新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
―Ohne Hast, aber ohne Rast.
Augustrait





エスペラント―異端の言語


 ルドヴィコ・ザメンホフ(Lazaro Ludoviko Zamenhof)が国際共用語・エスペラントを発表して120年が経過した。実現不可能なバベルの塔の建設。神の逆鱗により同じ言語を持つことを許されなくなった人間は、意思を分断され世界各地へと散り散りに離散した。しかし、エスペラントこそが20世紀前半のうちに最も人口国際語として成功をおさめ、短期間のうちに世界中に拡大して発展をしてみせた。バベル以後に導き出された言語の解答にして挑戦、それがエスペラントと「されている」ことは間違いない。他の多くの人工語と異なり、エスペラントだけは血の通った実用に耐えうる持続的集団と言語共同体を作り上げることに成功したように思われる。その「特権」をエスペラントがいかに行使していくのか、またその歴史を振り返ることで、人類史の一側面を読み取ろうとする貪欲さが本書にはある。

第一章 人間は言語を批判してはならない
     ―それは神のつくりたもうたものだから
第二章 エスペラントはどんな言語か
     ―その簡単なスケッチ
第三章 エスペラントの批判者・批判言語
第四章 アジアのエスペラント
終 章 ことばを人間の手に!
あとがき
参照した文献とそれへの謝辞


 エスペラントを公用語としている国は存在しないが、母語にとらわれず既存の有力な一つの言語に統一できれば、多くのメリットが得られるはずだ。メリットは、大国が小国を呑んでその文化を侵食することを避けるというのが最大のものとなる。文化の蹂躙は言語支配から始まる。どこの国のものでもない言語が国際的なスタンダードとなり、多言語の分立を統合に導いていくことを夢見た人々がこれまでに多く現れ、またその試みの多くは消えていった。人工世界言語を夢想したのは、ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)もヨハネス・コメニウス(Johannes Amos Comenius)もダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)も、みな一度は考えたことだった。しかし、その発明の試みはいずれも成功には結びつかなかったし、そのような新しい国際語の発明は、「言語の起源」を論ずるのと同じほどいかがわしいこととして、パリの言語学協会は禁じたのだった。

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左 《L.L.ザメンホフ》
右 《田中克彦》


 1968年にエスペラントを公用語として採用したミニ国家・アドリア海のバラ島では、短命国家だったため、すぐにその公的地位を失った。以来、エスペラントを公用語とする国はなくなった。けれども、第一言語としてよりも第二言語としてのエスペラントの方が国際共用語としては大きな役割を果たすことができる。イタリアの諺には「翻訳者は裏切り者」という言葉があるが、これは元の原稿を大きく逸脱する誤訳や誤謬が入り混じることは「訳出の陥穽」とされていることを言い得ている。さらにここに意図や悪意が介在することすらあるから始末が悪くなる。中立の言語がグローバルに市民権を得ることができたなら、翻訳の不如意に惑わされることはなくなる。しかし、そのような全ての言語から距離をとった新言語は、必然的に次のような限界を露呈する。

<中立であるということによって新しい別の問題をひきおこすことになる。というのは、どの民族語を母語にする人でも、これまでの言語の知識をそのまま使うわけには行かないから、特別に学ばなければならないという問題である。
 別の言い方をすれば、そのような新言語はすべての人にとって外国語だということである。つまり、誰もその言語に対して「生まれながらの特権」がない>*1


 ルドヴィコ・ザメンホフは、1859年にビャウィストク(現在のポーランド・当時の帝政ロシア領)に生まれた。この地域は14世紀にはリトアニア領、16世紀はポーランド領、18世紀はプロシア領、そして帝政ロシア領と、めまぐるしく支配層が交代していた。街にはロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人が混在しており、主な言語は4種類、細かく言えば13種類もの言語が飛び交っていた。ロシア語、ポーランド語、フランス語、ヘブライ語、トルコ語、イディッシュ語、リトアニア語などなどだ。街の人々の版図は、4つの主な民族に分断されていた。すなわちロシア人、ポーランド人、ドイツ人、イディッシュ語を話す多数のユダヤ人である。さらに、人々はカトリック、プロテスタント、ユダヤ教、ロシア正教など多種多様な宗教を信仰しており、民族の坩堝と化していた。
 言葉が通じないことからくる諍いや衝突が絶えず、時にはユダヤ人に対して、ポグロムと呼ばれる大規模な暴力行為が加えられることもあった。ユダヤ系の医師の家系に生まれたザメンホフは、幼なごころにこのような不和に疑問を抱いていた。「なぜ、世界には強い民族とそうでない民族が存在していて、いがみあうのだろうか」…無神論者の父親は私塾を開き住民にドイツ語を教え、母親は信心深く、9人の子どもを育てていた。ある日、ザメンホフは神に反逆したために言葉を分断させられ、いがみ合うようになったという旧約聖書の「バベルの塔」の話を聞き、母親に訊ねた。「世界共通の言葉を作ることは、神にそむくことだろうか」。母親は答えた。「人を愛するためにそうするのなら、むしろ神の意志に添うことになる」

