる傷のなめあいや愚痴る感じ)がなくドライなあたりは去った課長とある意味同じタイプの人ともいえる。

一時的に別部署を作り、基盤作りしたねーさんらの部署は、この課長に交替と同時に元の部署へ吸収され、さらに大所帯になった。
本格的にそれまでの電算写植を縮小し、DTPへの切替えが始まった。

単純にねーさんらの作業は増える。レイアウトしていく作業は版下側の業務だったのに、それまでを請け負わないといけない。
作業増加、仕事の件数は増える。世の中も景気が上向きだった。

これを機に、先発メンバーのねーさんらは兵隊から脱皮し、仕事の差配や、次から次へと投入される社員・派遣社員の教育等管理側にまわるよう、今後はそちらの方面にシフトするよう課長から伝えられた。
ねーさんにはその方向が向いているくらい言われ。
人に教えてあげるのはやぶさかでないのと、この先オペレーターは派遣で充分という考え方や、先々この部署を地方や海外にシフトする方向にあることも聞いていて、このまま「オペレーター」で居続けても居場所を追われるという危機感もあり引き受けることにした。
やはりここでも先行して例のバイリンガル派遣姉様が教育担当に回っており、独自にかみ砕いたオリジナル教材マニュアルを作成していた。

「すごーい!かっこいい!!なんなのだ!この姉様は!!」

まだ若かったねーさんはまたもや素直に感動した。

とりあえずねーさんもその教材をいただき、それを元に新しく入ってきた派遣や社員の方々へ教える日々が始まった。
こんな日々が辞めるまで続くことになるとは思いもせずに。(笑)

「人に教えるというのはなんて難しいんだろう。」つくづく痛感した。

全く同じ教え方をしても飲み込み方、解釈の違いにものすごい落差がある。
最初はねーさん自身が非常に悩んだ。
「自分のかみ砕き方が甘いのかな?かみ砕けてないから伝わらないのかな?」と。
大抵2週間も経つと課長に呼ばれ、「今度入れた人はどうかな。覚えないようだったら切るから。躊躇せず言うように。」

げーっ!すごいプレッシャーだ。

入ってきた人の覚えの悪さはねーさん自身の教え方にだって左右されるだろうし。
バイリンガル派遣姉様も言った。「そんな思いやり深く考えてあげる必要はないのよ。決まったことを決まった通りに教えてダメなものはダメだから。あなたが悪いんじゃないから。あなたはそのくらい言っていい人なんだから。」

「うわぁ、ねーさんそんな偉くないので…参ったなぁ。こういう責任を背負わされるのはごめんだなぁ。あの人の教え方が悪いから覚えられない、なーんて言われた日にゃたまらねーぜ。」そんな思いがした。

まだその時は20代半ばだ。当時が今のねーさんの年齢だったら躊躇なくそういう考え方に反論し、意見がぶつかっていそうだ。会社にとって本当に馬力になる人材を教材ひとつの覚え方によって短期間で判断する、短絡的な考え方はいまだに納得できない。

教えた相手は遥かに年上の人もいたり、社外の協力メーカーの方達、近くても3つくらい年上といった感じで、体育会系部活を経験しているねーさんにとっては年上というだけで結構緊張していた。

しかしその後も課長からのことある毎に「本当に使える人だけにしない?派遣のあの人はちょっとどうなのかなぁ?本当に仕事に役立ってるの?」
先発メンバーの正社員のねーさんらに何度となく聞いてきた。

毎度嫌な気分がした。
仕事は出来るに越したことはないが、この女性ばかりの大所帯で仕事をこなしていくのに課長のいう「仕事ができる人(ねーさんの中では「似非インテリ女」に位置する)」ばかりでは、まとまらないのだ、逆に。できる女性はやはり大所帯の中では敵を作ってしまいがちだ。
できる女性同士の足の引っ張りあいも何度となく目の当たりにした。
「どっちでもいいからさ…これだから似非インテリ女はキライ。」何度思ったことか。
それが仕事に影響しなければ問題は無いが、かならず今度は仕事の差配をするこちら側にとばっちりがくる。
おまけに「差配の仕方に問題があるんじゃ?」くらいの言い掛かりがあったり。
「知識や経歴や留学経験や海外に友人がいるとかそんなのどっちでも良くて、英語の発音が違ってるとかそんなこたーどっちでもいいし。前の外資系会社のボスはこうだったとか、外資系は甘くないとか、ここの会社の仕事の段取りが悪いから3年後の留学計画が伸びそうだぁ?、あぁそうですか、だからなに?
ここは日本です、ここはここのやり方に柔軟に合わせてしなやかに対応できないもんでしょうか?なんであなた達そんな偉いわけ?」

