新旧の書籍および映画の批評,作品解説.
― Ohne Hast, aber ohne Rast.
Augustrait





[提供:光文社]
 ノアは神に命じられた通り,洪水に備えて箱舟を造り,動物たちとともに漂流する.しかし舟のなかに禁断の肉食を知る動物スカブが紛れ込んだことから,無垢で平和だった動物の世界は,確実に変化していくのだった.聖書では語られない,箱舟の"真の物語"――.

 狼と仔羊はともに草を食み,獅子は牛のように藁を食べ,蛇は,塵をその食べ物とする――天変地異の危機に“箱舟”に乗り込んだすべての生き物,すべての肉なるもの.「肉食」「草食」「雑食」という概念以前のあらゆる動物界の一群は番(つが)いとなって,40日と40夜の洪水をしのぐ.アララテの山上にとどまった箱舟から人間と動物は降り,人は神の契約の印“虹”で,「原罪」と「神の救済」を確認し続ける.泌尿科学を専門とするイギリスの医師ケネス・ウォーカー(Kenneth Walker)は,箱舟の中で人獣がいかなる意図や企てで同衾していたかをここで想像した.

 文学・医学・心理学関連の著書を多数残したウォーカーは,晩年には神秘思想に傾倒していたという.月光で浮かび上がるゲッセマネの森で,キリスト(Iēsūs Khristos)を幻惑する悪魔のビジョンが本書にも登場する.ここでは“かさぶた”を意味する「スカブ」という陰獣である.人語を解する動物たちは,長い航海の間に不安,苛立ち,猜疑の念を強める.箱舟の内部では人間の用意したオートミールを共有食とし,何よりみな,人間の知力も及ばぬ絶対的「優位」に拝伏し縋るマゾヒズムで連帯していた.そこに不穏の空気を呼び込むスカブは,偶然にも以前に血肉の味を知る「選ばれた者」.無垢の集団にスカブが注入するのは,血液・膿・分泌物の混合からなる醜悪な「かさぶた」としての悪徳.

 捕食の快楽と被食の恐怖が,この救済集団にはそれぞれ醸成される.それは無邪気な動物界の決裂を意味するもの.クリダー,ナナジュナナ,グリフォンや怪鳥ロックなどの架空の動物も箱舟には乗り込んでいたとウォーカーは書き込んでいる.その中で,やはり実在しないスカブという奇獣が肉食の罪を負わされ,他の動物にも伝播させるのはなぜか.アダムとイヴを唆した蛇が終生地を這い,頭を踏み砕かれることが定められたように,スカブは忌まわしい業の起源に選ばれたのである.こんな糜爛の構図が,動物たちの愉快な会話で児童書を装われ,魔が差し込まれている.

手塚治虫の旧約聖書物語 1 天地創造 (集英社文庫)
手塚 治虫
集英社

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Title: THE LOG OF THE ARK
Author: Kenneth Walker

ISBN: 9784334751265
  • 『箱舟の航海日誌』ウォーカー ; 安達まみ訳
    --光文社,2007.4, , 262p, 16cm
    (C) Kenneth Walker




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