夏への扉、再びーー日々の泡

甲南大学文学部教授、日本中世文学専攻、田中貴子です。ブログ再開しました。

『セクシイ古文!』秘話と内臓の話

2008年09月22日 | Weblog
 五月末に刊行された、漫画家・田中圭一氏との共著『セクシイ古文!』の自己弁護のような裏話を、ようやく書くことにした。お陰様で九十歳の男性から「はげましのおたより」が来たり、圭一さんのファンにも購入されたりして、なかなか好評のようであるが、私としては出版に際してかなりためらいがあったことも事実である。
 古典を万人のもとへ、とか、原文を少しでも「見て」みよう、といった活動をしているので、このような安価で手に取りやすい本の企画はありがたかったのだが、そして、漫画家さんに絵を描いていただくのも初めてなのでよかったのだが・・・
編集部から送られてきた田中圭一さんの『神罰』と『死ぬかと思ったH』という二冊のマンガ(いずれも手塚治虫タッチ)の内容に、驚きを禁じ得なかったのである。手塚パロディをしている方がいるのは新聞で読んでいたが、まさか、こんなに下ネタだなんて。それも、手塚タッチだからよけいHに見える。
 この二冊を友人に貸したところ、友人は笑っていたのだけれど、その夫が、

 「田中(貴子)さんって・・・こんなのが好きなんか」

とつぶやいた由。

 ところが、実際会ってみると、圭一さんは適度に脂の抜けた、ひょうひょうとしたいい男であった(私の好みではないが、もてそうである)。数回にわたって討議を重ねた結果、何とか案がまとまったのだが、困ったのは、圭一さんが「歴史物」
を描くのは初めてだということだった。
 今回、私は痛感したのだが、文章で書かれていることをマンガにするのはとても大変なのである。なにしろ、書かれていないモノまで調べて描いてもらわなければならないからだ。たとえば、平中と本院侍従の話に出てくる「室内用便器」(桶、と称することがある)の形なんて、どこにも載っていない。なんとかネットの「トイレの博物館」といったようなサイトで復元写真を見つけたのだが、こういう生活調度、とくにシモ関係のものは、木製でもあるし完全な形で出土することなどないのである。使っていた本人だって、あんまり残っていてほしくはなかろうが。
 私はほとんど読んでいないが、マンガによる古典文学の類を描く人はいったいどのように時代考証しているのだろうか。「あさきゆめみし」など、一見問題ないように思えるのだが、実は平安中期でも文官の衣装の取り決めが変わったりしていることもあるので、完全な考証はされていないと思う。
 しかし、あんまり学術的な考証をしようと思っても、私は有職故実の専門家ではないし、残っていないものはどうしてもわからないのだ。仕方がないので、「こういう位の人はこういう場では衣冠束帯」だとか「普段着はいちおう狩衣で」などとすることで妥協をした。そして、たとえばBLっぽく描いてもらう場合は、雰囲気を出すためにあえて髪型などを今風にしてもらったところもある(「風に紅葉」など)。また、連絡の行き違いで、もうこの時代なら民衆階級は烏帽子をかぶっていないのに描いてある例(「懺悔録」や「閑吟集」)、本文では「五位の郎党」とあるところが、「五位」その人になってしまっているところ(「今昔、亀とキス」)
もあり、これは私の不注意をお詫びするしかない。
 ただし、屏風の絵柄や(「とはずがたり」)、板塀の作り(「逸著聞集」の「きりかけだつもの」は、板が横に並べてあるもので、単なる板塀とは組み方が異なる)、神父の服装(「懺悔録」これはイエズス会の宣教師なので、服装や髪型は、あまりに有名な神戸市博物館蔵のザビエル像をお手本にした)などなど、手がかかっているところも多いのである。花山院の即位(「江談抄」)では、今の天皇の使った高御座を参考にしたが、衣装はちゃんと唐服になっているでしょ。衣冠束帯で即位した時代ではないからである。
 ただ、「性」に関することで議論百出した箇所もあった。
 あの狭そうな高御座で馬内侍とコトに及ぶのなら、いったいどんな格好でシタのか、などなど。また、即位式に供奉する内侍なら正式な十二単を着ているだろうが、それを「めくりあげる」とどうなるか、と聞かれたりする。