そんな中でちょっぴりドン臭い(失礼)人や仕事30アフターファイブ70といった感じのイケイケねーさん達は潤滑油になる。ここぞという時に頼りになる。
課長目には辞めさせたいモード満々だったが、ねーさんは「これで部署内のバランスが取れているんですよ。だから辞めさせたい人はいません。」ということは辞めるまで主張してたっけな。



仕事に就いてから・その9

2006年12月21日 18時55分39秒 | 思い出ねーさん
課長は別の会社からヘッドハンティングの声がかかっていた。
別の中堅印刷会社のDTP部門立ち上げを任せたいといったものだった。

とある日ねーさんを含め正社員の3名と課長とで、その会社に訪問したことがあった。
すでに敷地内のある棟の一室がDTP専務ルームとして構築されていた。
それも超かっこよく。

当時のその会社の専務さんに「君達が先行して身につけた力を我が社で存分に発揮してもらいたい。その為のバックアップも惜しまない。」と口説かれた。

まだ入社4年目社会人4年目の若かったねーさんらは困惑した。
なぜってただの視察だと思っていたからだ。
「あ、課長ったら、私達を連れて転職するかどうかを決め兼ねてて顔色が冴えないんだ、最近。」専務さんからの熱烈ラブコールに耳を傾けつつ、心の中でそんなことに思いを巡らせた。

帰り道、一緒に行った他の二人と、「あの専務さんライオネルリッチーにソックリだったよね~!あだ名はライオネルもしくはリチ男にしよう!」と超クダラナイ話で盛り上がった。

この時の課長は腹の中ではかなりの決心をしていたハズだ。それも40を過ぎ転職する年齢には遅いあたりの年齢だったからだ。
そんな心中を察すればクダラナイ「ライオネル!」や「リチ男!」だのそんな感想だけ言ってワイワイしているねーさん達を見てどのように感じたろう?と思う。
実はそんな部分は馬鹿話をしつつも、ねーさんは察していた。
馬鹿話で今日のこの訪問を薄めないと抱えきれない事情が裏にありそうだな…と察したので、馬鹿っ話に花を咲かせた。

課長はあまり詳細は語らずに気楽な感じで誘い出した。
ねーさんらを試した意図もあったかと思う。
試したって、それは悪い意味ではなく、「まだこの会社にいたいと思っているか否か。何か別のことを試してみたいと思っているか、否か。」という意味でだ。
「否である。」という部分を察すれば強引に誘導してきただろう。

ねーさん達には野望も何もなく、はたまた一緒にやっている仲間とオサラバして他社に行く気などさらさらなかった。給料アップが見込めたのに、さらさらそんな気がなかった。
まだこれからが本当に大変な時期なのに、他の人達に任せて去るということが悪いと感じた。

課長は「君達は職場思いだなぁ。ったく。」と苦笑いしつつ、程なく会社を去った。

この課長に託されたミッションは新しい(これからスタンダードになるであろう、そして今まさにそうである)印刷行程の構築で、それの期限が3年だった訳だ。
視察に行った時期とちょうど重なる。
そして多分次のミッションが課長には言い渡されていたはずだ。
それに対して絶対に納得がいかなかった課長の結論だったのだろう。

課長が去って、しばらくしたある日、とある雑誌に視察に行った会社のDTPルームというのが掲載されていた。
人間工学に基づいた設計とやらで、斬新なデザインが取り上げられていた。
それを目にした時、「うわぁ、ここに引っ張ろうとしてくれてたんだ。それもねーさん達を。」
そう思ったら、ちょっぴり胸が切なくなったりした。

「いい仕事するにはいいもん(高いものだろうが安いものだろうが本当においしいものということ)食わんとダメだ!」とか、
DTP検定を主催している側の人(課長の知人)の訪問があった際に、「またくだらん検定作って金儲けしようとして!そういう検定制度を作ったところでいい人間が育つと思うか?ったくしょーもないなぁ。日本のいい職人はこれから育たなくなるわ。(笑)」と言えてしまうこの課長には賛否両論ありそうだが、ねーさんはどうしてだか嫌いになれないお方であった。

そしてあれから15年近く経つ今、この課長も引退間近であるが、忘れた頃にたまに連絡が入る。
かならず仕事の話だ。
印象に残るひとりとしてインプットしていただけているのはありがたい。



