あやはべる‐綾蝶‐

yukiの短編小説ブログ。綾蝶とは沖縄方言で「美しい模様の蝶」の事。

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「うしなわれた世界のアスカ」後書

2007年10月02日 | うしなわれた世界のアスカ

『前編の終わり』

9話目の最後に「前編 終」とあるように、本作には続きがあります。
慎と瑞穂が高校生になってからのお話が後編になっていましたが、後編を書くには医療系の知識が必要になり、とても今の自分には書けません。
いずれ書いてみたいんですけどね。今のところ後編公開の予定はありません。

読んでいただいた方、ありがとうございました。




※本作は06年5月〜6月に書いたお話です。

「うしなわれた世界のアスカ」9話

2007年10月01日 | うしなわれた世界のアスカ

ひとつの『しあわせ』の風景、秋の夕暮れの空の下にて。

……………………………………………


事故から一年が過ぎた頃の秋。

晴れた秋の夕暮れ空。涼しい風が心地よく、橙色の空が気分を落ち着かせてくれる。そんな夕暮れ時に、僕と瑞穂は二階のバルコニーにいた。
瑞穂はバルコニーにある白い背もたれ付き椅子に座って昼寝をするのが好きで、この日も僕をあたり前のように引き連れてバルコニーに出る。そして、普段と同じように椅子に座っては、静かに寝息をたて始めたのだった。
隣りの椅子に腰掛けた僕は、橙色の空を見上げる。
「……」
一昨日。今日の二日前――瑞穂の家族が事故に遭って一年目、つまり瑞穂の両親の一回忌であった。それは、瑞穂の家族が住んでいた家で静かに行われた。瑞穂が僕の家に引き取られて以降、瑞穂の親族がその家の家賃支払いを継続しているので、中はほぼ一年前の状態のままだという。
――もしも、瑞穂の視力が回復する事があるならば。
僕自身、瑞穂の視力が回復する事は二度とないと思っている。だが、そんな親族の想いから、瑞穂の家はほとんどその当時のままとなっているのだ。時々、うちの母親や親族の人がやってきては中を簡単に掃除しているらしい。今年の夏のお盆には瑞穂を引き取っている水野家と檜山家の親族が集まったりもした。瑞穂の両親の仏壇は、その家に置かれている。週に一度、僕と瑞穂は家に訪れては手を合わせている。
「……」
「わっ」
椅子で寝ていた瑞穂が短く悲鳴をあげた。その要因は、瑞穂の右手の甲にスズメくらいの大きさの鳥がとまったせいらしい。人間のもとに自ら寄ってくる鳥なんて初めて見た。
瑞穂にも自分の右手に小さな鳥がとまっているのを認識できたようだ。もう片方の手でそな鳥の身体を撫で始める。鳥はその行為を素直に受け止めていた。
「逃げないのかな?」
僕がその鳥を見ながら呟くと、
「一昨日にも飛んできた鳥だからね」
撫でる手を止めずに、瑞穂が言った。
「その鳥がアスカ?」
「そう」
「でも、一羽しかいないけど」
「それっ」
掛け声とともに、瑞穂は手の甲にいた鳥を空に飛ばせてあげた。飛んでいく鳥を目で追っていくと、遅れてやってきたもう一羽のアスカと合流したのだ。二羽は再び一緒になると、橙色の空の向こうに姿を消した。
「せっかちなアスカなのよ。でも、ここで相棒のアスカを待ってあげているんだと思う」
「よく分かるね」
「うん…」

