「方丈記」鴨長明
“行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶ、うたかた[=水の泡]は、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたる例(ためし)なし。
世の中にある人と、栖(すみか)と、またかくの如し。”
有名な方丈記の出だしを書いてみました。
“行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず”は
よく知られていますが、その次の文章まで読んでみると、
これは「人と栖(すみか)」について語るための序文だと分かります。
「方丈記」は
平安から鎌倉時代へ移りゆく乱世を生きた鴨長明が、
晩年に書いた随筆。
自身の精神性を体現した「方丈の庵」を結び、
そこでの生活と、そこに至るまでの無常感が語られています。
ところで、私は古文とか日本文学に実は疎く、
父より「建築の記述が初めて出てくる書物は方丈記ではないか」と
以前教えてもらったことがあって興味を持ったのですが、
昨年あたりから読み始めたところ、これが、なかなか面白い。
住居とは何か、
何のために建てるのか、
生き方(精神性)は住まいに反映する、と
日頃、住宅建築に携わる者として一度は思うことを、
明瞭・簡潔で美しい文章で表現してくれています。
また、建築的描写も詳細で的確なため、どんな建物だったんだろうと
想像しやすくて、建築好きには堪らない。
そんな方丈記を読んで、今更ですが感動したという次第です(笑)
それに、例えば序章を読んでも、
これが本当に、今から800年前に書かれたものなのか?と
思わず疑ってしまうほど、現在の状況と照らし合わせて
読み進められるところが、また面白いのです。
まずは、方丈記の序章について、
上記の出だしに続く内容を、以下に紹介します。
~~
立派な都市に、棟を並べ(われも、われもという感じでしょうか)
高貴な人も凡人も同じように、屋根の高さを競い合うような家が並んでいます。
年月が過ぎても家は残るものですが、それは本当かとよく観察してみれば、
昔からある住宅は、稀にしか存在していない。
去年火事にあって、今年新築したばかりの家であったり、
大きな家が滅んでしまって、その跡地に小さな家が建ったものだったり・・。
家ばかりではありません。
そこの住人にも同じことが言えます。
今も昔も場所は変わっていませんし、人も多いですが、
昔から居る人は、せいぜい20~30人中の1~2人です。
朝にこの世を去る人間がいるかと思えば、
一方で夕方になれば、この世に生まれてくる人間がいる。
まるで、川の水の泡が、消えては現れる形相と同じと言えます。
生まれてくる人はどこから来たのか、
死んだ人はどこへ行くのか、分かりません。
(迷いの中で輪廻転生を繰り返している、という意味でしょうか)
また分からないことは、この世は仮の宿だというのに、
誰のために心を悩まして造り、
何のために飾り立てるのか。
人と住居が無常を争うように、変化・流転をくりかえす様子は、
言ってみれば、朝顔と露の関係に他ならないのです。
露(人)が落ちても、朝顔(住居)は残る、
朝顔が残るといっても、朝日に当たれば枯れてしまうもの。
あるいは、
朝顔がしぼんでしまっても、露だけが残っていることもありますが、
夕方までもつことはありません。
~~
いかがでしょう?私は、
「昔からある住宅は、稀にしか存在していない」
「去年火事にあって、今年新築したばかりの家であったり、
大きな家が滅んでしまって、その跡地に小さな家が建ったものだったり」
という意味の文を読んだとき、ドキッとしたものです。
昔からある家=例えば古民家、は稀にしか存在していませんし、
大きな家が、相続税が払えなくなって手放さざるを得ず、
その跡地が何分割かされて、小さな分譲住宅が建っている、という
現状と少しも変わらない描写です。
また都市の有り様は、
「棟を並べ・・」は、次々と進む開発行為だったり、
「屋根の高さを競うように・・」は、例えば住宅の天井高を大きくとることが
一種のステイタスに思われていなくもない状況で、
その結果、階高や屋根の高さが上がることに反映されることだったり、と
今も昔も同じなのでは?と思わせる描写に、
古典と言えども親近感が湧くのです。
さらに、「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
から始まる諸行無常の形相と、続いて
「世の中にある人と、栖(すみか)と、またかくの如し」から、
ここで言う「人」が、肉体的形相を表現しているようであり、
その列記としての「栖(すみか)」は、表面的な形態として言い当てていると
連想されるのです。
人は肉体だけの存在ではない、という示唆を含み、
同じく、家も形態だけの存在では無いんだよ。
・・・と受け止めました(笑)
その2に続く・・
“行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶ、うたかた[=水の泡]は、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたる例(ためし)なし。
