世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本近代化の流れ(57)

2017-01-30 00:00:00 | Weblog

1937(S12)年8月9日夕刻、日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、中国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された。

これが第2次上海事変のきっかけとなったものであるが、これは当時「南京上海防衛隊司令官」であった張治中と言う人物が、企てたものであった。張治中については、このブログのNO.37、 2016.12.29でも言及しているが、隠れ共産党員であった。そしてソ連のスパイであったと言わている人物であった。

ここら辺の事情を、小生のブログ第2次上海事変(5)の中より引用して、説明しよう。



嘗ては黄埔(ホ)軍官学校の教官をしていたことがある。この士官学校はソ連が資金と人材を提供して設立したものであり、その中からソ連は高い地位のスパイ育成を目論んでいた。校長は蒋介石であったが、そこには政治局員として周恩来がいた。「張治中」は周恩来に中国共産党への入党を依頼したが、周からは国民党内に留まり「ひそかに」中国共産党と合作するよう求められたと言う。回想録にそのように記述されているとWikipediaに書かれている。

ソ連コミンテルンの策略は、用意周到で緻密なものであった。

1936年12月11~12日に起こった「西安事件」こそ忘れてはならない。当時共産軍は蒋介石に攻められて戦力は1/3に減っていた。そのため蒋介石はここぞとばかりに殲滅を図るべく1936年10月に、蒋介石軍の司令官であった張学良と西安の軍閥の楊虎城に、共産軍根拠地(多分延安)への総攻撃を命じた。しかし2人とも共産軍と通じていたために、なかなか攻撃を開始しなかった。そのため蒋介石は督戦のため、1936年12月4日に西安を訪れた。しかし蒋介石は12月11日夜から12日朝にかけて、張学良と楊虎城に攻められて、12日早朝名所旧跡の華清池のホテル裏山に逃れたところを捕えられてしまった。

捕えられた蒋介石は、スターリンからの「蒋を殺すな」の電報で、生き永らえた。ソ連にすれば、蒋介石を生かしておいて日本と戦わせれば、対ソ戦を回避できるし、ソ連の対日戦も有利になると考えていた。そして周恩来や葉剣英などが乗り込んできて、どんな手を使ったかは定かではないが、共産党掃滅を辞めさせることを約束させた。Wikipediaにはソ連に留学中の彼の息子の蒋経国を人質にとり、彼の帰国と引き替えに抗日戦に引き込んだとも書かれているが、これも理由の一つにはなるがこれだけではなかろう。

結局蒋介石は生き延びて、周恩来らと「共産党討伐の中止」と「一致抗日」を約束させられたのだ。実際、この事件によって蒋介石は共産党への攻撃をやめ、「第2次国共合作」が成立する。そして国民党内では親日派が後退し、・・・代わって親ソ派が台頭した。・・・ここに至って蒋介石ははっきりと日本を敵と定めたのだ。]と黄文雄氏の「日中戦争は侵略ではなかった」には記載されている。またWikipediaには、台湾に渡った中国の学者・胡適は「西安事件がなければ共産党は程なく消滅していたであろう。・・・西安事変が我々の国に与えた損失は取り返しがつかないものだった」と言っていると記載されている。それほど衝撃的な事件であった。まあ、命令をきかない司令官には、何らかの(反乱の)事情があるかも知れない、と考えることも大事なことであろう。そう気が付けば蒋介石ものこのこと西安なんぞには行かなかったであろう。



そのためこの第2次上海事変の勃発で、ソ連のスターリンは大喜びをし「中国と日本の戦争が出来るだけ長く続くことを望む」と言ったと言われている。そして即座に、大々的に蒋介石に対して軍事支援を行っている。その後張治中は、中華人民共和国で各種の重要な役職についている。そして1969.4.6に満78才で、北京で死去している、とWikipediaには書かれている。

この第2次上海事変は、ソ連共産党中国共産党によって仕組まれたものであり、日本を蒋介石の国民党軍との戦争に引っ張り込むためのものであった。先に説明した日本人皆殺しの「通州事件」も、同じ目的のものであった。その間に、中国共産党は蒋介石からの攻撃を受けることなく、勢力を温存しさらには拡大させてゆくことが出来たのである。ソ連にしても日本からの圧力が、中国での戦闘が続けば無くなるので、中国に共産国家の樹立が容易となり、さらには日本からの圧力もなくなり、一石二鳥であった。


このいわゆる日中戦争には、もう一つ関係する国が存在していた。それはドイツである。

次も「第2次上海事変(2)」よりの引用である。



当時の中華民国とドイツは1910年代から軍事的・経済的な協力関係を強めていた。ドイツは中国からレアメタルの「タングステン」を購入し、その見返りに中国軍の近代化と産業の興隆に投資していた。これを「中独合作」と言う。1930年代に入ると「中独合作」は更に進展し、世界恐慌のあおりで中国への資金提供は限りなく細っていたが、中独協定(1934~1936年)により中国の鉄道などの建設か大いに進んだ。これらの鉄道は日中戦争でも蒋介石に大いに活用された。このような流れの中で1935年より中国軍事顧問となったアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン日本だけを「敵国」と看做して、他国とは親善政策を採ることを蒋介石に進言している。