その後、僕と瑞穂は二羽のアスカが飛び去っていった軌跡をしばらく眺めていた。


……………………………………………

キミの世界の中の僕は失われても、僕の世界にいるキミは失われない。


前編 終

「うしなわれた世界のアスカ」8話

2007年09月30日 | うしなわれた世界のアスカ

三年後。中学一年生の夏。

瑞穂が八年前から飼っていた文鳥のフィナが死んだ。
雨の日の朝、瑞穂よりも先に起きた僕が毎日の習慣で鳥かごの中のフィナを覗いて見ると、中でフィナがぐったりと倒れていたのだ。
異変を感じた僕は瑞穂をたたき起こし、その手を引いて鳥かごの目の前まで連れて行く。事情を話すと、瑞穂は右耳を鳥かごに密着させた。
「何も聞こえない」
瑞穂は一言、そう呟いた。
「フィナは身体を横にしている」
「慎兄。フィナを私の手の平に置いて」
瑞穂に従い、僕は鳥かごの中からフィナを取りだし「置くよ」と一言、間に入れてから瑞穂が差し出している両手の平の上に置いてあげる。僕が手に取った瞬間分かった事だが、フィナの身体は既に冷たかった。
手の平に置かれたフィナの冷たい感触を、瑞穂はどう感じているのか。
「冷たい…」
「僕も同じ感触だった」
「死んじゃったんだね」
死んじゃったんだね、という言葉を口にした瑞穂は胸の前でフィナを抱き締める。その手は微かに震えていたけど――瑞穂の眼から涙は流れていなかった。瑞穂の中には悲しい気持ちがあったと思う。だが、瑞穂は泣く事が出来なかった。傷ついた眼から涙を流す事は出来なかったのだ。
僕はそれが悲しかった。瑞穂には悪いけどフィナが死んだ事よりも、僕は瑞穂が悲しい時に涙を流せない事がとても悲しくて悔しかった。死んだ家族のために泣いてあげられる事も立派な幸せなのに。――瑞穂にはその幸せをも叶う事が出来ないなんて。
どうして、運命は瑞穂から多くの幸せを奪っていったんだろう。

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「うしなわれた世界のアスカ」7話

2007年09月29日 | うしなわれた世界のアスカ
過ぎゆく時間の中で――そして、数年後の僕ら。


………………………………………………

二年後。小学六年生の春。

瑞穂は縄跳びが出来るようになった。
訓練の一環として、何か運動をしようと瑞穂に話してみたときに、瑞穂が「縄跳びがしたい」と言った一言がきっかけだった。元々運動が好きだった瑞穂なら、すぐに感覚に慣れるかもしれない。
僕は家の物置きの奥にあった緑色の縄跳びを見つけ(昔使っていたやつだ。懐かしい)、家の庭にいる瑞穂に手渡した。瑞穂は縄跳びが得意だ。昔の感覚を思い出しつつ、僕の何の助けもなく瑞穂はぴょんぴょん跳び始めた。前跳びだ。
僕は縁側に座って、瑞穂の縄跳びを眺める。
縄跳びは一定の感覚で身体を動かせばいいので、目の前が見えず運動が得意な瑞穂にはもってこいの運動方法だ。最初はマラソンとかそういうものを考えていたが、よく考えればマラソンを瑞穂にやらせるわけにはいかない事に気付く。道も分からない瑞穂に、どこを走らせようというのか。
縄跳びなら家の庭で出来る一番手っ取り早い運動だ。その場で一定間隔でジャンプすればいいだけなので、やる瑞穂にも見ている僕にも安心である。芝生の庭なので縄跳びをするのに問題はない。
跳び続けて三十回くらいのところで、瑞穂は縄を足にひっかけた。久しぶりの運動とだけあってか、荒い息を吐いている。
「大丈夫か?久しぶりの運動だし無理はしない方がいいよ」
瑞穂は「ううん」と首を振った。
「大丈夫。気持ち良いくらいだから」
そう言った後、また前跳びを始めた。
(確かに気持ちいいだろうな)
瑞穂は事故を起きたあの日から、運動らしい運動は一切していなかった。今までしてきた訓練も手を動かしたり道に沿って歩いたりするだけのものであって、身体をハードに動かすような訓練はしていない。学校でも運動らしい運動はしていないだろう。
瑞穂は楽しそうに跳んでいた。眼を閉じたままの表情からは分からないけど、息を弾ませて跳ぶ姿から、僕はそう感じた。
瑞穂のこういう姿を見ていると、普通の人間とは何ら変わりがないように見える。いや、瑞穂は普通の人間だ。特別な人間なんかじゃない。ただ――眼が見えないだけ。それ以外は僕と同じ人間である。
眼の見えない事は確かに辛い事だ。
でも。
それは世界で一番不幸な事ではない。
あの時――もしも、あの時の事故で瑞穂が死んでいたら。
それこそが、世界で一番の不幸なんだ。

