参加者:大谷良太・とよよん・田中宏輔
時間:2015年11月23日12時~17時
場所:四条烏丸上がる東側にある喫茶『ベローチェ』の2階
合評会
大谷良太作品
大谷良太作品
試作(シジャク)
細密画のような歌があり、
小新(シャオシン)の告げる朝がある。
きみの胸を流れる水の一縷、
機械のように飛び起きる私。
明けたことを、
更に開けて行く。
開いた扉を、
更に開かれて行く。
GODDESSONTHEDOORWAY.
私は軋む蝶番を
レンチでぎりぎり治しながら。
古びた檸檬に生えたカビが
いま陽光に輝き出したから、
クリスタルガイザーの空きボトルに
再びは読者(きみ)達を注いで…。
とよよん作品
竜宮城
ちょっとそこまで
海の底まで
亀のタクシーで
ちょっとそこまで
竜宮城まで
亀のタクシーに
深夜乗り込み
くらいくらい
海
地球に引かれ
沈んでゆく
水面では
ひかるひかる
波
月の力に
ゆれるゆれる
そよぐそよぐ
新緑のわかめ
古株のいそぎんちゃく
ふえるふえる
飴でできている珊瑚
闇でできている海星(ヒトデ)
乙姫をゆり起こし
髪に飾りつけ
満足し
さっさと眠りにつく
きえるきえる
意識
海藻の草はらに
眠る魚
そよぐそよぐ
海の表に満面の笑み
まぶたを閉じて
月の
罪の
君の
(Linn Mori「Ryugu-jo」にあわせて朗読するために作った詩)
田中宏輔作品
13の過去(仮題)
2015年11月14日
いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこに、ぼくは、ケイちゃんとぼくを坐らせる。ケイちゃんは23才で、ぼくは21才だった。そこに、夕方の河原町の喧騒をもってくる。たくさんの忙しい足が、ケイちゃんとぼくの目のまえを通り過ぎていく。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。ケイちゃんに訊かせる。「きょう、おれんち、泊まる?」「泊まれない。」ぼくに答えさせる。ふたりの目は通り過ぎていく足を見ている。目はどこにもとまらない。大学生になっても親がうるさくて、外泊がむずかしかった。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。このときのぼくのなかに、この会話のほかの会話の記憶がない。ただただたくさん、足が通り過ぎていったのだった。数十分、ぼくは、ケイちゃんと、ぼくを坐らせたあと、ふたりの姿を、いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこから除く。ふたりの姿のない、たくさんの足が通り過ぎていく風景を、もうしばらく置く。足元をクローズアップしていく。足音が大きくなっていく。プツンッと音がして、画面が変わる。ふたりの姿があったところにタバコの吸い殻が捨てられ、革靴の爪先で火が揉み消される。数時間後の風景を添えてみたのだ。架空のものの。(『13の過去(仮題)』の素材)
あちゃー、現実だけをチョイスするんだった。タバコの吸い殻のシーンは除去しよう。読書に戻る。
記憶とはなんとおもしろいものなのか。無意識の働きとはなんとおもしろいものなのか。ケイちゃんの名字も山田だった。ヤンキーの不良デブのバイの子も山田くんだった。彼が高校3年のときにはじめて出合ってそれから数年後から10年ほどのあいだ付き合ってたのだ。怪獣ブースカみたいなヤンキーデブ。ケイちゃんの記憶が3つある。ヤンキーデブの山田くんの記憶はたくさんある。ほとんどセックスに関する記憶だ。不良だったが人間らしいところもあった。
2015年11月21日
いま帰ってきた。学校の帰りに、大谷良太くんちに寄った。ドーナッツとコーヒーで、ひとときを過ごした。左半身の血流が悪くて、とくに左手が冷たい。父親がリュウマチだったので、その心配もあるが、叔母が筋ジスだったので、その心配もある。まあ、なるようになるしかない。それが人生かなって思う。西院駅からの帰り道、セブイレで、サラダとおにぎりを買ってきた。これが晩ご飯だけど、お茶といっしょに買ったら、600円くらいした。こんなもんなんだ、ぼくの生活は。と思った。あしたは、イーオンでフランスパンを買おう。そう決心したのだった。きょうは、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。