 ロシア語、ポーランド語、ドイツ語、フランス語に加え、イディッシュ語、古代ギリシャ語、ラテン語、英語を学んだザメンホフは、何重もの差別を受けた。ユダヤ人であること、ポーランド語を話すこと、イディッシュ語を話すこと、ドイツ人でないこと、ロシア人でないことなどだった。しだいに考えていくようになったのは、憎しみや対立の原因は、民族的・言語的な基盤を持つ人と持たない人の間で、あるいは彼我のネイションを背景とすることで起こる相互の無理解から来るのではないかということである。それを解消するために機能する、中立的なコミュニケーションを作ることはできないものだろうか。ここにエスペラントのビジョンは生まれた。

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左 『第一の書』 ワルシャワで出版されたエスペラントの最初の文書 1887
右 《Pasporta Servo》 世界中のエスペランティストの住所が掲載されている 2007


 中等学校からワルシャワに学び、大学卒業後、ワルシャワで眼科医を開業する。リトアニアの第二の都市カウナスでは、妻となるリトアニア系ユダヤ人女性・クララ(Clara)の父親から経済支援を受け、ついに1887年『エスペラント博士。国際語。序文と完全な学習書』(第一の書)を出版することができた。この出版は、1878年には原型・「リングヴェ・ウニヴェルサーラ」(普遍語)がすでに完成されていたのだが、支援者がおらず日の目を見ることができなかったのだ。エスペラント博士とは、“希望する者”を意味するペンネームである。ここから、この名前がザメンホフの考案した国際言語の固有名詞として広まっていく。

 当初、ザメンホフはラテン語を再考することが言語問題の解決に資すると感じていたが、実際にはラテン語の難しさに突き当たる。さらに英語を学んだとき、動詞の人称が変化しないことに注目する。街を歩いている時、「シュヴェイツェルスカーヤ」(門番所)と「コンディトルスカーヤ」(菓子屋)という2つの看板を目にしたザメンホフは、そのどちらにも“スカーヤ”という言葉が使われていることに目を留める。これは「場所」を意味する単語だ。接辞を使って単語を変化させれば、効率的な単語群を創ることができる。それにしても、ゼロから無数の単語を作り直していたのでは学ぶ方も困難なので、有数の言語からなじみの発音、つくり、用語を参考に再構成することにした。

<ザメンホフは、決して、これこれの言語に何パーセント割り当てるかなどと前もって計算してジビキをつくったのではないから、エスペラントの単語の出自をこまかく知っていたのではない。それでいろいろな人が計算してみたところ、ロマンス諸語(フランス語、スペイン語、イタリア語などから)75パーセント、ゲルマン語(英、ドイツ語など)から20パーセント、スラヴ諸国(ロシア語、ポーランド語など)から5パーセントと見るのが妥当だろうと言われている>*2

本書、p.58
《エスペラントの反対語》

 ビャウィストクやカウナスなど、この一帯の地域(ポーランドやロシア、リトアニア近接地帯)はマックス・ヴァインライヒ(Max Weinreich)エリエゼル・ベン・イェフダー(’Eli‘ezer bēn Yәhūdhāh)など言語学者を多く輩出した地域だが、歴史上もっともユダヤ人迫害が激しかったリトアニア付近であり、言語や宗教が異なり、相互理解の機会が見いだされることなく辛酸をなめた場所であったことが、この地の人々の関心を言語へと引きつけたのだろう。痛烈な皮肉となるが、ア・ポステリオリ(実在の経験に基づく構想)なエスペラントが生み出された地には、その地特有の土壌があったということになる。だが、それを“育まれた”と評することが憚れるのは、歴史的にこの一帯が決して明るい経過を辿ってこなかったからなのだ。


 エスペラントの解説書は枚挙に暇がないが、本書で田中克彦が示すのは、「アジアでのエスペラントの展開」も含まれる。それが丁寧なのだ。エスペラントの体系にアジアの言語が下敷きを求められないことからも明らかなように、もともとはエスペラントとアジア諸国にゆかりはない。けれど、アジアで初めてエスペラントに触れたのは、ここ日本なのである。二葉亭四迷、大杉栄、新渡戸稲造などがエスペラントの普及に尽力した。ザメンホフの起草のもとに採択されたエスペランティストの規定には、思想信条がいかなるものであろうとも、それが個人のものである以上はエスペラントの習得を妨げないことを宣言した。「異なる民族に属する人々の相互理解を可能にする、中立的な言語の使用を認める努力」、これがエスペラント主義とされたのである。
 エスペラントの背後には、ザメンホフが幼いころに感じた素朴な疑問、「なぜ民族同士で対立しなければならないのか」と、「人類が和合するための言語を作りたい」という希望が常にあった。それはザメンホフの感傷だけでなく、1906年に信条を「ホマラニスモ」(人類人主義)と名付け、表明したことにも示される。