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「うしなわれた世界のアスカ」6話

2007年09月28日 | うしなわれた世界のアスカ

事故から九ヵ月。

僕らの住む町には、障害者のために色々な工夫が施されている。視覚障害者のための工夫もされており、例えば歩道には小さく丸い凹凸がある黄色い障害者のための歩道が。また、駅の切符売り場やビルのエレベーターには『点字』と呼ばれる視覚障害者が手に触れて触感で読み取る事が出来る文字もある。
事故を起こした当時、小学四年生だった瑞穂は文字を書く事には問題はなかった。眼が見えない今でも、こちらが紙と鉛筆を用意すれば文字を書く事だって可能だ。漢字だって複雑なものでなければ書く事は出来る。
ただ、瑞穂も家にばかりいるわけにはいかない。小学校には僕の誘導でしっかり来ている(学校では養護クラスで出来る限りの勉強をしているようだ。瑞穂が言うに簡単な英語の発音とかをしているらしい。この前、ぶどうを「グレープ」と発音していた。文字が読めない分、文字を声に発する事でハンデを乗り越えてもらいたい)。
そこで僕は母親に『点字』を習った。だが、母親も点字をよく知っているわけではなく、母親が予め買っていたという点字の本を見せてもらう事にした。
点字てはその名前の通り、複数個の点で文字にしたものである。ただし、知識がなければこの点字が何を伝えているのかを理解する事は難しいようだ。これから、生涯を盲目で過ごす瑞穂には是非とも身に付けておいてもらいたい。
手話(耳や口が機能していない人のための会話方法。両手の動作を組み合わせる事によって相手に意思を伝える事が出来るもの)とは違い、点字を僕が覚える必要はなさそうだ。本を見ながらでも、瑞穂に教えようと思う。
さっそく始めようと、二階のバルコニー(小さな空間だけど)にいる瑞穂を一階の居間に来るように呼ぶと、慣れた足取りで一分強で二階から降りてきた。もちろん、階段を使って一人で降りてきている。
「どうしたの?」
「点字って聞いた事あるよな?」
小学三年生のとにに学級活動の一環として障害者体験をした際に、瑞穂も点字というものを見た事があったはずである。案の定、瑞穂は「うん」と頷いた。
「え、でも……」
瑞穂が言葉を濁す。
「もう、小学校で習ったよ?」
「え?」
いつの間にと思ったが、よく考えれば納得だ。英語の発音を勉強する前に、養護クラスで点字の勉強をする事など当然だった。視覚障害者として最低の日常生活を送れるようにと、養護クラスの先生が瑞穂に一番最初に教えたのだろう。
「いつ習ったんだ?」
「病院から退院して、養護クラスに移った次の日から。慎兄にも言ったよ?」
「そうだったか…。もう点字は分かってるんだ?」
「だいたいはね」
「今日の勉強はこれにてお終い」
僕自身、点字という存在に気付くのが遅かったかもしれない。やる気満々で開いていた点字の本を閉じて僕は一息吐いた。そういえば、僕は本を見てどうやって教えようとしたのだろう。瑞穂には本の文字など見えるはずがないし、凹凸の点字表がなければ教える事が出来ない。
「呼び出してごめん。また二階にいていいよ」
本を棚に直しに行こうと瑞穂に背を向けたところで、瑞穂が僕を呼び止めた。
「慎兄、これから暇?」
「うん」
「じゃあ、二階で鳥を見よう」

瑞穂は晴れている日のほとんどは二階の狭い空間のバルコニーで過ごしていた。
ここにいると、空を翔けて行く鳥が見えるというのだ。
「フィナはいいのか?」
「フィナは今は寝ているよ」
見えてもいないのによく分かるなと思ったが、瑞穂だからこそ分かるかもしれない。僕と瑞穂はバルコニーにある白い背もたれ付き椅子に座って空を見上げた。
今日も良い天気だ。曇り空ない晴天の空である。この空が瑞穂にはどう映って見えるのだろうか。
やっぱり――真っ暗なのだろう。
時々、彼女の眼が見えているんじゃないかと錯覚する事がある。最近は僕の方を見て話してくれるようになり、移動する速さも以前に比べれば格段に早い。でも、こうして瑞穂の顔を見てみると、見えてないんだろうなと思ってしまう。
あの日の事故以来、僕は瑞穂の瞼が開いたところを見た事がない。
瑞穂の瞼はずっと閉じたままだ。あのときの傷痕はもう目立つほどには残ってはいないけど、瞼は永久に閉じられた。
万が一、瞼が開き瑞穂の瞳が再び太陽の光に照らされても、光が取り戻される事はない。彼女の眼は死んでいるのだ。
ふと横を見て彼女の顔に視線を移す。普通に見れば寝ているように見えるが。
「起きてるよ」
不意に瑞穂がそう呟いた。
「まだ何も言ってないんだけど」
「慎兄がそう思ってるように感じがしたから」
「……そう思ってたよ」
視線を上に戻し、空を仰ぐ。ちょうどその時、二羽の鳥が僕らの上空を飛んでいった。
「慎兄は今の鳥が見えるんだね」
「うん」
「私にも見える。今のはアスカ。いつも二羽で行動している鳥」
「アスカ?」
「勝手に私が名前付けたんだけどね。飛ぶ鳥と書いて飛鳥(あすか)」
「いつも二羽で行動してるんだな」
「そう。私と慎兄みたいな鳥だよ」
「……」
いつも一緒にいる。でも、僕らはいつまで一緒にいる事が出来るんだろう。
僕が望むなら、瑞穂とはずっと一緒にいたいけど。

