たまたま見返した当ブログの2年以上前の記事とそのコメントが、今年起こったいくつかの事件を予見していたように思えるのでまとめておきます。
【該当記事:<兄弟げんか>高1長男死亡、中2二男を補導 長崎】 2006年04月16日
この記事の中の以下の箇所は、今年6月の「秋葉原通り魔事件」の事を予見しているようでもあります。いや、むしろ彼だけでなく、最近の多くの事件においてこの傾向が顕著に現れているようにも思えます。
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残酷なゲームや激しい暴力性のあるゲームってのはね、
正常な精神状態の時に遊ぶじゃないですか?
それはそのときは楽しいわけだ。
で、時が過ぎて、そのゲームの事なんて忘れてしまってからね、
精神が不安定になるような事があったとき。
たとえば会社をクビになったとか、失恋したとか、そんなとき、
深層心理に焼き付いた暴力的衝動や残酷な行為をしたい、という
そんな衝動が炎のように蘇って、その人の精神を支配するのですよ。
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秋葉原通り魔事件の容疑者は、恋愛がうまくできず彼女がいない、職場をクビにされた(と勘違いした)といった出来事が蓄積し、ネットの掲示板での知らない人たちとのやり取りが引き金となって犯行に及んだと伝えられています。
また、これはほとんどマスコミでは語られていませんが、彼の犯行の手口は、洋物アクションゲームによくありがちな、敵の群れの中に車で突っ込みなぎ倒し、車を降りたらナイフや銃で敵を殺しまくる、というような展開に酷似しています。
また、同記事コメント欄に僕が追記した文章が、最近連続しておきている「親による子供の殺害事件」を暗示しています。
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そのような多くの煩わしい事をゲームソフトは代わりにやってくれるのです。いわばバーチャルペアレント。ロボットマザー。です。
そのような意味で親はゲームソフトを子供に与える。それだけで済むからです。それによって時間を自分たちのために使えるからです。
親から子に注がれる愛が確実に薄れていることは明白です。とくに時間に追われ、ストレスに苛まれ、多くの情報と誘惑が飛び交う都会に住む親の場合、それは顕著なのではないでしょうか。
だからこそ、耳を疑うような事件が後を絶たないのだと思う。
人が人に関わる時間、親が子供に愛情を注ぐ時間、それが失われるところに、すべての問題の原因があるように思えます。
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また、こんな記事も・・・
【該当記事:ゲーム中毒は精神障害 2007年06月15日
ゲーム中毒が精神障害だってのは誰が見てもあきらかだっつーの。
映画でもゲームでも、作り手はよく表現の自由を盾に好き勝手やりますが、作り手側の責任は明らかに存在します。
たとえば少年少女は自分が見るもの、見るべきものを選別する判断能力がありません。
それがないから「未成年」という扱いなのです。
判別する能力が無いのに、そういうのは子供にゆだねるべきだ、などという理屈は通らないのです。
大人が子供の見るものを規制する。これは健全な事なのです。
そこに大人が子供にかける「愛情」が表現され、子供はその愛情を頭ではなく、心でうけとめ、大人になった時にその大人達の愛に気がつく。つまり、夢や希望や感動が溢れる子供の世界を、大人が責任をもって構築しなければならないのです。
で、それは実効性がない、子供は規制されればよけいに興味を持つし、大人の知らないところで色々なものを目にしている、という意見もありますが、これも空論。
規制されている状態が大切なのです。影でコソコソ見る、とても良いことです。大いに結構。
つまり「子供の自由」という理論は、極論でいくと、町中でセックスしてもいいじゃん。というような事なのです。
逆にいえば今の子供達は自由という名の無責任で育てられ、それが大人の愛情不足を生み、子供の成長に反映しているのだと私は考えます。
愛情不足の子供は精神障害になる危険性が高まります。これは学術上明らかなのです。
もっと大人が、社会が、世界が子供を大切にしなければいけません。
人類の明日を作るのは子供たちなのですから。
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上記の記事は元々僕の持論ですが、これは「偽善」でもなければ「きれいごと」でもありません。
