皆さんの中には、「これまでに絵を描いたことがない」という方は、ほとんどおられないと思います。なぜなら、子供のころに幼稚園や小学校で必ず、図画工作の授業を受けておられると思うからです。でも、中には幼いころに絵が思うように描けず、「自分には絵の才能がない」と思い込んで、長じるにつれて、「絵を描くこととはオサラバ〜」、と思うようになった方もいらっしゃるのではないかと想像します。 . . . 本文を読む
みなさん、こんにちは!
私は、生長の家本部講師の小関隆史です。今日から、何回かに分けて、「絵てがみを描こう!」というテーマで講話を連載させていただきます。
テキストは、宗教法人「生長の家」が発行しております『日時計主義とは何か?』(谷口雅宣先生著)を使います。参考資料は、追々ご紹介します。 . . . 本文を読む
1カ月ほど前、私が絵てがみの指導を行う様子をビデオで撮影するという企画があり、その際、インタビュアー役になった上司から、ぶっつけ本番で絵に関する質問を受けた。 まず最初の質問が、「絵を描く意味は?」というもので、いきなり本質的な質問が来て、私は一瞬、言葉に詰まった。 . . . 本文を読む
次に話題を「人生」に転じてみたい。
画家がキャンバスや画用紙に、自分の画想を表現するのと同様に、私たちの人生は、役者が、限られた時間の中で、各自に与えられた役割を舞台で演じるのに似ている。
これについて生長の家副総裁・谷口雅宣先生は、御著書『心でつくる世界』の中で次のように説かれている。 . . . 本文を読む
次に紹介するのは、画業70年のうち、実に晩年までの60年間をパリで過ごした日本人の版画家、長谷川潔画伯(1889-1980)である。氏は、渡仏後に起こった第二次大戦中に、次のような神秘体験を得た。(以下、引用文)
ある朝、私は、いつもとおなじように籠を手に、画題に使えるような、何か変わった草、石ころはないかと、パリの近郊に散歩に出た。 . . . 本文を読む
前回の文章の最後で、自身の心を掘り下げていけば普遍的な存在にたどりつく、ということを述べたが、それは自分自身の内側だけに限らないと思う。
例えば、私がかつて京都精華大学で日本画を学んでいた時に教わった教授や講師たちも、目に見える風景や植物の表面的な姿の奥にある「何か」を描こうとしていることを、彼らが絵について語る言葉の端々から感じた。はっきりとした言葉でそれを表していた人はいなかったが。
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前回述べたデッサンや写生にも、その作者の個性が如実に表現される。大学受験のための美術研究所などで一緒に絵を学んでいると、サインを見なくても、誰それの作品だとすぐに分かるようになってくる。人物画を描くと、たとえ他人を描いた作品であっても、どことなく作者に似てくるのでおもしろい。
生長の家芸術家連盟の発起人の一人で彫刻家だった伊東種氏の著書『無韻の美』には、興味深い次のような話が紹介されている。 . . . 本文を読む
ある年の秋、当時、上野にあった東京都美術館で開催されていた美術公募展「日展」を観に行った。昼食を挟んで1時間半ずつ計3時間、日本画と洋画の作品を大量に鑑賞した後、美術館から一歩外に歩みだして、陽光を浴びて輝く公園の緑の木々が目に入った時、「きれいだなぁ」と思わず一人息を飲んだ。
そういえば、美術展を観た後は、いつも何気ない風景がいつもよりも美しく見える。
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