僕と瑞穂は、太陽が山に隠れるその時まで空を仰いでいた。
この日は、あの二羽しかアスカを見る事は出来なかった。

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「うしなわれた世界のアスカ」5話

2007年09月27日 | うしなわれた世界のアスカ

事故から八ヵ月。

瑞穂は階段を下りるのが苦手だった。
僕の家は二階建て。階段は玄関の近くにあり、二階へ行く階段の途中に踊り場が設けられている。よって、瑞穂が誤って足を踏み外し転落した場合でも、損害を少なくする事が出来るのである。だが、どうしても瑞穂は一人で階段を下りようとはしなかった。訓練により、階段を上る事は出来たが、階段を下りる訓練はやろうとはしないのである。
下りは階段の踏み位置が容易に特定出来ないため、瑞穂は怖がっているのだ。上りでは足を持ち上げれば踏み位置を確認出来るが、下りでは足を一段下げなければならない。僕だって目を閉じた状態で階段を下りるのには抵抗があった。
瑞穂と訓練する前には、まずは自分が視覚障害者の気持ちになって常にテストしている。その訓練方法が瑞穂に無事かつ有効に近いと判断出来たなら、それを瑞穂の訓練方法に取り入れるのだ。
しかし、今回の訓練は良い案が思い付かない。果たして、どのようにすれば瑞穂が怖がらずに階段を下りる事が出来るだろうか。
一段一段座りながら下りるか。それは有効だが、外出したときに、その方法はあまりに好ましくない。瑞穂は見世物ではない。
瑞穂には立った状態で階段を下りる習慣を身に付けてもらいたい。目が見えている人、そうじゃない人、区別なく同じように。手摺を使う案も考えたが、手摺だけでは踏み場の確認は出来ない。僕はどうしても『階段の踏み場を確認した後、瑞穂には踏み場に足を下ろしてほしい』のだ。そうなると、何か道具を活用する必要があるかもしれない。
そこで思い付いたのが、杖だった。実際には白杖というらしい。
腰が曲がった老人は、よく杖を前について歩いている。それを瑞穂の障害に活用出来ないか。ただし、短い杖ではだめだ。せめて、瑞穂の下半身よりも長い物でなければ無意味である。そこで、身近にあったモップの竿の部分を杖に代用してみた。モップの下部分を取り外すだけで、杖みたいなものが完成する。長さも瑞穂の下半身より長く、掴む部分はゴムで出来てるので触り心地も良い。
これを使えば瑞穂もだいぶ安心して階段を下りる事が出来るだろう。あとは、これをどう使用するか。方法はいくつか考えられた。
一つ目は『階段に対し真正面を向いて、片手は手摺に掴まりながら、もう片方の手で握った杖で次の段の踏み場を確認。確認後、杖に足を触れさせながら下りる』。
二つ目は『階段に対し真横を向いて、利き手で杖を握り、次の段の踏み場を確認。確認後、杖に足を触れさせながら下りる』。
三つ目は『階段に対し真正面を向いて、片手は手摺に掴まりながら、もう片方の手に握った杖で現在踏んでいる踏み場の先端(縁)を確認。確認後、少しずつ足をずらして下ろす』。
自分で身体を張ってテストしたところ、一つ目と二つ目の案にはリスクがあった。一つ目と二つ目に共通するリスクだが、杖を足に触れさせながら下りるのは危険なのだ。万が一、足が杖を弾いてしまったら、それこそ転落の危険がある。また、二つ目は手摺を活用しない方法で、手摺は上半身を支えるための重要なアイテムだ。これを活用しないのはいただけない。
