安宅夏夫のBLOG

安宅夏夫のブログです。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

中上健次と大逆事件

2011年07月31日 | 中上健次

 私にとって大逆事件は、紀州出身の二人の詩人・作家との思い出と一体になっている。一人は佐藤春夫、一人は中上健次である。春夫邸に臆面もなく参上したのは昭和三十年夏のこと。当時、私は喘息治療のため上京し、専門医に掛かっていて二十歳だった。今は熊野速玉大社境内に移築されているスペイン風の春夫邸の前庭には、春夫の詩にも歌われている凌霄花(ノウゼンカズラ)が咲き満ちていた。この時点の私は、春夫の詩は『殉情詩集』に止まっており、「大逆」で刑死した大石誠之助を悼んだ「愚者の死」を知らなかった。

 中上健次には昭和四十四年夏に会っている。今も年一度刊行を続けている詩誌「長帽子」の同人会に、中上は同人の高橋秀一郎と一緒にやって来た。その後に結婚するかすみさん(後の作家紀和鏡)も一緒だった。中上の詩は既に「詩学」「文学界」に載っていた。中上が新宮出身と知って私は、春夫の後継者が現れたと喜んだものだが、その詩風は、いたって地味だった。この時期、中上は小説を「文芸首都」、名古屋の「作家」に出していた。春夫の小説に話が及ぶと、中上は「物語性」ということを話した記憶があるが、後にそれは「國文學」誌上に「物語論」として連載されることとなった。

 中上は、その後、柄谷行人の勧めでフォクナーを読み抜き大才が花開く。秋山駿が司会する新鋭作家たちの座談会で、秋山が中上に「地方から東京に出て来た青年の鬱屈を続けて書いてほしい」と言ったのに対して、「いや、自分は日本のフォクナーになる」と応じた。中上の、天馬空を往く「文学の膂力」は、生前既に伝説的だったが、「詩人としてランボーを抜かねば。紀州出身の小説家・文士として大逆事件を書かねば」という思いは、不死身と見えた肉体が病んで一気に顕現した。

 中上の死は、平成四年(一九九二)。早くも二十年近く経つ。中上は大逆事件の全貌の本格的究明を指呼しながら果てた、と私は受けとめている。彼が新宮に残したプロジェクト「熊野大学」は集英社刊行の全集の企画と並行した『中上健次と熊野』(柄谷行人・渡部直己編、太田出版・二〇〇〇年六月刊)にパックされている。

 平成二十二年、二十三年と首都東京では「大逆事件の真実をあきらかにする会」が「核」となる行事が続いている。この一月二十四日、参議院議員会館大集会室での福島瑞穂司会の会は満員となった。この日は幸徳秋水ら十一名の死刑執行日(翌日、菅野須賀子一人)だ。続けて二十九日、菅野の墓所、西新宿正春寺での例年通りの「大逆」死刑者を追悼する集会が。翌三十日、恵比寿の日仏会館で「大逆事件とドレフィス事件についてのシンポジウム」が開かれた。日仏会館は椅子席一二〇.予約必要なのにもかかわらず当日参加の人で溢れ、二つの事件の「共通性と差異」が熱く討議された。これらの集会の盛んなさまを「慶事」と私は呼びたい。

 だが「大逆事件百年」というニュースバリューで去年今年が過ぎてゆく中で、「日本の司法・法曹」の徹底的な洗い出しと脱構築とを実践してゆく営為が波とならねばならない。

 前記『中上健次と熊野』の第二部「〈熊野〉と〈物語〉断章 中上――遺存ノートから」には、彼が「大逆事件」に全身全霊かけて取り組もうとしていたプランが記されている。佐藤春夫は「大逆」の時代を斜視することで、「自らを芸術化」して生き、中上健次は「大逆」をテコに「差別の個体性と普遍化」を解明しよう、と意志して果てた。春夫と健次の、その「言説空間」を、「熊野・新宮」の地霊(ゲニウス・ロキ)と併せて問い直したい、と改めて私は願っている。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「群系 第19号」登載記事 | トップ | 「熊野誌 第五十七号 別冊」... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

中上健次」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。