新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
Augustrait






エレファント デラックス版


注; 作品細部への言及が含まれます。


I - 事件
 1999年4月20日、アメリカ合衆国コロラド州リトルトン、コロンバイン高校でエリック・ハリス(Eric Harris;1981-1999)とディラン・クレボールド(Dylan Klebold;1981-1999)は互いの頭を撃ち抜いて死んだ。高校の構内には、彼らが射殺した生徒及び教師13人の遺体が横たわっていた。

 午前11時過ぎ、散弾銃2丁、9ミリ半自動ライフル、小銃を黒いトレンチコートに包み込み、黒の手提げバッグにハンドメイドのパイプ爆弾を詰め込んで、2人はコロンバイン高校食堂へと向かった。この時間、カフェテリアは多くの学生でごった返している。この日も、500人ほどの学生が早めのランチを楽しんでいた。
 突然、爆音が鳴り響いて学生たちは聴力を一時失った。爆音は鳴りやまず、連続して起きた。クモの子を散らすように生徒が逃げ惑う中心に、彼らはいた。不敵な笑みを浮かべながら、次々にパイプ爆弾を辺りに投げつけていた。
 2人はけたたましく笑いながら、悠然と小銃をコートから引き抜いた。そして学生に照準を合わせ、次々に引き金を引いた。弾丸が切れると、弾倉に弾丸を込め直し、逃げる生徒を撃った。生徒を避難させた教師に銃弾を浴びせると、彼らは図書館へと向かった。
 「立て、運動バカども!」図書館にディランの大声が響いた。それに振り向いた司書の生徒は、その瞬間に胸を撃たれて絶命した。「お前は神を信じるか?」机の下に隠れた女子生徒は、眼前に銃を突きつけられながら聞かれた。泣きながら答えた。「し、信じるわ」「死ね」額に弾丸を撃ち込まれた彼女は、その場に崩れ落ちた。

 最後の銃声が聞こえたのは12時30分だった。保安官とFBIのSWATが到着してからも銃声は続いていた。犯人についての情報を把握するのに時間がかかったため、その間突入は見合わされていたのだった。結局、爆発物の処理が終わり安全宣言が出されたのは、16時になってからだった。その30分後、図書館でエリックとディランが倒れているのが見つかった。その周りを、10人の死体が取り囲むように散乱していた。
 事件の翌日、校内で1個の爆弾、またパイプ爆弾、ガスボンベ爆弾30個が見つかった。いずれもインターネットで簡単に手に入る情報を元に作れる単純な構造だったが、素人とは思えないほどの出来栄えだったという。

 この事件は、当時アメリカでも高校生が起こした史上最悪の銃乱射事件として、大きく報道された。2人の犯人の生育歴、反社会的行動や高校での虐めの被害者であったこと、「トレンチコートマフィア」という小さなグループに所属しており、銃や爆薬の入手経路等が明らかにされ、学校と地域を含めた危機管理能力について、様々な議論がなされてきたことは記憶に新しい。
 トレンチコートマフィアとは、ヒトラー(Adolf Hitler;1889-1945)に傾倒し、トレンチコートやナチスの軍装に身を包み、破滅的な詩のロックを好んで聴き、黒人やヒスパニック系の人を罵倒し、ペシミスティックな哲学を語る、いわば異端的なサブカルチャーのことをいう。従来、この集団自体には、それほど危険性はないとみなされていた。 


II - 「Elephant」の手法
 ガス・ヴァン・サント(Gus Van Sant;1952-)は、この世界を震撼させた事件を、高校生の実生活(日常)と、そこに忍び込む破壊衝動を独自の手法で織り込んで見せた。人物を演じる俳優は全員現役の高校生(2003年当時)で、基本的に台詞の台本は用意していない。アウトラインのみを設定して、あとは全て演者のアドリブに委ねられている。その理由は、シーンを意図的につないでいくための言い回しや展開説明は、この映画では不要だったから、とサントは説明している。
 その代わりに、通常の映画ではカットされるようなシーンをあえて入れ、観客に考えさせる時間をたっぷり与えた、と語る。例えば、高校生の存在する同一空間を軸に、一度登場人物それぞれの時系列をばらばらにし、ザッピングにより個別に追っていく。それほど斬新な手法ではないが、その表現方法が変わっている。