実際に試してみたところ、三つ目の案には大してリスクはなかった。少し移動時間が遅くなる事に悩んだが、手摺も杖も上手く活用している良い案だと思う。
この方法ならいけると判断した僕は、一階の居間で煎餅を食べていた瑞穂を呼んだ。
階段を下りる訓練をすると聞いた瑞穂は少し嫌な顔をした。
「下りるの?」
「下りるんだ」
まずは、手摺だけを使って階段を上がってもらう。上がるのにはそう時間はかからない瑞穂だ。階段一階の高さも感覚で把握しており、一分もかからずに上りきった。
階段を上りきった瑞穂に、僕は『物を使って階段を下りる訓練』をする事を先に告げる。
「渡すよ」
「うん」
瑞穂の了承を得たところで、僕は瑞穂に例の杖を手渡した。瑞穂は新しい感触に興味を覚え、ひたすら杖を先端から末端まで触った。
「棒?」
「杖だ」
「これをどう使うの?」
「最初は僕も手伝おう」
触るよ、と告げて瑞穂の手に触れる。
「まず階段に向かって真正面に立って。階段は瑞穂の後ろにある」
「うん」
「杖は右手に軽く持って、左手は階段の手摺りを掴む。手摺は瑞穂の腰の高さにある」
「うん」
階段の手摺は片方にしか無く、上りは右手側に、下りは左手側にあるといった感じだ。左右両側に手摺があったら、簡単に下れそうなものだが、『狭い幅の左右に手摺がある階段』に限られる。杖を使うのは、いろんな階段に対応出来るようにするためでもある。
「掴んだね。じゃあ、右手の杖の先を床につけて」
「うん」
「杖を前に少しずつ動かして。手摺から手を離したらダメだ」
「うん」
瑞穂が少しずつ杖を前に進める。やがて、踏み場の先端にさしかかり杖に床の感触が消えた。
「感触がないよ」
「感触がなくなったら、その先に次の段があるというわけだ。杖はそのままで、足を少しずつ前に動かして」
「うん」
瑞穂が少しずつ足を前に進める。足の爪先が踏み場の先端に来たところで、瑞穂はその動きを止めた。
「これで踏み場の先端が分かっただろう?あとは足を下ろすだけだ」
「……怖い」
無理もない。失明してから階段を一人で下りる感覚を身に付けていない瑞穂の素直な感想だ。足を下ろすのはいいが、今いる踏み場と次の踏み場の段差の高さの感覚が分からない瑞穂には恐怖そのものだ。
階段を上がるときと下るときとでは、段差の高さの感覚はまるで違う。
「心配はいらない。そのまま足を下ろせば大丈夫」
「……」
「ここで僕が手伝えば瑞穂のためにはならない」
「……」
「次の踏み場は瑞穂の一歩先にある」
「……うん」
瑞穂は片足を上から二段目の踏み場に乗せた。もう片足をそれに続ける。
「……出来た」
「よく出来た。次の段からはもう爪先に踏み場がないはずだ。手摺をしっかりと握って、同じ感覚でゆっくりと下りればいい」
「うん」
階段一段の高さはどこの階段もほぼ同じような高さである。この感覚に慣れてくれれば、下る早さも変わってくるだろう。
瞳に光を失って以来、初めて瑞穂が一人で階段を下りた日だった。階段のためだけに活用しようと思った杖だったが、やがて杖は瑞穂の日常生活の中で大いに活躍するアイテムとなった。杖はモップから即興で作ったものなので、いずれちゃんとした物を作ってあげようと思う。この訓練は瑞穂にとって大きな第一歩になったと思う。
暗闇は恐怖だ。でも、恐怖に負けていては成長はできない。
僕が瑞穂の光になれるのなら、僕は喜んで瑞穂の中の暗闇に光をかざしてあげたい。

