新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
― Ohne Hast, aber ohne Rast.
Augustrait



穏やかさが災いへと移ろった


ミスティック・リバー


 「不条理」という言葉で片付けることはできないほど、抜き差しならぬ状況というのが人生にはある。人は若いころの危機や失敗にどのように直面し、いかに乗り越えたかを経験知として語る術を持っている。それが時には、笑話として場を和ませることもあるだろう。

 だが、何年経っても癒えない傷を受け、その後の人生に深く翳を落とし続けるのだとしたら?言葉にするのはおろか、思い出すことさえ忌まわしい事実と向き合えず、それが全く理不尽で不条理(このような言葉では言い表せない)なことだったなら?

 本書は、そのような冷厳な事実が引き起こす群像をまざまざと描き出す。


§及ばざるもの
 選択肢はあったのだろうか。少年は3人だった。1人は岬に住む少年で、彼の親は持ち家だった。他の2人は集合住宅で、みな失業手当で生活する地域に暮らしていた。だが、いずれも10代前半の少年たちで、遊び仲間ではあった。
 そのうちの1人が、”ヘンリーとジョージ”に車で連れ去られた。彼らが警官ではないことはすぐに分かった。連れ去られた少年が帰ってきたのは4日後だった。その少年は、集合住宅に住む1人だった。

 「車に乗ったのがあいつでなく、自分だったなら?」この問いを残された2人の少年は反芻し続けることになる。選ばれたのがなぜ自分ではないのか。そこに選択の余地はあったのだろうか。あったとしても、抗うことはできたのか。

 人生には無数の糸がぶら下がっている。人は何か決断を下すたび、その糸を手繰り寄せ、引っ張っているのだ。その糸がほかにどのような糸とつながっているのか、それは引くまで分からない。とても幸せな色の糸が握った糸には絡みついているかもしれないし、まったく逆かもしれない。
 少年のころのあの出来事は、人生で引かされる多くの糸、そのうちの1本だったのだろうか。

 ヒトラー(Adolf Hitler;1889-1945)が画家の道を挫折したのは、ウィーンで自分の絵が一枚も売れなかったからだ。密談のため池田屋に到着した桂小五郎(1833-1877)は、同志の集まりが悪かったため、ひとまず藩邸に戻った。ケネディ(John Fitzgerald Kennedy;1917-1963)はオープンカーでパレードを行った。
 もし、ヒトラーに画才があり、桂が池田屋で同志を待つことを決め、1963年11月22日が悪天候で、ケネディがリンカーン・コンチネンタル・コンバーチブルに乗らなかったなら、どうだっただろう。
 
 彼らの人生の決定は、本人の意思とは関わりのない部分で、もっと巨大な意思決定となってしまった。呑み込むように翻弄する大きなうねりは、個人の都合など斟酌しない。


§MYSTIC RIVER
 なぜ、このような運命を背負わされなければいけなかったのかと、連れ去られ帰還した少年は、25年もの間懊悩する。
 <なぜおれをここに産み落とした?なぜおれにこんな人生を与えた?どうしてこの病気を――よりにもよって、何より忌み嫌っている病気を――おれに与えた?
 なぜ美しく、優しく、子供と妻に対する愛情の散りばめられた瞬間でおれの心をかき乱す?>*1

 救いを求めないこの物語は、人の善意に頼らずとも人生の姿を語ることはできるし、そのようなものがいかに微力な存在であるかを、静かに、だが力強く訴えているかのようだ。けれども、作中で誰もが己の信念にしたがって行動し、歯車が軋みをあげて大きく狂い出すその様相を、読者としては読み進めることでしか確認できない。
 その結果、確実な善意が存在しない代わりに、疑いようのない悪意というものの存在も認められないことに気づくだろう。

 "MYSTIC RIVER"は、ある儀礼の場として用いられる。何らの価値判断も意味をなさない儀礼の場にあって、理由なく生にしがみつこうとする者の叫びは悲痛なものだが、圧倒的な動力に抗う手段は存在しない。それは25年前にすでに規定されたものだったといってよいだろう。

 かくて物語は、どんな理由や観念も及ばぬほど暗く、冷たい河に、深く沈む。


《ミスティック・リバー》
souce: http://gallery.phoenixnest.org



愛しき者はすべて去りゆく (角川文庫)
角川書店

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Title:MYSTIC RIVER
Author:Dennis Lehane
© Dennis Lehane 2001
*1 本書/p.357
▽『ミスティック・リバー』 / デニス・ルヘイン[加賀山卓朗訳]. -- 早川書房, 2001年




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