<私は人類人である。それは私が次の原則により生きていくことを意味する。
(1)私は人間である。私は全人類は一家であると見なす。私は人類が分離して民族的および宗教的集団をなしているのは、最大の不幸であると考える。それは早晩、消滅しなければならない。その消滅を早からしめんがために、私たちはでき得る限りの努力をすべきである。
(2) 私はすべての人間を単に人間であると考えるのみである。そして、すべての人間を評価するには、単にその人の人物的価値および行為によるのみである。彼が自分より以外の民族、言語、宗教、階級に属するとの理由で、人を侮辱し圧迫することは野蛮的であると私は考える(部分抜粋)>*3

 エスペラントは、すべての人にとって第二言語として習得することが求められる言語である。各国の民、その母語の尊重を侵さないためには、中立な第二言語であることが求められ、閉じた母語を開く鍵になる言語、それがエスペラントであると考えられてきた。紛争や侵略、植民地政策をとらず、120年にわたり拡大してきた言語は、エスペラント以外には存在しない。民族と国家が結び付いた時、言語を包摂してそれらの対立は顕現する。したがって、個人の対立は民族・国家・言語が切り離されない場合に深刻なものとして生じることが多い。ザメンホフの思想は、本書で力説されるように、「民族と国家を経ずして個人が直接人類に結び付く言語」であり、それはまた「国家を所有することをあきらめ、それを放棄すると態度表明したユダヤ人の究極的思想の言語的表明」、それが“エスペラント”…この一点に回帰するように思われる。

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左 《世界エスペラント大会》 北京・2004
右 《エスペラントのシンボル》


 では、このエスペラントが真に国際語となる日は近いのだろうか。おそらく、ザメンホフのその宿願が果たされる公算は薄い。1905年8月に、フランスのブローニュ・シュール・メールで行われた世界初のエスペラント世界大会では、33の国が参加した。この大会で、ザメンホフはエスペラント運動の指導者としての地位を正式に放棄している。自身がユダヤ人であったため、反ユダヤ主義による運動妨害を危惧してのことだった。翻って言えば、彼自身は何を措いてもエスペラントの普及を最優先にしたということだろう。ザメンホフの慧眼は、言語の発展には指導者よりも使用者の共感を得ることの方が重要だと見抜いていたのである。同じ理想をもつ人々がものにしていく言語であれば、自然に広がりを見せていくと信じていた。燎原の火の如く、である。

 ところが、1920年代に入ると、国際連盟の作業後にエスペラントを加えようと、新渡戸稲造ほか10カ国が賛同を唱えた。しかし、アカデミー・フランセーズの会員で歴史家のフランス代表・ガブリエル・アノトー(Gabriel Hanotaux)が猛然と反対を訴えた。当時のフランス語は英語に国際語の地位を脅かされていたが、アノトーは「歴史と美しさを持ち、偉大な作家たちに使われて、世界中で知られ、理念のすばらしい普及手段だったフランス語」を讃え、結果的に国際連盟にエスペラントが加わることは不可となった。これまでも、新ギリシャ語、新ノルウェー語、新チェコ語が一般化のために議論されてきたときも、特権階級の人々から激しく反発されてきた。新奇な言語のもつ悲運であり、エスペラントもその例に漏れることはなかったといえる。言語圏内の抱える勢力としては、20世紀の3つの戦争(第一次大戦、第二次大戦、米ソ冷戦)を制したのが英語圏(米・英)であることからわかるように、世界を経済的・文化的に覆うのは“勢力としては”英語なのである。いまさら国際語の役割を英語でもなくフランス語でもなく、エスペラント語にしようとする立場が求心力を得ていくとは考えにくい。

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左 《世界エスペラント協会のネットワークを表すフランスの絵葉書》
右 《ガブリエル・アノトー》


 かつて、ザメンホフはユダヤ人がパレスチナに国家を樹立することが、民族の安寧に結びつくのだろうか、と真剣に悩んでいた。しかし、それすらも1つの民族主義であることに気付き、それでは対立や軋轢をなくすことにはならないと思い至った。その目的を達成するには、国際語を創ることが最善と考えたのだった。世界でいま、エスペラントを話す人々は2万人ともいわれている。この規模と年月を成功と呼べるかどうかの判断は難しい。けれど、ロマン・ロラン(Romain Rolland)の言葉(1922年の「ユニマテ」紙)に耳を傾けておきたい。

<ザメンホフが偉かったのは、彼がエスペラントを発明したからだとか、それをひろめる運動をはじめたからだ、という点だけではない。それよりも、まず、彼は新しく力強い社会の要求をはっきりと示したのであった。時代が人類をゆさぶっている深い熱望を彼は読みとったのだ。この点が偉かったのだと思う。自分たちを一つにつなぎ合わせてくれる炎が燃え上がるのを、全世界に散らばっているたくさんの人びとが『今やおそし』と待ちこがれていたちょうどその時に、エスペラントが現れて活動し始めたというのも、エスペラントが成功した一つの理由である>*4

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《ザメンホフの胸像》

エスペラント小辞典 ザメンホフ ザメンホフ通り

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▽『エスペラント』田中克彦
-- 岩波書店, 2007
(C) Katsuhiko Tanaka 2007

*1 本書、p.35
*2 本書、p.78
*3 人類愛の精神から生まれたエスペラント
*4 『ザメンホフ』小林司
-- 原書房, 2005、p.251




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