6話へ→

「うしなわれた世界のアスカ」4話

2007年09月26日 | うしなわれた世界のアスカ

事故から七ヵ月。

「おばさん。今日はハンバーグ?」
僕の手を借りて、食卓の自分の席に座った瑞穂は顔を皿に近づけて匂いを嗅いで、そう言った。瑞穂はこうして毎晩の夕食のメニューを当てるのが好きだ。
「当たり、瑞穂ちゃん」
「いただきます」
瑞穂と母のやり取りを見ながら、僕も食卓の席に着き食事を始める。瑞穂も胸の前に置かれていた箸を取り食事を始めた。瑞穂の食器の配置場所は常に決められている。まず、胸の前に置かれているのが箸だ。左手の近くにはご飯、右手の近くにはコップ。中央におかず皿を置くようにしている。これは僕と瑞穂が訓練したときに出来上がった置き方になる。始めは何度も右手でコップを倒していたが、次第におかず皿とコップの距離感を掴んできた。
瑞穂は手に取って戻した後の配置場所に気を付けている。万が一、瑞穂が初期位置と違う場所に置いた場合は僕か母が瑞穂に知らせてあげるようにしている。
「慎兄」
食事の途中、瑞穂が僕を呼んだ。僕は箸を止める。
「ハンバーグはどこにある?」
「おかず皿の下にある」
「うん」
頷いた瑞穂は、皿の上にあるハンバーグをフォークで突き刺した。箸とフォークを自在に使い分けられるようになったのも訓練の賜物だ。
瑞穂のハンバーグはミニサイズのものが五つ。その一つを突き刺して自分の口元に運び、一口でそれを放り込んだ。
「慎兄」
また僕を呼んだ。
「ハンバーグの上には何がある?」
「ハンバーグの上にはキャベツとミニトマトがある」
「うん」
今日のメニューのだいたいの配置を確認した瑞穂は黙々と食べ始めた。
本当は瑞穂と話ながら食べたかったけど、瑞穂は真っ暗闇の世界の中で懸命に食器を探しているのだ。それを邪魔するわけにはいかなかった。
僕が見上げると明るく白い電気が見える。
でも、瑞穂が見上げても真っ暗闇の世界があるだけだ。
僕と瑞穂の眼に映るものが正反対な事に、僕は少し悲しくなった。

5話へ→

「うしなわれた世界のアスカ」3話

2007年09月25日 | うしなわれた世界のアスカ

事故から六ヶ月。

瑞穂は小鳥が好きだった。
「慎兄、今日のフィナはどんな感じ?」
フィナとは瑞穂が飼っている文鳥の名前。事故が起きる前から飼っていた文鳥で、瑞穂は自分の事よりも小鳥の方に敏感だった。鳴き声を聞けば、どの方向に鳥かごがあるのかがすぐに分かるらしい。今日も、僕の腕を引っ張っては鳥かごの前に座らせた。
「今日もフィナは元気。瑞穂を見て、羽を広げているよ」
「そう。それなら良かった」
安心した瑞穂は、鳥かごの側に置いていた餌袋と箸を指差した。
「餌をあげてくれる?」
「はいはい」
僕は餌袋と箸を取り、箸で摘んだ米粒程度の小さな餌をフィナの口元に運んであげた。
「フィナはよく餌を食べている」
「きっとお腹が空いていたのね」
「フィナは水を飲んでいない」
「お水、変えてなかった。慎兄、私に水受けを下さい」
瑞穂が両手を差し出す。僕は鳥かごの中から水受けを取り出し、「置くよ」と告げた後に、瑞穂の手に置いた。
瑞穂は立ち上がると、一歩一歩周囲を確認しながら、台所の水場まで歩いていった。水場の感触を確かめ、蛇口を求めて手探りで探し始める。
数秒後、台所からジャーッという音が聞こえた。うまく蛇口を捻る事ができたらしい。水受けに水を溜めた後、蛇口を捻ってゆっくりと来た道を後戻りしてきた。
「はい、慎兄」
僕は「受け取るよ」と言って、瑞穂の手から水受けを受けとった。それを、鳥かごの中に戻す。今回、瑞穂は僕に水受けを渡すとき、ちゃんと僕の方を向いてくれていた。
手を拭きに洗面所に行っていた瑞穂が帰ってきた後、僕はフィナの様子を報告する。
「フィナはよく水を飲んでいる」
「きっと喉が渇いていたのね」
小鳥を眺めている瑞穂はとても幸せそうだった。実際には見えていないのだろうけれど、小鳥を眺めているときだけは瑞穂の眼ははっきりと見えているんじゃないか、と思ってしまう。
瑞穂の家族は、もうフィナだけしかいない。