 この映画では、人物が歩く。歩く人物が登場しない映画などありえないが、とにかく歩く。歩く姿を側面的にカメラが追うだけではない。歩いていく高校生の背中に視点(カメラ)がぴたりと付き、どこまでも追っていく。あるいは、画面の奥から手前に向かって歩いてくる人物を、固定された視点が待ち構えている。このトラッキングショットは鮮やかだ。
 「高校生を見つめる1つの方法として、子どもたちの環境を捉える手立てがほしかった」とサントは映画製作の動機を明らかにしている。映画では、様々な生徒の背中を観客は追うことになる。金髪の少年、写真家志望の男子生徒、フットボール選手とその恋人、自意識過剰なネクラ少女、箸が転げても笑う年頃の3人の少女、そして、歪んだ精神をもった2人の少年を。
 彼らの後を追う観客は、いくら背を追っても決して追いつくことのない、軽い苛立ちを感じさせられる。いっそ一思いに追い越して、対面したいフラストレーションがだんだんに高まってくるのだが、それが実現されることはない。やがて苛立ちは不信になり、疑念を呼び、軋轢を招く。片方が高校生であるとしたら、もう片方が何であるか、語るまでもないだろう。

 製作総指揮を務めたダイアン・キートン(Diane Keaton;1946- )は、監督の視線について次のように語る。
 「大人として、若い人たちの間で何が起きているのかを分かろうとする責任については、本当に考えさせられるわ。何が驚いたかというと、この作品がピュアだということよ。ガスは大人になりつつある若者にとって高校がどういうものなのか、彼らの目線でしか考えていないの」*1
 映画に何らプロパガンダを盛り込まず、透明感ある映像でティーンエイジャーの日常を再現しようとしたサントの意図は、高校生と大人、あるいは社会の対立でもなく、犯罪者と被害者の背景を探ることでもなく、事件の責任をここに見出せと声高に主張することでもない。事件の経緯と当事者の状況を、想像を交えながら淡々と日常を描き出したことの輪郭に、明確に重なる提起は認められない。あるとすれば、いみじくもサントが述べるように、飽くまでも受け取った観客の個別の感性に託されている。


III - 2つの映画「Elephant」
 「エレファント」とは、北アイルランド紛争でのIRA(Irish Republican Army)の悲劇を扱ったアラン・クラーク(Alan Clark;1935-1990)のフィルム、「Elephant(1989)」に由来する。アイルランドの宗教対立を扱いながら、特定の指導者に焦点を当てることなく、強い問題提起がされていることをサントは感じ取った。さらに、クラークと自分のアプローチには類似性があると確信したサントは、撮る映画を同名にして、手法を模すことを躊躇わなかった。
 「Elephant(1989)」は男の背中を映し出すことから始まり、男が無差別に殺戮を繰り返す情景を視点が追う構成となっている。人物の背後を映し出すショットの多用は、サントの「エレファント」の原型となっていることは明らかだ。しかも、その背中に何を読み取るかを映画から誘導しない点までもが同じなのだ。

 次に、“エレファント”という言葉がどのような意味を帯びているか、そして殺戮に及んだ少年の一人がつぶやいた“こんな嫌なめでたい日もない”という言葉の真意について、考えられる点を述べたい。

 「Elephant(1989)」では、クラーク自身、「It’s the elephant in your living room(居間にいる象)」といっている。居間にいる象、つまり直視すべき問題に誰も向き合わず、素知らぬふりをする意である。そして問題が巨大であればあるほど、誰も対処することが出来ない。クラークは民族と宗教問題の拡がりを巨象に喩えたのである。
 紀元前2世紀頃、中国の経書『菩薩処胎経』『北本涅槃経』に、盲目の僧侶たちが集い、めいめい象に触れてみた寓話が記されている。ある者は耳を、ある者は鼻を、ある者は牙を、またある者は尻尾に触れ、自分の触れた部分こそが象の正しい姿だと主張して譲らなかった。しかし象の本質を知り得た者は一人もいなかった。これが世にいう古諺「群盲象を評す(撫でる)」である。

 サントは、「エレファント」でこの寓意をモチーフにしようと決めた。それぞれが暴力の疑問を解明しようと努力するのだが、どこか本質はわれわれの手をすり抜けた位置に在るのではないか。それを表すには、解明的手法の対極にある、答えのない世界を提示することにあるのではないか。説明によって得られた答えというものは、他の説明による答えを排することでもある。その危険性を語るには、起こった事実をあるがままに投射するよう努めるほかはない。
 少年たちが犯行に及ぶ前、ベッドルームで少年がピアノで「エリーゼのために」を弾くシーンがある。カメラは部屋を観察するように、ゆっくりと旋回するのだが、ここで一瞬だけ、象の肖像が描かれたスケッチが登場する。おそらくは少年自身が描いたものだろう。何の変哲もない画になっているのであるが、至極まっとうな象の全体図がさりげなく壁に架かっており、静かなピアノの音色だけが響くこのシーンは、それ自体意味を為すものではない。エンドクレジットが流れた後、惨劇場面と対をなすシーンであると気づいた時に、急速な勢いで観る者に強烈な印象を落とすメルクマールとなってくるだろう。