仕事に就いてから・その8

2006年12月20日 18時19分05秒 | 思い出ねーさん
DTPによるとある家電メーカーの初の海外向け取扱説明書の第一弾が出来上がった。英語のみの40ページ弱のビデオデッキの説明書。

これも超感動した。
版下上で張り込んでいた作業をコンピューター上で行える訳だが、版下業務をやっていた人たちとああでもない、こうでもないといいながら、出来上がった。
その家電メーカーに納品されるマニュアルの中でもDTP処理によるものは、お初だったようだ。
この記念のマニュアルは当然1冊いただき、今でも大切に持っている。

余談
見返すと、行間や字間にバラつきがあり、今のねーさんだったらダメ出しをするところだが、なぜか愛しくなるんだな。
みんなの純粋な格闘が思い出せて。

これがまだ昭和が終わりに差し掛かるか、かからないかの頃。
この時点でねーさんの勤務していた会社では新しい印刷物作成行程にシフトし始めていた。
そしてまたもや社内上層部の新しい動きの気配がちらほら見え隠れし、新部署を立ち上げた課長が何かについて悩んでいるというか、岐路に立って何かを思案している様子が伺えた。

仕事に就いてから・その7

2006年12月19日 19時28分53秒 | 思い出ねーさん
入社(社会人になって)3年目でこの課長の元で仕事できるのは本当にラッキーだった。
世の中もバブルに差し掛かってきた頃だ。

仕事してたって女性はオシャレして仕事してたいだろう?と、それまでの味気無い制服を廃止してくれたり、机のスペースを一人づつ(L字型に)充分に取ってくれたり、とにかくねーさん達自身が楽しんで意欲的に取り組める工夫を惜しまない方だった。

常にどこぞのメーカーの来客があって新鮮、どこぞの雑誌社や新聞社が取材に来たり(印刷会社としてのDTP導入が早かった為)、WINDOWSでDTPを着手した課長のところに「これからはこの業種はマックだから。マックを導入しなさいよ。」としきりに勧めにきていた外人さんに関われたり、新しいソフトにも触れられる機会も多く、仕事の楽しさプラスかっこいい感もあったりして会社に向かうのが毎日楽しかった時期だ。

作業行程が変わる為の混乱は新部署内ではほとんどなかった。
正社員のねーさん達の他、人材派遣の方を含め計6名ほどでスタートしたその部署は、今でも不思議に感じるくらい、みんなからああでもないこうでもないとアイデアが出てたし、課長不在でも仕事が成り立ち、また大量処理しなければならないDTP作業の効率化をはかるため、スタイルシートによるひな型も必然的に出来上がった。課長から「作りなさい。こうしなさい。」なんていう指示は何ひとつないのに。

いうまでもなく、そのひな型はその家電メーカーが推奨するマニュアル作成のDTPのひな型になっていき、継承され続けた。

とある日、課長と雑談していた時に、「なぜねーさんをメンバーに抜擢したのか」を課長に質問したことがあった。
そうしたら、「君、入社間もないにも関わらず、パーツリストが新しい形に変わる時にプログラム作っちゃったでしょ?あれ遠くでキッチリ見てたんだよ、わしゃ。この子は使えるなって思ったのよ。」
そんな答えだった。

そのプログラムを作っていた時はこの課長が苦手でろくに口もきかず、課長もねーさんのことは眼中にないと思っていたので、「この方は隅々観察してるなぁ…、やな人!(笑)」と感じつつ、「評価してくれていたんだ!嬉しいぞ!」とまたいい気分に浸ったねーさんだった。

ひねくれモノは「そうやって持ち上げておいて利用しようとしてるんでしょ?」と言うだろうが、ねーさんは褒められたらとりあえず有り難く頂戴し、いい気分に浸ることにしてる。(笑)
この件に関しては、当時のねーさんにとっちゃ、「もう少し上司のねぎらいがあってもよかねぇか?」と思っていたので、素直に嬉しくなった。
ひっそり見ててくれたのが嬉しかった。


今日突かれたお言葉・その11

2006年12月18日 08時32分29秒 | 突言葉ねーさん
「あんたは、たくましくなりすぎちゃったわね。可愛くない女ね。まぁまぁ…いいけれどね。(諦)」


ドキューンッ!と母からの一言。
女性であってもたくましさは必要かと思われ、けど、母に言わせると行き過ぎらしい。

ははっ(笑)、心に響きましたなぁ。

甘え上手になります。