あさって京都詩人会に持っていく新しい詩というのがなくて、このあいだツイートした『13の過去(仮題)』の素材をつかって書こうかなと思っているのだが、いま、ふと、過去の記憶を素材にしたあの場面の記憶というのが、ぼくを外側から見たぼくの記憶であったことに気がついた。ぼくの内部を、ぼくは見たこともないので、わからないが、そう単純に、ぼくを内部と外部に分けられないとも思うのだけれども、ぼくの記憶の視線が構成する情景は、ぼくが目で見た光景に、ぼくと、ぼくといっしょにいたケイちゃんを、そこに置くというものであったのだった。そう思い返してみると、ぼくの記憶とは、そういうふうに、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたぼくを置く、というものであるのだということに、いま気がついたのであった。ぼくの場合は、だけれども、ぼくの記憶とは、そういうものであるらしい。54年も生きてきて、いま、そんなことに気がつくなんて、自分でも驚くけれども、そう気がつかないで生きつづけていた可能性もあったわけで、記憶の在り方を、振り返る機会が持ててよかったと思う。嗅覚の記憶もあるが、視覚の記憶が圧倒的に多くて、その記憶の在り方について、ごくささいな考察であるが、できてよかった。とはいっても、これはまだ入り口であるようにも思う。自分が見た光景のなかに自分の姿を置くという「映像」がなぜ記憶として残っているのか、あるいは、記憶として再構成されるのか、そして、そもそものところ、自分が見た光景に自分の姿を置くということが、頭のなかではあるが、なぜなされるのか、といったことを考えると、かなり、思考について考えることができるように思われるからだ。ぼくが詩を書く目的のひとつである、「思考とは何か」について、『13の過去(仮題)』は考えさせてくれるだろう。ぼくの記憶は、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたときのぼくの姿を置くということで記憶に残されている、あるいは、再構成されるということがわかった。他者にとってはささいな発見であろうが、ぼくの思考や詩論にとっては、大いに意義のある発見であった。その意義のひとつになると思うのだが、自分の姿というものを見るというのは、現実の視線が捉えた映像ではないはずである。そのときの自分の姿を想像しての自分の姿である。したがって、記憶というものの成り立ちのさいしょから、非現実というか、想像というものが関与していたということである。記憶。それは、そもそものはじめから、想像というものが関与していたものであったということである。偽の記憶がときどき紛れ込むことがあるが、偽の記憶というと、本物の記憶があるという前提でのものであるが、そもそものところ、本物の記憶というもののなかに、非現実の、架空の要素が潜んでいたのだった。というか、それは潜んでいたのではなかったかもしれない。というのも、記憶の少なくない部分が、現実の視覚が捉えた映像によるものではない可能性だってあるのだから。スタンダールの『恋愛論』のなかにある、「記憶の結晶作用」のことが、ふと、頭に思い浮かんだのであるが、自分がそうであった姿を想像して、自分の姿を、自分が見た光景のなかに置くのではなく、自分を、また、いっしょにいた相手を美化して、あるいは、反対に、貶めて記憶している可能性があるのである。というか、自分がそうであった姿を、そのままに見ることなど、はなからできないことなのかもしれない。そのような視線をもつことができる人間がいるとしても、ぼくは、そのような視線をもっていると言える自信がまったくないし、まわりにいる友だちたちを見回しても、そのような能力を有している友人は見当たらない。いくら冷静な人間でも、つねに冷静であるというようなことはあり得ない。まして、自分自身のことを、美化もせず、貶めもせずに、つねに冷静に見ることなど、できるものではないだろう。「偽の記憶」について、こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかのひとつの作品で詳しく書いたけれども、引用で詩論を展開したのだが、そもそものところ、記憶というものは偽物だったのである。記憶というもの自身、偽物だったのである。現実をありのままに留めている記憶などというものは、どこにもないのであった。たとえ、写真が存在して、それを目のまえにしても、それを見る記憶は脳が保存している、あるいは、再構成するものであるのだから、そこには、想像の目がつくる偽の視線が生じるのであった。齢をとって、身体はガタがきて、ボロボロになり、しじゅう、頭や関節や筋肉や皮膚に痛みがあるけれども、この痛みが、ぼくのこころの目を澄ませているのかもしれない。齢をとって、こころがより繊細になったような気がするのだ。より神経質に、かもしれないけれども。睡眠導入剤と精神安定剤をのんで、ゴミを出しに部屋を出たとき、マンションの玄関の扉を開けたときに、その冷たい玄関の重いドアノブに手をかけて押し開いたときに、ふと、そういう思いが去来したのであった。痛み、痛み、痛み。これは苦痛だけれども、恩寵でもある。
