「Law&Order」が好きだ!!(邪道にて)

海外ドラマ「Law&Order」が好きです。
とにかく叫びたいので、ブログに叫びます。

母について

2015-03-30 12:29:12 | その他いろいろ
この文章は、全く私的なことです。
このブログには、不適格なのは重々承知しております。
しかし、このままいつも通り記事を書くことも、おかしいと思い(自分が)
母の死について、書かせていただきます。
読みたくない、と御思いの方は、読まないで下さいね。

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母の異変に気が付いた時は、もう手遅れでした。
病名は、「血管内リンパ腫」と告げられました。
しかし、結局最後まで、ハッキリとした原因は不明でした。
この病気は、発見が非常にに困難と言われているということでした。
死後解剖して、ハッキリ分かる・・・という場合が多い、と。

医科大学付属病院へ転院しましたが
多分、この病気だと思う、と告げられました。
過去の症例等からの、判断ということでした。
そして、このままだと2週間持たない、と。
病名を確信できないまま、見切り発車的に抗がん剤を投与するか否か。
決断を促され、投与することにしました。
高齢&体が弱っている等で、半分の量を投与しました。

その後、意識が戻り、話せないが頷く等ができるようになり
少しホッとしたのも束の間・・・
意識の混濁&高熱、そして口腔内が荒れてしましました。
口腔内に、ウィルス&菌等の影響し、血だらけ&口周りも荒れてしまって
食事ができないので、チューブで高カロリー栄養剤を投与しました。

しかし、高熱が全く治まらない。原因はガンなのか?ウィルス等なのか?
もう、身体が弱り切っていたので、何をしても毒にしかならなかったのでしょうね。
一端チューブを外し、普通の点滴で栄養を送ることになりました。
すると、もう見る見る間に痩せてきて・・・

そして、これ以上抗がん剤を投与するか否かの決断が、再び。
私は、もうこれ以上・・・と思いましたが
兄は、治療を続行すると。
兄と言い争いになってしまい・・・このことも、私に大きな負担となってしまいました。

しかし、その翌日、急変してしまって・・・
全身に黄疸、そして抗生物質のアレルギー反応(副作用)で
全身が黒ずんでしまい、発疹が・・・
病室に看護師さん方&医師が集まり、大変な様相となってしまいました。
私でさえ「(病室に)入らないで」と言われてしまいました。

その後は、高熱と全身の症状が酷くなる一方で・・・
そして、悲しいことに、顔にもその症状が出てきました。
痩せた顔が黒ずんで・・・正直、酷い有様でした。

母は、娘の私が言うのもなんですが、とても綺麗でした。
子供心に、母がそれを自覚していることが分かりました。
田舎の田舎、山の谷間の村の生まれで、農家で、経済的に楽ではありませんが
「綺麗な娘さんがいる」」と評判だったそうです。
(これは、母の姉妹から聞いた話ですが)
街に働きに出ると、写真館から「モデルになって欲しい」と言われ
母のちょっと気取った写真が、写真館に並べてあったとか。
結婚しても、やはり貧しくて苦労しましたが
私や兄が働くようになってから、ちょっとお洒落をするようになり
地元のショッピングセンターですが、洋服や帽子等と買っていました。
高価なものではありませんが、好きなものを選んで楽しんでいました。

その母が、このような姿になるとは・・・・
私は、悔しいやら無念やら、そして自分の不甲斐なさで泣きました。

しかし、まだまだ母の苦しみは続いて・・・
今度は、全身所々の皮膚が破れてしまい、そこから体液が出てきました。
高熱で、全身が痛いのか、もう動けないだろうに、必死に身をよじっていました。
皮膚の状態は顔にも出てきて・・・・
自分の母ながら、まだ苦しまねばならないのか、と泣くしかありませんでした。

そして、3月23日朝、実家から「すぐ病院へ」と連絡があり・・・・
私の声に反応していましたが・・・・声は聞こえたと信じたいです。
もう意識はないし、呼吸も辛くて辛くて・・・
兄は、これ以上の治療は拒否しました。
そして、お昼に逝ってしまいました。

だが、私の苦しみは、まだまだでした。
母の身体からの体液は、死亡後もまだ出ていて・・・・
全身をシート(紙おむつの大きなもの)で覆い、その上に浴衣を着せました。
顔は、酷い部分には、ベージュのテープを貼ってもらい、お化粧を。
それでも、見栄えが良くなったとは言えませんでした。

葬儀を少しでも早く。兄と相談し、決めました。
もう、兄も私を可哀想に思ったのか、とても気を配って労わってくれました。
自宅に帰って、近所の方が来てくれました。
しかし、顔が段々徐々に・・・身体は見えないので、どうなっているか不明です。
首には、私が真っ白のスカーフを巻きました。見えないように。

お通夜、そして翌日の葬儀・・・
葬儀の朝、母の顔は、悲しいことに、部分的に崩れていました。
葬儀ホールのスタッフの方にも、御配慮いただきました。
母の眼には、コットンが添えられえていました。
多分、酷いことになっていたのでしょう。
身内に見せないように、とのことだと思います。
最期に御棺に花を添える時にも、母の顔を覆った布をそのままに、とお願いしました。
全くの善意で、最期に顔を、と思う方もいるでしょうが
穏やかに制止してもらうよう、スタッフの方にお願いしました。

もう、私は、遺影の綺麗な笑顔の母を思い出してほしい、とそれだけを願っていました。
あんな酷い姿は・・・・私と兄で十分だと。

そして、火葬場へ。
やっと最期、と思い、母と最期の・・・・
ここで、私は、大変無様なことですが、取り乱してしまいました。
母に縋ったのは覚えていますが・・・
ちゃんと大人な対応を、と思っていましたが、自分が情けないです。

周囲の方々は、労わってくれましたが、自分ではこれまた情けない・・・

しかし、母はもう、いなくなりました。
その日にお寺へ納骨へ行く予定でした。
私は、もうちょっと正気じゃなくて・・・ゴメンなさい、嘔吐してしまい
それでも、お寺へは這いずってでも行こうと思い
夫に縋りながら、お寺へ・・・もう頭痛と嘔吐で、トイレ直行です。

でも、終わりました。
2日間、寝込みました。ただひたすら寝ました。
その後、徐々に起きて食べて・・・で、今日に至ります。

もう母は楽になったのよ。そう周囲に言われました。
その通りだと思います。
私も、そう言うと思います。実の母じゃなければ。

やはり、実の母には、そのような気持ちにはなれません。
なかなか・・・・
もっと苦しめない方法があったのではないか。
あのような姿で逝かせるとは・・・・これは、一生悔やむでしょう。

今、こう書いていても泣けてきます。
今すぐ、気持ちを変えることはできません。
しかし、母は、私が笑っていることを望んでいるのは、確かです。

少しずつですが、母の願いに沿うように、と思います。
勿論波があるでしょうが。

今は、我が息子達さえも羨ましい。
息子達には、私の様な情けない母でも、いるのですから。
私には、もう母がいない。
もう幼児に戻ったように、泣きました。今も泣いています。

正直、もうこのブログは止めようと思いました。
とても、陽気に書けない・・・・そう思いました。
しかし、書くことで、しばらくは辛いことが、ちょっと忘れられる。
そうやって、少し少し、少しずつでも、何かしないと。

仕事もしますが・・・・趣味も・・・・
そう思っても、頭の中が真っ白ではなく、透明にって状態になりますが。
それでも、進まないと。泣きながらでも。

もう少し、お休みします。
その後、再開したいと思います。
もう少し、お休みさせて下さい・・・・


                       リィン
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