Augustrait





[提供:新潮社]
 あの夏の約束を捨て,私は外交官になった.初めての任国で親友になった12歳の少年.政治に巻き込まれるなと警告してくれた同期.秘められた友情と別れを追想する告解の書――.

 外務省に入省した佐藤優は,ロシア語研修のため26歳の夏,ロンドン郊外ベーコンズフィールドにあるイギリス陸軍語学学校に籍を置くこととなった.この学校には英語科のほかにロシア語科,ドイツ語科,アラビア語科があった.「アラブの狂犬」ことムアンマル・アル=カッザーフィー(muammar el-qaddafi)は佐藤の同窓生にあたる.ロシア語研修に先立って,佐藤は外交官にとって必須となる英語力を磨く必要に迫られた.そこで,バッキンガムシャー州ハイ・ウィカム近郊にある欧日交流基金で学ぶこととなり,ファーラー家に5週間ほどホームステイすることになった.その家には,グラマースクールに通う「グレン」という利発な12歳の少年がいて,青年期の佐藤と意気投合した.

 グレンとの交わりが異文化体験となったことの記憶が,このような私小説の形をとらせている.成績優秀だが,ラテン語を苦手としていたグレンに,神学を修めラテン語の素養のある佐藤が家庭教師を務める.その代わり,グレンは佐藤の欧日交流基金の英語課題を手助けしてやる.2人の間には,非公式ながら信義によって「紳士協定」が結ばれた.おそらく相当の脚色を交え,中流階級下層の少年との和みある交流のなかに,ある種の緊張感が走る.利害関係を見極め,必要な時にはそれまでの関係を遮断,あるいは切り捨てなければならない冷徹さが,外交官には求められる.このことを,佐藤は同期の「M」という男から指摘されている.

 職務上の非情さに違和感を抱いていた佐藤だが,「友情はいつまでも続くか」「20年後も自分のことを憶えているか」というグレンの問いへの回答,また約束を十分に守れなかった――グレンとの紳士協定をいつしか反故にしていたことを,悔恨の棘として持ち続けた.大学に進学し,中流階級下層から知識階級へと階層移動を実現できる可能性が高いように思われたグレンは,その道を歩まなかった.それが本人と家族にとって幸いであったかどうかは不明だが,洗礼を受け神学徒であった青年が外交官へと「脱皮」するうえでの大切な時期に,本質的に人種主義者で階級意識が強いイギリス人の「距離感」を,志を固めつつ学んだ.オックスフォードやキングス・カレッジ・ロンドンでは,協定どころか嫌悪感をもってイギリスの階級を理解することになっただろう.

非紳士協定~5番アイアン殺人ショット~ (光文社文庫)
生島 治郎
光文社

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原題: 紳士協定―私のイギリス物語
著者: 佐藤優

ISBN: 9784104752065
  • 『紳士協定―私のイギリス物語』佐藤優
    --新潮社,2012.3, , 315p, 20cm
    (C) 2012 佐藤優