足に髭のあるひと。
髭に足のあるひと。
なぜか、こころが無性につらいので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読んで寝る。朝、目覚めずに死んでいたい。
2015年11月22日
目覚めた。生きている。夢を見たが忘れた。上半身左、とくに肘関節と肩から肘にかけての筋肉の痛みが半端ではない。そうだ。夢のなかで、細くなった自分の足首を見てた。いま足首を見たが、いま見てる足首よりも細かった。なにを意味しているのだろう。あるいは、なにを意味していないのだろうか。
きょうやる予定の数学のお仕事が終わったので、あした京都詩人会の会合に持って行く『13の過去(仮題)』の素材データをつくろう。夕方から、日知庵で皿洗いのバイト。
合評
大谷良太「試作(しじゃく)」
とよ:タイトルと、小新の読みは何語か。
大谷:シジャクは韓国語、シャオシンは中国語。これは構想中の詩集の一部。民族性を強調したかった。マイノリティーの強調により、日本文学を再構築していきたい。読者と共に作り上げたい。翻訳詩の作業や意味に似ている。「試作」には、「始作(シジャク)」「詩作(しさく)」の意味も込めている。
田中:読者が置いてきぼりを食らうので、注が必要なのではないか。
大谷:注をつけると読み方が統一されてしまうので、読者の解釈に任せたい。
とよ:最後、「再びは」とあるが。
大谷:「ふたたび」を副詞ではなく、語源の「二度」として名詞に「は」をつけ、行為を強調した。一度注いだ過去があり、注がなくなった期間があり、今やっと注がれたというような意味。
田中:差異を強調することにより、自分の「生」を特化していると思う。
大谷:イメージは、「夜が明けた」→「自分が扉を開ける」→「彼女によって開かれて行く」。自己の描写の切り取りを重ねていくことと、フィクションを織り交ぜた作品を作っている途中で、その中の一部となる予定。
とよよん「竜宮城」
田中:ちょっとそこまでの「そこ」が海の「底」。
大谷:音楽に合わせて書いているというが、詩の目的や必然性が感じられない。詩に対する目的が違うのかもしれない。
田中:気分で書いたのではないか。最後、顔を上に向けるというのは、恍惚とした、かなり良い気分なのではないか。
大谷:「罪」が出てくるのが分からない。
田中:「罪」は音合わせではないか。音の心地よさがある。
田中:主人公は男か女か。
とよ:モチーフが浦島太郎だから男だと思うけれど、意識せずに書いた。
田中:「眠る魚」のところで主体が定まっておらず、揺れている。「ともに眠る魚」とすると、乙姫も太郎も一緒に眠る構図となり良いのではないか。
大谷:月、光、暗、闇が多すぎる気がする。
田中:「地球に引かれ」「月の力」で知識に引っぱられてしまい、気分的な情緒的な作品の中で浮いていて気になる。自分が普段、意識していることでないので気になるのかもしれない。
とよ:自分が女性なので、男性主体で表現することについて考えるときがある。
田中:きわめて知的に多角的に書くと、偏見がなくなっていくのではないか。具体性を重ねるとビジョンが強くなるが、それが普遍的とは限らず、読み手の感性に依存しているところに注意が必要。
田中宏輔「13の過去(仮題)」
とよ:「詩の日めくり」に形が似ている。「13の過去」はどういう形式になるのか。
田中:未定であるが、「13の過去」は「詩の日めくり」に吸収される可能性もある。
大谷:記憶についての考え方が、見えるものしか存在しないという考えに似ている。保存、想起のどのタイミングで記憶というのか、記憶が写真のイメージで再構築されたものということもある。たとえば原子は見えないけれどある。記憶は頭の中にあるものだと思う。
田中:それは潜在的なものであり、顕在化できない。
田中:自分を他人のように思うことがある。自分が世界になったような感覚を味わったこともある。ナルシシズムと言うより、書きやすいから自分を素材に書いている。
とよ:第一連は、記憶そのものというより、詩として脚色したものではないのか。
田中:詩と記憶が一緒になっているかもしれない。
(大谷…大谷良太、とよ…とよよん、田中…田中宏輔)