 単語Elephantには、「記憶力が良い」という意味がある。象は一度覚えたことは忘れないといわれるからだ。また、Elephantに接頭語《see pink》をつけると、酒・麻薬で幻覚が見える、という俗語になる(『プログレッシブ英和中辞典』/小学館)。
 「酒」…ここで思い出されることがある。映画冒頭で登場する初老の男、この男はジョンという金髪の生徒の父親だった。ジョンは普段からアルコール依存症の父親に手を焼かされ、この日も父親がらみで学校に遅刻し、校長に説教される。映画のラスト近くで再登場するまで父親の出番はない。ジョンが学校にいる間、父親は禁じられているアルコールを飲んでいたはずだ。
 “elephant” “see pink elephants”の意味をもう一度書こう。「記憶」「酒・麻薬で幻覚が見える」、この2つの意味を包摂する単語が映画のタイトルなのである。偶然にしては符号的に過ぎるのではないか。


IV - 悲劇『マクベス』
 銃を乱射しながら、少年は学校の廊下を移動し続ける。その時に呟いた一言、“こんな嫌なめでたい日もない”この台詞の出所が、イギリスの文豪に求められると気づいた方が、どれほどいるだろうか。実はこの台詞は、シェイクスピア(William Shakespeare;1564-1616)4大悲劇の一、『マクベス』第1幕第4場、マクベス登場時の台詞である。これは一体、何を意味しているのだろうか。

 スコットランドの武将マクベスは、荒野で出会った3人の魔女から「御身はいずれ王となられる身」との預言を受け、王を暗殺し、王位に就く。王を暗殺する直前のマクベスは独白する。
「それに逆らってまで、意中の馬に当てる拍車は一つもない、ただ野心だけが飛び跳ねたがる、跳びのったはよいが、鞍ごしに向こう側に落ちるのが関の山か」*2
 しかし、いずれ王位が脅かされることを恐れたマクベスは、次々に悪事を重ねるが、遂にはスコットランド貴族マクダフと決闘の末討ち取られ、晒し首にされる。

 圧倒的なパワーを持ち、支配的な権勢欲をもったマクベスは、心の底では王位を望んでいた。その実現をみるには、彼自身の実行にかかっていたが、理由なく謀叛を起こすわけにはいかない。王位簒奪は大義名分と機会がなければなし得ない。マクベスにとっては、その契機となったのが魔女の預言であり、夫人の教唆であった。しかし、魔女の預言はマクベスの心底にある欲望を看破したもので、夫人の唆しはマクベスの心の声でもあった。まさしくアルフォンス・ベルティヨン(Alphonse Berthillon;1853-1914)の言うとおり、「人は観るものしか見えないし、観るのはすでに心の中にあるものばかり」なのである。
 凶行に及んだ少年が口走ったマクベスの台詞は、圧倒的パワーをもつ武器を手にした時に、彼の心象を表すシンボリックな言葉である。もう行き着く先は定まっている。それは変えようもないことを予見していたとしても、不思議ではない。彼らにとっての魔女の預言は銃火器、夫人の讒言は学校で虐め抜かれた、怒りの声ならぬ声だったに相違あるまい。
 「Ich sage Fickt Du !(i say Fuck You !)町中に爆弾を仕掛けて、神経質な態度を装っている金持ちの鼻持ちならぬ母親がたくさんいるところを無差別に撃ちまくり、仕掛けた爆弾を一つ、一つ爆破する。その銃撃戦でおれが死んでも生きても、どうでもいい。おれがやりたいのは、おまえらくだらないくそ野郎どもをできるだけたくさん殺したり、負傷させたりすることだ」*3


V - 結び
 すでに述べたように、サントは事件に対する安易な答えを出すことを、自ら戒めている。自他ともに認めるその意思は、フィルムを通して観る者に伝わってくる。しかし、サント自身に答えがないまま映画を監督したと判断するのは早計である。少なくとも、題意に含まれる要素と、映画に僅かに散りばめられた特定の材料を接合して解釈することができれば、推し測ることは不可能ではない。
 そのための1つのメソッドを、どのような形で示すことが出来たにせよ、それは光の射さぬ暗黒大陸の航路図を作成したことにしかならない。そこから先は、この映画の題名が示すだけの世界が茫洋として広がっているのみである。いわば解のない問いを、各自で問い続けるほかないのである。

ディスカバリーチャンネル ZERO HOUR:コロンバイン高校銃乱射事件 [DVD]
角川書店

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Title:ELEPHANT
Director:Gus Van Sant
Cast:
 John Robinson
 Alex Frost
 Elias McConnell
 Eric Deulen
 Nathan Tyson
▽81分 / アメリカ / 2003年

*1 Elephant/Production Note
*2 『マクベス』/シェイクスピア/福田恆存訳/新潮社/
  1969年, p.159
*3 「米国社会への絶望的な怒り 乱射高校生ホーム
  ページの皆殺し予告」/『文藝春秋』1999年7月号/
  文藝春秋 / 所収




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