 「十二単なら下着として袴をはいているから、うまくまくりあげるのは無理か  も」

と私が悩んでいると、

 「では、脱がしちゃいましょう」

となったりする。
 『古事記』のイザナミとイザナギの衣装も困った。しょうがないので、平田篤胤なんかが「神界」をスケッチしている絵と、手塚だからというので「火の鳥・黎明編」をミックスしてごまかすことにした。
 後日、1950年代の「日本誕生」という総天然色の映画を見たら、なんと、イザナミとイザナギとは汚れた獣皮みたいなものを腰や胸に巻いて、髪もひげも伸び放題という姿でご出演であった。いわゆる、「よくある原始人」の格好である。イザナギが、貧相なターザンに見えた。だが、神代のことなので誰もわかるはずはない。ここは、一般的な日本人が想像しやすい衣装にしておいた。
 『霊異記』の吉祥天とまぐわう話の吉祥天は、本文では「塑像」、すなわち、土で作った像であって、木像ではない。奈良時代の話なので、美女の理想はふくよかな姿のはずだから、吉祥天女もそういう作りだったと思われる。しかし、ここはちょっと嘘をついて、「美女」で名高い、鎌倉作の浄瑠璃寺の吉祥天を模してもらうことにした。手塚治虫が描く「美女」は、太からず、細すぎず、というタイプが多いように思ったから、それに合わせたわけである。
 ほかにも、いろいろ、出来る限りの考証をし、わからないものはごまかした。平安貴族はふだん沓を履いているが、海辺に出るときはさすがにわらじ様のものだろう、というように、空想したところもある。

 本書には私と圭一さんとの対談が載せられているが、思いっきり自分のセクシュアリティ(というより、実体験)を語ってくれている圭一さんに対して、私は、なるべく自分のセクシュアリティーを語らない態度で話している。こんなところで自分の性癖や体験を語っても、生産的ではないからである。
 ただ、二カ所、自分の感覚が口をついて出ているところがある。
 一つは、圭一さんから、子どもを作れない年齢になってきた、といわれて、

 「私自身は子どもが好きじゃないのであてはまらないかな」(100p)

と言っているところ。
 もう一つは、女性器について、

 「むしろ内臓に近い感覚」(54P)

と言っているところ。
 私は人間の子どもや赤ん坊がかわいいと思ったことがなく、子どもをほしいと願ったこともないから、これはしょうがないね。
 後者だが、内臓、というと、私個人の体験ではあるが、女性の方が忌避感がないように思う。ほとんどの女性が、毎月「ああ、子宮ってものがあるんだった」と思い出さざるをえない現象を抱えているからだろうか。あんな面倒くさいもの、ホルモンと関係ないのなら、早くなくなってほしいと私なんか思うが。
 かなり前、田辺聖子氏が何かのエッセイで「女性が南極探検隊になることはなかろう。一年分のナプキンだけでもすごい荷物になる」といったことを書いていたが、今や女性の越冬隊なんて当たり前になってしまった。生理用品も改良され、大荷物でもなくなった。
 あの理不尽な現象や、それに伴う痛みや不快感によって、女性「内臓が・・・あるんだなあ」と常に意識してしまうのではないだろうか。もちろん、男性だって似たような感覚があると思うが、あまりそういう話題が出ることはないので、よくわからない。