10年ほど前の第1次世界大戦1914/7~1918/11)では日本は日英同盟に基いて、ドイツの山東省租借地であったチンタオ要塞をイギリスと共に攻略し、更にはドイツ支配の南洋諸島を攻略している。なお日本軍の評価を高めたものは、この大戦中連合国の要請を受けて、地中海やインド洋に合計18隻の第二特務艦隊を派遣し、連合国の輸送船団の護衛をしたことである。この護衛作戦では、Uボートの攻撃により駆逐艦「榊」が大破し、59名が戦死している。合計78名の日本軍将兵の御霊を守るために、マルタ島のイギリス海軍墓地に日本軍将兵の戦没者のお墓が建立されている、とWikipediaには書かれている。→この部分は2016.12.2389

このように第1次世界大戦でのアジアではドイツは日本に攻められていたのだが、ファルケンハウゼンは多分にこんなことを根に持っていたのであろうか。どいつもこいつもドイツ人は、第2次世界大戦では共に敗戦国となった仲ではあるが、あまり親密に付き合える相手ではない、と思っていたほうが良い。事実この時代日本とドイツとは三国同盟の仲(1936年日独防共協定、1937年日独伊防共協定、1940年日独伊三国同盟)ではあっても、その裏では依然としてこのように中国を支援していたのであった。



まあこのように見てゆくと、明らかにこのいわゆる日中戦争と言われるものは、日本の侵略戦争ではない。反対に支那・中国からの日本に対する侵略戦争であったと、言わざるを得ない。

次の「かって日本は美しかった」と言うブログを参照されるとよい。
(http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/07/post-ba70.html)

その一文を次に載せる。

「 盧溝橋事件、上海事変、南京事変など日本が侵略目的で戦争を始めて拡大していったのではないことがよくわかります。昭和12年(1937年)8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが・・・」と報じています。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じてます。
 日本の侵略などどこにもありません。



そしてもう一つ注意しておかなければならないことがあります。

それは、日本国内にもソ連共産党の手先となって活躍したスパイが存在していたことだ。朝日新聞の記者だった「尾崎秀実(ほつみ)」である。彼は近衛内閣の中枢に入り込み、日中の和平工作にことごとく反対し、各事変の拡大を煽り立てていたのである。


これも小生のブログ「第2次上海事変(4~)」(2012.5.31~)より引用する。



そして日本にも、ゾルゲと行動を共にした共産主義者、「尾崎秀実(ほつみ)」がいた。報知新聞記者を父に持つ尾崎秀実は、父親が台湾に赴任したことから少年時代は台湾で育つ。台湾中学、一高、東京帝大法学部と進み、大学院1年で中退している。この大学院ではもっぱら共産主義の研究を続け、このとき完全な共産主義者となったと言われている。Wikipediaによると「尾崎秀実(ほつみ)」は1926(T15)年朝日新聞社に入社、1928(S3)年11月に上海支局に転勤、1932(S7)年2月に大阪本社に戻る。この3年3ヶ月余の間に中国共産党と交流し、更には米国人女性の共産主義者のアグネス・スメドレーを通じて、リヒャルト・ゾルゲと交際しコミンテルンの一員となり、日本におけるゾルゲの諜報活動の片棒を担ぐことになる。

・・・・・

その後「尾崎秀実(ほつみ)」は、1934(S9)年10月に東京朝日に移り、1936年に中国問題の専門家として太平洋問題調査会に参加する。1938(S13)年7月に東京朝日を退社して、第1次近衛内閣の嘱託となり1939年1月の内閣総辞職までその職に留まる。尾崎は嘱託となると同時に近衛主宰の政治勉強会「朝飯会」のメンバーとなりこの関係は第3次近衛内閣の1941(S10)年8月まで3年間も続いた。その間尾崎は、中国の各事変に対して不拡大方針を堅持する政府に対して、事あるごとに拡大させよと強力に主張し、和平工作に反対している。

尾崎は自分を「完全な共産主義者」であると認め、その最終目的は「全世界での共産主義革命を遂行する」ことであり、逮捕後の取調べでは「世界共産主義革命遂行上のもっとも重要な柱であるソ連を日本帝国主義から守ることである」と、供述していると言う。そのため日本が蒋介石などと和平を結ばれ安定してもらっては(ソ連にとっても、中国共産党にとっても)困ることになるので、盛んに中国での戦争拡大を近衛内閣に吹き込んでいたのである。ゾルゲも尾崎も当然だか、その後死刑に処せられている。

・・・・・

そして日本の尾崎秀実はソ連と通じていたため、この顛末も正確に予測できた。そのため近衛文麿に認められ、彼の勉強会にもぐりこむことが出来たのである。そして日本の情報はソ連に筒抜けとなり、対支政策がことごとく裏目と成り、日中戦争に引きずり込まれて行くこととなる。近衛文麿とその取り巻きたちは、なぜ尾崎がこれほどまでに正確に予測できたのか、と疑問には思わなかったのか。これなどは第一級の反省材料であろう。

(続く)
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