「うしなわれた世界のアスカ」2話

2007年09月24日 | うしなわれた世界のアスカ

事故から四ヶ月。

瑞穂の目の前は真っ暗闇だ。だから、目の前に何があるのかも知る事はできない。
事故から四ヶ月経った今でも、やはり光が無い世界に慣れる事はできないようだ。
「……どこ?」
椅子に腰掛け、食卓の上にある箸を手探りで探す瑞穂。僕は瑞穂のリハビリを手伝っている。
まずは感覚に慣れる事。医者にそう言われた母親から伝えられた事である。
視力を完全に失った以上は、これから先は感覚で生きるしかないらしい。
「違う。そこじゃない」
僕は瑞穂の手を握り、箸のある所まで誘導した。箸の触感を感じた瑞穂はそれを鷲掴みする。だが、瑞穂の目線は明らかに箸を見ていない。どこか遠くを見ている。
そんな瑞穂から、僕は箸を取り上げた。
「もう一度」
「……うぅ」
せっかく手に入れた箸をすぐに取り上げられてしまった瑞穂は、その苛立ちから食卓をバンバンと叩き始める。こうなるのは度々だ。僕はすぐに瑞穂を落ち着かせ、また目の前に箸を置いてあげる。カタンと音を立てて。
「箸は瑞穂の胸の前にある」
「……うん」
視線をあさっての方向の状態で頷くと、自分の胸の前辺りを手探り始めた。今度はすぐに箸を見つける事ができたようだ。
箸を胸の前で握って少し嬉しそうな表情をした。
「よく出来た。その箸は瑞穂のもの」
次に僕が食卓の上に出したものはプラスチック製のコップっある。食卓の上にあるコップを掴み、それを口元まで持っていく練習だ。
何も入っていないコップを瑞穂の右手の近くにソッと置いた。
「コップは瑞穂の右手の近くにある」
「……うん」
頷くと、握っていた箸を胸の前に置き、右手でその付近を探り始めた。
コップの触感があったか、コップの側面を拾いあげ自分の口元まで持っていく。だが、口の中に何も流れてこない事が分かった途端、コップを右に置き、僕の方とは違う方向を見て言った。
「入ってないよ」
率直な感想だ。失敗したときの事を考えて、中には何も入れていない。
「次は飲み物を入れるよ。何がいい?」
瑞穂の好きなジュースはグレープジュースである。
「ぶどうジュースがいい」
待ってましたと言わんばかりに、僕はすでに食卓の隅に用意しておいたグレープジュースのペットボトルを手に取って、自分の前に置いた。瑞穂の右手にあったコップを「取るよ」と先に告げて、ひょいと取り上げた後、コップにジュースを注いであげる。
そして、コップを瑞穂の右手の近くに置いた。
「コップは瑞穂の右手の近くにある」
「……うん」
頷くと、右手で付近を探し始めた。さっきの要領で簡単に見つけ出した瑞穂はコップの側面を掴み、口元に運ぶ。今度は口の中にジュースが流れてくるのを実感し、少し嬉しそうだ。喉が渇いていたのか、瑞穂はそれを一気に飲み干した。
「おいしかった」
そう言った瑞穂はようやく僕の方を向いてくれた。瑞穂には僕がどこにいるのかは分からないんだろうけど、彼女なりに僕の声がする方向を探してくれているんだと思う。
さっきから、瑞穂が向いている方向は一定ではなかったから。


3話へ→

「うしなわれた世界のアスカ」1話

2007年09月23日 | うしなわれた世界のアスカ

うしなわれた世界の空を翔るアスカ。そのとき、少女は両手を空に仰いだ。


………………………………………


「見えない?」
はい。
「真っ暗?」
はい。
「どうやら…――」

檜山瑞穂の瞳から光が奪われたのは小学四年生の秋の雨の日だった。その日、父親の運転で車に乗っていた瑞穂は両親と共に近所のデパートへ行く途中だった。そのとき起きた若い男性の車との衝突事故で、瑞穂は衝突の衝撃で割れたウインドウガラスの破片を両目に喰らい、病院で『両眼失明』と診断を受ける。
瑞穂の父親は即死、母親もガラスの破片で大怪我をし大量に失血した事で運ばれた病院先で間もなく死亡した。
事故の原因は、若い男性の飲酒による運転だった。彼もまた即死であった。
一瞬で両親を亡くし、己の瞳から光を失った瑞穂は、同級生であり近所の幼馴染みである僕、水野慎の家で引き取る事になった。
引き取る、と言っても僕の中では『瑞穂がウチに遊びに来た』事と同じ感覚だった。ただ今までと違うところを挙げるなら、瑞穂の瞳に僕の姿はもう映っていない事だけだ。


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