世の中にある人と、栖(すみか)と、またかくの如し。”
有名な方丈記の出だしを書いてみました。
“行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず”は
よく知られていますが、その次の文章まで読んでみると、
これは「人と栖(すみか)」について語るための序文だと分かります。
「方丈記」は
平安から鎌倉時代へ移りゆく乱世を生きた鴨長明が、
晩年に書いた随筆。
自身の精神性を体現した「方丈の庵」を結び、
そこでの生活と、そこに至るまでの無常感が語られています。
ところで、私は古文とか日本文学に実は疎く、
父より「建築の記述が初めて出てくる書物は方丈記ではないか」と
以前教えてもらったことがあって興味を持ったのですが、
昨年あたりから読み始めたところ、これが、なかなか面白い。
住居とは何か、
何のために建てるのか、
生き方(精神性)は住まいに反映する、と
日頃、住宅建築に携わる者として一度は思うことを、
明瞭・簡潔で美しい文章で表現してくれています。
また、建築的描写も詳細で的確なため、どんな建物だったんだろうと
想像しやすくて、建築好きには堪らない。
そんな方丈記を読んで、今更ですが感動したという次第です(笑)
それに、例えば序章を読んでも、
これが本当に、今から800年前に書かれたものなのか?と
思わず疑ってしまうほど、現在の状況と照らし合わせて
読み進められるところが、また面白いのです。
まずは、方丈記の序章について、
上記の出だしに続く内容を、以下に紹介します。
~~
立派な都市に、棟を並べ(われも、われもという感じでしょうか)
高貴な人も凡人も同じように、屋根の高さを競い合うような家が並んでいます。
年月が過ぎても家は残るものですが、それは本当かとよく観察してみれば、
昔からある住宅は、稀にしか存在していない。
去年火事にあって、今年新築したばかりの家であったり、
大きな家が滅んでしまって、その跡地に小さな家が建ったものだったり・・。
家ばかりではありません。
そこの住人にも同じことが言えます。
今も昔も場所は変わっていませんし、人も多いですが、
昔から居る人は、せいぜい20~30人中の1~2人です。
朝にこの世を去る人間がいるかと思えば、
一方で夕方になれば、この世に生まれてくる人間がいる。
まるで、川の水の泡が、消えては現れる形相と同じと言えます。
生まれてくる人はどこから来たのか、
死んだ人はどこへ行くのか、分かりません。
(迷いの中で輪廻転生を繰り返している、という意味でしょうか)
また分からないことは、この世は仮の宿だというのに、
誰のために心を悩まして造り、
何のために飾り立てるのか。
人と住居が無常を争うように、変化・流転をくりかえす様子は、
言ってみれば、朝顔と露の関係に他ならないのです。
露(人)が落ちても、朝顔(住居)は残る、
朝顔が残るといっても、朝日に当たれば枯れてしまうもの。
あるいは、
朝顔がしぼんでしまっても、露だけが残っていることもありますが、
夕方までもつことはありません。
~~
いかがでしょう?私は、
「昔からある住宅は、稀にしか存在していない」
「去年火事にあって、今年新築したばかりの家であったり、
大きな家が滅んでしまって、その跡地に小さな家が建ったものだったり」
という意味の文を読んだとき、ドキッとしたものです。
昔からある家=例えば古民家、は稀にしか存在していませんし、
大きな家が、相続税が払えなくなって手放さざるを得ず、
その跡地が何分割かされて、小さな分譲住宅が建っている、という
現状と少しも変わらない描写です。
また都市の有り様は、
「棟を並べ・・」は、次々と進む開発行為だったり、
「屋根の高さを競うように・・」は、例えば住宅の天井高を大きくとることが
一種のステイタスに思われていなくもない状況で、
その結果、階高や屋根の高さが上がることに反映されることだったり、と
今も昔も同じなのでは?と思わせる描写に、
古典と言えども親近感が湧くのです。
さらに、「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
から始まる諸行無常の形相と、続いて
「世の中にある人と、栖(すみか)と、またかくの如し」から、
ここで言う「人」が、肉体的形相を表現しているようであり、
その列記としての「栖(すみか)」は、表面的な形態として言い当てていると
連想されるのです。
人は肉体だけの存在ではない、という示唆を含み、
同じく、家も形態だけの存在では無いんだよ。
・・・と受け止めました(笑)
その2に続く・・
なんて文章がありましたね。そう思って調べてみたら
方丈記の方が100年も早いんですねぇ
昔は、行く河の流れは絶えずして~残るといえども夕を待つことなしまで
覚えていたはずなんですがすっかり忘れていました。
大雪の日は金沢に行ってました。向こうでの会話
「あっちは大雪らしいよー こっちはピーカンなのにねぇ」
兼六園のライトアップ。とっても素敵でした。
序章、全部覚えていたんですか?凄いですね。
徒然草も住居論らしき様子が伺えますよね。
日本三大随筆の内残るは枕草子ですが、こちらには関連の記述はあるでしょうか。