
マドレーヌを口にした瞬間、堰を切ったように記憶の波が押し寄せてくる。マルセル・プルースト(Valentin-Louis-Georges-Eugène-Marcel Proust)『失われた時を求めて』で描かれた「意識の流れ」を、文字情報の読解体験を通して、メアリアン・ウルフ(Maryanne Wolf)は、読者に追体験させる。文字の読解とは何か。ディスレクシア(読字障害)のカミングアウトを行う著名人が続出する中、ウルフは人類が発明した言語の「伝達力」を紐解き、思考の飛翔過程を実証的に論じてみせた。
人間の遺伝子に、読字をプログラミングされた部位はない。この回路は、後天的に獲得されたスキルで構成されている。視覚と聴覚を活性化させながら、ニューロンをネットワーク化させる過程で、文化的な「系統発生」を可能にしている。ソクラテス(Sōkratēs)は、書き字を「死んだ会話」と呼び、話し言葉による「対話」と対極にある表現方法、と非難した。沈黙が殺す思考は、物言わぬ書面による弊害というわけである。ウルフは、ソクラテスが文字情報を恐れた理由を検討するが、文化や知識を継承するユビキタスな価値を一方で認め、強調する。
たかだか2000年ほど前に発達してきた「文字を読む」能力。記憶に頼ったアウトプットは、記録に依拠する表現方法の発展にシフトしてきている。文明の興隆と文字文化の台頭、脳科学として「記号」の情報処理。これらの視点を含み、ディスレクシアの人々にも、能力を成熟化させるバイパスがあることを訴える。知覚・認知・言語・運動の連動のシステムを強化させる人間の困難は、数々の文学が燦然と輝く芸術性を味わうためには、乗り越えなければならない壁でもある。しかし、その苦労を贖うだけの見返りは、必ずある。その確信を、まさに本書を読みとおすことで、われわれも共有することができる。ウルフのいう「奇跡のような体験」を認識させてくれる書である。

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Title: PROUST AND THE SQUID
Author: Maryanne Wolf
▽『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ ; 小松淳子訳
-- インターシフト, 合同出版 2008
(C) Maryanne Wolf 2007
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