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「方丈記」という境地の住居論 その1~序章を読んで

2011-02-22 07:21:25 | 日々の建築考
「方丈記」鴨長明

“行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

 よどみに浮かぶ、うたかた[=水の泡]は、かつ消え、かつ結びて、

 久しくとどまりたる例(ためし)なし。

 世の中にある人と、栖(すみか)と、またかくの如し。”


有名な方丈記の出だしを書いてみました。

“行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず”は
よく知られていますが、その次の文章まで読んでみると、
これは「人と栖(すみか)」について語るための序文だと分かります。


「方丈記」は
平安から鎌倉時代へ移りゆく乱世を生きた鴨長明が、
晩年に書いた随筆。
自身の精神性を体現した「方丈の庵」を結び、
そこでの生活と、そこに至るまでの無常感が語られています。


ところで、私は古文とか日本文学に実は疎く、
父より「建築の記述が初めて出てくる書物は方丈記ではないか」と
以前教えてもらったことがあって興味を持ったのですが、
昨年あたりから読み始めたところ、これが、なかなか面白い。


住居とは何か、
何のために建てるのか、
生き方(精神性)は住まいに反映する、と

日頃、住宅建築に携わる者として一度は思うことを、
明瞭・簡潔で美しい文章で表現してくれています。
また、建築的描写も詳細で的確なため、どんな建物だったんだろうと
想像しやすくて、建築好きには堪らない。
そんな方丈記を読んで、今更ですが感動したという次第です(笑)

それに、例えば序章を読んでも、
これが本当に、今から800年前に書かれたものなのか?と
思わず疑ってしまうほど、現在の状況と照らし合わせて
読み進められるところが、また面白いのです。


まずは、方丈記の序章について、
上記の出だしに続く内容を、以下に紹介します。


~~
立派な都市に、棟を並べ(われも、われもという感じでしょうか)
高貴な人も凡人も同じように、屋根の高さを競い合うような家が並んでいます。

年月が過ぎても家は残るものですが、それは本当かとよく観察してみれば、
昔からある住宅は、稀にしか存在していない。
去年火事にあって、今年新築したばかりの家であったり、
大きな家が滅んでしまって、その跡地に小さな家が建ったものだったり・・。

家ばかりではありません。
そこの住人にも同じことが言えます。
今も昔も場所は変わっていませんし、人も多いですが、
昔から居る人は、せいぜい20~30人中の1~2人です。
朝にこの世を去る人間がいるかと思えば、
一方で夕方になれば、この世に生まれてくる人間がいる。
まるで、川の水の泡が、消えては現れる形相と同じと言えます。

生まれてくる人はどこから来たのか、
死んだ人はどこへ行くのか、分かりません。
(迷いの中で輪廻転生を繰り返している、という意味でしょうか)

また分からないことは、この世は仮の宿だというのに、
誰のために心を悩まして造り、
何のために飾り立てるのか。


人と住居が無常を争うように、変化・流転をくりかえす様子は、
言ってみれば、朝顔と露の関係に他ならないのです。
露(人)が落ちても、朝顔(住居)は残る、
朝顔が残るといっても、朝日に当たれば枯れてしまうもの。
あるいは、
朝顔がしぼんでしまっても、露だけが残っていることもありますが、
夕方までもつことはありません。

~~

いかがでしょう?私は、

「昔からある住宅は、稀にしか存在していない」
「去年火事にあって、今年新築したばかりの家であったり、
大きな家が滅んでしまって、その跡地に小さな家が建ったものだったり」
という意味の文を読んだとき、ドキッとしたものです。

昔からある家=例えば古民家、は稀にしか存在していませんし、
大きな家が、相続税が払えなくなって手放さざるを得ず、
その跡地が何分割かされて、小さな分譲住宅が建っている、という
現状と少しも変わらない描写です。

また都市の有り様は、
「棟を並べ・・」は、次々と進む開発行為だったり、
「屋根の高さを競うように・・」は、例えば住宅の天井高を大きくとることが
一種のステイタスに思われていなくもない状況で、
その結果、階高や屋根の高さが上がることに反映されることだったり、と
今も昔も同じなのでは?と思わせる描写に、
古典と言えども親近感が湧くのです。


さらに、「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
から始まる諸行無常の形相と、続いて
「世の中にある人と、栖(すみか)と、またかくの如し」から、
ここで言う「人」が、肉体的形相を表現しているようであり、
その列記としての「栖(すみか)」は、表面的な形態として言い当てていると
連想されるのです。

人は肉体だけの存在ではない、という示唆を含み、
同じく、家も形態だけの存在では無いんだよ。
・・・と受け止めました(笑)

その2に続く・・
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コメント
 
 
 
徒然なるままに (bigmac)
2011-02-22 17:09:46
徒然草にも「家の作りやうは、夏をむねとすべし」
なんて文章がありましたね。そう思って調べてみたら
方丈記の方が100年も早いんですねぇ

昔は、行く河の流れは絶えずして~残るといえども夕を待つことなしまで
覚えていたはずなんですがすっかり忘れていました。

大雪の日は金沢に行ってました。向こうでの会話
「あっちは大雪らしいよー こっちはピーカンなのにねぇ」
兼六園のライトアップ。とっても素敵でした。
 
 
 
Unknown (aydesign)
2011-02-25 22:52:49
bigmacさん、こんにちは。
序章、全部覚えていたんですか?凄いですね。
徒然草も住居論らしき様子が伺えますよね。
日本三大随筆の内残るは枕草子ですが、こちらには関連の記述はあるでしょうか。
 
 
 
鴨長明とコヘレト (伊藤)
2011-02-26 11:21:25
以前お世話になりました山形県の伊藤です。興味深い話題を時々拝見していましたが、鴨長明の「方丈記」には私も強く心を魅かれています(「建築」という視点からではなかったので、勉強になりました)。バブル経済の一時的繁栄とその後の低迷を経験した日本で、この世の栄華の空しさを説く「方丈記」が評価されているようです。旧約聖書の「コヘレトの言葉」(=「伝道の書」)にも、「方丈記」を思わせる無常観を感じるので、古くから洋の東西を問わず人の考えることは似てくるようですが、この世の栄華を追求して何の益があるのかという問いかけが心に響きます。
 
 
 
Unknown (aydesign)
2011-02-28 17:21:32
伊藤さんこんにちは。コメントありがとうございます。無常感はよく日本独特の感覚と言われてますが、西洋にもこの東洋的・仏教的思想はあるのですね。興味深く拝見しました。「コレヘトの言葉」は機会があれば読んでみます。
 
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