新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
― Ohne Hast, aber ohne Rast.
Augustrait



“汝の近き者を己のごとく愛すべし”(マタイ伝)


わたしが・棄てた・女


 社会的「弱者」を扱った文学作品は多い。ドストエフスキー(Фёдор Михайлович Достоевский;1821-1881)は、『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『虐げられた人々』でてんかん症状を呈する4人の人物を描いているし、ウィンストン・グルーム(Winston Groom;1944- )の『フォレスト・ガンプ』、ダニエル・キイス(Daniel keyes;1927- )の『アルジャーノンに花束を』は、知的障害をもつ青年の放つ光と翳を主題に据えたものだった。


§その魂
 ドストエフスキーが“白痴”(現在ではこの名称は使われていない)の青年を「美しい無垢の人」として描くことを意図していたことと同じように、本書でも、主人公にあえなく棄てられる森田ミツという女性に、筆者の思う「聖なる女性性」とでも呼ぶべきものが現れている。
 本書もやはり社会的「弱者」を扱った文学である。無知で愚鈍で無抵抗なミツは、蔑まれ、憐憫されている。そのミツに高尚な精神を見出そうとする文学的意図には、何ら疑問の余地はない。

 遠藤文学は、筆者自身の敬虔な信仰に強固に支えられる、カトリシズムや汎神論への洞察が作品の根底にあり、さらにその根源には愛、倫理、背徳、エゴイズムの追求がある。根源に位置するものが反目しあうとき、相克が生まれる。遠藤周作(1923- )がどういう形であれ、文学作品として世に投げかけてきた主張は、この観点でとらえられるべきと思うのである。


§日常への痕跡
 短く、幸せの薄い人の生涯を考えるとき、われわれは抑えがたい怒りと哀しみを同時に味わうことになる。
 主人公が思いを巡らせるように、薄幸な人生を歩いた人は、自分の生き方を生前にどう考えているのか。「私は馬鹿だから」と寂しく微笑んで、なぜ健気に生きていくことができるのか。最期の瞬間には何を思い、この世を去っていくのか。そして、彼らは人にどのような示唆を与えているといえるのか。

 ミツの生涯は、暗く、細く、短いものだった。しかし、読者はミツの最期の言葉に触れると、そのような評価がどれほど意義のあることなのか、自分に問いかけずにはいられない。
 <もし、ミツがぼくに何か教えたとするならば、それは、ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、そこに消すことのできぬ痕跡を残すということなのか。寂しさは、その痕跡からくるのだろうか>*1

 倦怠的な人生観しか持たない主人公は、棄てた女のために今の手がたい幸福は棄てられないと考える。このことは、ミツの人生の終わりは、彼にとって出来事であっても事件にはなりえないことを意味している。しかし、彼の感じたアイロニーは、消えることなく彼にまとわり続けることだろう。なぜなら、日常で出会い、交わった女性亡き今、彼に残された生活もまた日常のみだからである。

沈黙 (新潮文庫)
新潮社

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『わたしが・棄てた・女』/遠藤周作/講談社/1972年
© Shusaku Endo 1972

*1 本書/p.254




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