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石川啄木と平出修、秋瑾 ―内田弘『啄木と秋瑾 - 啄木歌誕生の真実』を読んで その4

2014年04月02日 | 石川啄木

その1 その2 その3

 内田弘著『啄木と秋瑾―啄木歌誕生の真実』を読み上げて、新しく分かったところ、更に、派生して考えられることを、以下に順不同に記します。

① 平出修が啄木を追うかのように早逝したことで、二人の格別の関係が良く分からなかった。このことが本著によって明々白々になりました。
② 平出と啄木とは、「スバル」編集の際などに直接に会って各自の「内密な作品」を書いたのです。
③ 平出は「大逆」の被告代理人・弁護士として、「弾圧に狂奔する国権の無法」を痛感していました。「激する啄木」をよく押さえて、『一握の砂』を、安全な著に「仕立て上げさせた」と言えましょう。
④ 啄木の「日記」の明治四十三年の分は、四月一日より二十六日までの分しか遺っておらず、このことが読者・研究者に惜しまれて来ました。この明治四十三年は、啄木にとって、文学的にも思想的にも重要な年でした。「赤旗事件」に続いて、この年に起きた「大逆事件」に関心を持ち、資料を集め、また社会主義思想に関心を持ち、「時代閉塞の現状」を書きました。この論文は直ちに活字になりませんでしたが、「啄木の奇蹟の一年」と呼ばれる充実の年、今流に言えば、ギア・チェンジの決定的な年でした。翌々年(明治四十五年・大正元年)四月十三日午前九時三十分、啄木は結核性による全身衰弱で永眠。啄木の明治四十三年の「惜しまれる日記」は、啄木から修に宛てての書簡がなぜか「ほとんど残っていない」ことと連動・通底しています。これは意識的・計画的に啄木が「書き残さなかった」のか。近藤典彦は当該の部分は「切り取られている」と自著で近年明らかにしました。『啄木全集』の解題では、この事実が書かれておりませんでした。
⑤ この啄木へのコーチ役を担ったのが修です。「平民新聞」=幸徳秋水らへの狂暴な弾圧の理由づけになるのは、ほんのサムシングでもかまわず、問答無用なのでした。「大逆事件」をピークとするパラダイム(Paradigm)=同時代思考・枠組み、を考慮する必要がありましょう。
⑥ 派生して書くと、平出修が森鴎外に、西洋思想のアナーキズムについてレクチャーを受けた事は知られています。今、修直系の平出彬の著を見ていて、修の残されたメモに、バクーニン、プルードン、スチルネルの名前がある由を知りました。修が啄木に「(お互い)気をつけよう」と囁き合っていた様子がリアルに偲ばれます。やはり鴎外はバックアップした巨人でした。
◯啄木が、北海道漂泊をやめて、単身上京した明治四十一年四月、金田一京助の世話になりつつ小説を執筆、芽が出なくて生活は困窮。しかし強運の人啄木は翌年三月、朝日新聞社校正係として採用されました(月給二十五円)。北海道でも三つの新聞社で働きましたから、啄木の「朝日入社」は万々歳でした。この採用される際の信用になったのが「スバル」発行名義人・石川啄木、という「看板ネーム」でした。「スバル」の出資者は平出修です。「スバル」は「明星」の後継誌。与謝野夫妻に森鴎外、上田敏ら、綺羅星の如きメンバーです。これを啄木は、詩集『あこがれ』(明治三十八年に十九歳で出版)と一緒に「朝日」への入社願いとともに提出していました。すべてにすばやいのが啄木でした。だがしかし、彼の身体が結核菌によって喰い尽くされてしまいました。これは天才に多く見られるパターン・類型でしょうか。

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