目の前にある「危機」であり「課題」であり、私たち大人の「義務」なのだと言いたい。
私たち大人自身が、「死んだらそれまで」なんていう刹那的価値観を共有する限り、子供に与えられる「富」に「愛」は含まれず、そんな子どもたちは壊れた大人に成長していく。
今がちょうどその「はじまり」なんだと思う。
僕は今30歳だけれど、ちょうど僕らの世代が愛や情熱に溢れた世界で育まれた最後の世代なのかもしれない。
僕らの世代はまだかろうじて鼻水を垂らした貧乏人のガキンちょが主役だった時代だ。
僕ら以降の世代は、だんだんとそれが逆転し、袖が鼻水だらけになった服や薄汚れた半ズボンや破れた靴下といった姿の子供が「レア」になっていく。
そして今の子どもたちときたら、生まれた時からインターネットやケータイがあるのだ。新人類もいいところだ。
友達同士の口コミよりも、インターネットのコミュニティやニュースサイトが情報の主役となり、そこには人の絆もなければユーモアも嘘もない。血の通わない冷たいデータだけが行き交っている。
冷たいデータに人間としての熱い血潮を通わせて、ビジネスしていくのが大人だとするならば、今の子どもたちはそのための力を養うことができているんだろうか。
溢れかえる情報と、人の声(音速)よりも早いスピードで取り交わされる、鋭いナイフのような意思伝達。
心が丸裸の人間同士が、お互いに鋭利な刃物で傷つけ合うような電子世界。
僕たち人間は気づかないうちに、テレパシーに近いスピードと利便性をもった通信手段を手にしていたのだ。
そして子どもたちは、情報を正しく判別し、選別し、理解し、用いていく術を知らないまま、荒れ狂う情報の海原に放り出されている状態だ。
彼らの生命はそれこそ打ちつける波濤と暴風に襲われて悲鳴をあげているに違いない。本当は怖くて泣き出したいに違いないのだ。
しかし彼らは、学校で虐められたことを親に言えない子供のように、強がってそれを認めない。
溢れる情報を大人ぶって使い切っているように振る舞う。
考えてみよう。想像してみよう。
小学生時分の子供が、自宅のコンピューターをのぞくと、日本中(場合によっては世界中)の子どもたちが、一斉に自分のことを見つめる。
その子はおそるおそる、その群れの中に入っていく。あるときは励まされ、あるときは支えられ、あるときは優しくしてもらうこともあるだろう。しかし、それと同時に、一瞬にしてバカにされ、けなされ、脅されるようなこともあり得る世界なのだ。もちろんそのような被害者を身近に見る事すら可能なのがインターネットだ。
のぞけば、そこには被害者も加害者もいる。自分だっていつ被害者になるかわからない。
子供の世界は非情だ。
私たちの世代だって、また、私たちの親の世代だってそれはずっと変わらない。
ただ大きく変化したのは「情報技術」だ。
悪い噂も良い噂も、一瞬にして世界中に流布する。
そう、まるで小学校の教室でウンチを漏らした子供の名前と顔写真が全国ネットのテレビで放送されてしまうような、いや、もっと残酷な事が数限りなく分単位で発生しているのが、インターネットの世界なのだ。
そして、いじめる側は、いかにしてローリスクで効果的な精神的攻撃を加えることができるか、そのような情報をいとも簡単に入手することができる。
いじめにとどまればいいが、時にそれは殺人にまで及ぶことすらあるのだ。今の子どもたちはある意味大人より賢い。情報はこの社会では大きな「力」となるからだ。
子どもたちは殺人をおかしても自分の人権は保護され、早期に社会復帰のチャンスが与えられることを知っている。
それよりなにより、誰にも知られずに殺人を完遂する方法すら知っている。
殺人や自殺の方法について、大人よりも多くの知識を持った子供は、意外と多いかもしれない。
とにかく、大人と比べて子供には無限の時間がある。
私たち大人はそのことを脅威と感じなければいけない。
その気になれば今の子供は、パソコンやケータイで一夜にして数億円を稼ぎだすようなことだって、嫌いな子を自分の手を汚さずに一家全員殺害するようなことだって、やってのける可能性をもっているのだ。
まずは私たち大人が、自らの価値観を転換しなければいけないのではないか。
私たちは「死んだら終わり」じゃない。
生命は永遠で、死んでもまたどこかに生まれてくる。
そんなふうに考えてもいい。とにかく、この世界全体に対する責任をもつべきじゃないか。
そうなれば子供が社会にとって、国にとって、世界にとっていかに重要な存在か理解できるはずだ。
未来を創るのは子供なのだから。
そしてその子供を育むのは私たち大人なのだから。
最後に僕の大好きな言葉。
「英知を磨くは何のため 君よそれを忘るるな」