 さて、話はこの内臓に移る。本の話はおしまいね。
 内臓、といえば、日本画家の松井冬子氏が好んで描くモチーフである。私は今、「九相図」やら死体やらの話を細々書き続けているので、参考までに彼女の画集を開いてみた。
 内臓がどろどろしているが、色彩が強くないのでいやらしくは感じない。「浄相の持続」という作品が、おそらく「九相図」に影響を受けたものと思われる。この習作(鉛筆によるアイデアノート)をみると、当初、この描かれた女性は「金箔ネックレス」と「結婚指輪」をしている設定になっていたらしい(完成図では除かれている)。女性の腹からのぞいた内臓には、胎児を宿した子宮がしっかり描き込まれている。
 これらをみていると、「浄相の持続」によくにたものを思い出した。
 フィレンツエのラ・スペーコラの蝋細工である。ここは、ロウで人体のあらゆる器官や解剖図を復元したものが展示されているのである。ここに、美しい女性が横たわっているガラスの棺(ケースなのであるが)があり、その女性は真珠の首飾りをして、とじた目もとには長い人毛のまつげが植え込まれている。そして、腹にあるフタを取り外すと、中には精密な内臓と、双子の胎児が、箱根細工のように整然とはめこまれているのである。
 松井冬子氏の『美術手帖』の自作解説では、「浄相の持続」は「女が自分で腹を割いて胎児と子宮を男に見せびらかしている」というようなことが書かれてあった。これに対し、インタビューで松井みどり氏は「これは誰かに腹を割かれたように思えるが」と反論していた。私も、松井みどり氏のように観たのだが・・・。
 子宮を誇らしげに見せて男からの優位性を主張するということは、本当に可能なのだろうか。処女懐胎でない限り、胎児は女性一人で生み出せるものではないのに。
 単に内臓からの連想で松井冬子氏の評論をするつもりではないので、このへんでやめておくが、彼女が持っている問題は、「九相図はなぜいつも女性の死体なのか」という問題に関わるものではないかと推測する。
 それから、「人体の不思議展」というプラスティネーションされた遺体の輪切りなんかが展示されているところや、骨、ミイラの類(ローマの骸骨寺やパレルモのカタコンベなど)を好むのも女性が多いような気がする。パレルモのカタコンベに行った、と、シチリア出身の仏教学者に言ったら、「あんなとこ、よく行くねえ。地元の人は誰も行かないよ」と、あきれられたことがある。たしかに、あの異臭はなんともいえないものだけど。
 なお、私の友人の女性研究者が妊娠したとき、こんなことを言っていた。

 「動くとね、エイリアン思い出すの。あれって、絶対妊娠がヒントだよね。私の も何が出てくるかわかんないねえ」

 彼女は嬉しそうに笑っていたが、その後元気な女の子を産んだ。「母親の意識、生まれてきた?」ときいたら、「べーつに。母性なんか信じてないもん」とのことだった。こういう人の方が、私はつきあいやすい。
 そういえば、内臓は腐りやすいから、肉食動物は獲物をまず内臓から食べる、という。うるか、酒盗、めふん、くちこ、内臓はお酒の友。うちの猫も、好物は砂ずりである。
 ちょっとばかり、室内猫の「野性の証明」みたい。角川映画でリメイクされるかも知れませんね。猫神家の一族、というのもいいかもしれぬ。
 

**お仕事通信**  おひまなら、どうぞ。

・あの「肌色満載」の週刊誌『FLASH』の、比較的まじめな頁の古典特集に、林望氏らとともに談話が掲載されています。現在発売中。

・フジテレビがやっているネット配信のラジオ番組(「つか金フライデー」金曜放送)に出演しました。11月7・14日にupされます。

・11月9日(土)、「エンジン01 オープンキャンパス イン 名古屋」にて、林真理子氏らとともに「源氏物語」関係のパネラー(というか、公開座談会)を行う予定。一般来聴は1講座500円で、ほかにもたくさん講座があります。詳しくは「エンジン01」のHPをご参照ください。
・学会発表等は、関係各所にお知らせが行く予定。今度は「誓願寺縁起」がテーマです。
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