カラダを科学する本格的整体ブログ

人間のカラダのおもしろさを、生命科学、スポーツコーチング、認知心理学、動物行動学など、越境しながら学ぶ未来派整体術。

生物応用技術としての手技療法

2020-10-26 10:04:48 | 数学、変換群

手技療法は手を使って人の身体の状態を読み取り、さまざまな身体症状を捉え克服のために働きかける営みです。

手を使うということがとても重要な点で、そのことが人の身体を捉える独特の視点を与えてくれています。

同時に手を使うということについて、深く考察しておくことが重要な鍵になります。己のことを深く理解しておかなければ、的確に生かすことはできないからです。

たとえば手は、計量にはかならずしもむいていません。たとえば0gから100gへの100gの変化と1kgから1.1kgへの100gの変化を同じように計量することが難しかったり、右手に神経を集中している時は左手の感覚はおろそかになり、左手に神経を使う集中している時は右手の感覚がおろそかになるなど、感覚器官や大脳の情法処理の制約を受けます。

一方で注意を向けると精度が成長しより細密で繊細な感度を身に着けてゆくことも可能です。そのほかにも手には手技療法を特徴づける重要な特性がありますが、これまでの手技療法がこれらの点にどの程度考慮してつくられているのか、わたしははなはだ疑問に感じてきました。

手技療法は、現代的な言い方をすれば生物応用技術であり計測機器にはない優れた特性も持っているのですが、このような視点がこれまでの手技療法には十分に生かされていないと思うのです。これまで存在した手技療法は、独自のカテゴリー(世界観)の枠組みで身体を捉えることに先鋭化してきました。

身体均整法であれば、「身体を12種類の体型に当てはめて身体の歪みを整える」と主張していますし、漢方では気血営衛の流れ(滞り)を整える」と主張しています。カイロプラクティックでは「脊柱のサブラクセーションを整える」療法と主張してきました。

わたしには、ここに生物応用技術としての手技療法の発展を拒む大きな問題がありと思えます。この点を克服するために30年間を歩んできたといってもよいでしょう。この5年間は、この点で大きな一歩を踏み出す5年間でした。

前回紹介したSAMの視点は、この問題をわかりやすく整理する上でとても優れています。 

前回は膝の痛みについて後十字靭帯の影響についてお話ししましたが、SAMの視点を適用するか否かで、その意味は全く違った物になります。

Sはサイエンスを意味し事実に基づくということを指します。Aはアートは人間の側の直観を意味します。わたしたちが理解すること、たとえば「◯◯は◯◯だ」と思うことは人間的な直観に基づきます。

Mはマスマティック、論理性を意味します。論理とは数学です。

手技療法のもっとも主要な場は、SAMのなかの「A」、直観の領域にあります。たとえばわたしたちの「わかる」という直観は、「事実」から写しとられた像(写像)です。わたし自身の脳に写り込んだ「事実」の主観的な変換像です。

「事実」というのはたえず一回性です。まったく同じ「事実」というのは存在しません。一方、わたしたちの直観は「◯◯と同じ」とか、「◯◯が原因」といったように同一性とか因果性とか、相似性など、なにかとなにかのなんらかの「関係性の認識」です。しかも言葉化(言語的な興奮)することで強く縁どられていきます。

「M(数学)」の視点を経由することで、手技療法の施術者の「A(直観)」について大きな示唆を受けることできます。これは施術者の主体性について、より詳しく盛り下げてみることを意味します。

さまざまな手技療法の主義主張の違いは、じつは施術者の主体性の使い方の違いにすぎません。このような視点に立つことで、「手」を使って人間の身体の状態を読み取るという課題の性格が、より一層明確になるのです。


膝の痛みと後十字靭帯、膝の加齢変化

2020-10-18 10:25:15 | Weblog

この間に発見したことの一つに膝の後十字靭帯の重要性がありますこの靭帯は脛骨に対する大腿骨の前方への滑りを抑止する働きをしています。

たとえば歩行動作は、このような滑りを引き起こす運動です。山道を下山するような場合には、この力はとても大きくなります。

加齢によって次第に正座ができなくなるのも、この靭帯の短縮によります。

この靭帯は、大腿骨下部の関節の隆起、滑車状になったふたこぶの内側よりから起こります。

膝裏の最奥部にある靭帯といってよいでしよう。この間、膝を深く曲げて腰を下ろすと飛び上がるほど痛いという人、膝立ちになると激痛がするという人など、施術直後には痛みがなくなるということが起こりました。

これは靭帯の異常兆候の特徴で、その場で問題が完全に克服されるわけではありませんが、繰り返し(とくにお風呂などでよく温めながら)反復すれば二週間程度でよくなるというサインです。

さて、このケースの中にも、手技療法の可能性を考える上での重要なサインが表れています。

リリアン・R・リーパー『数学は無限を創る』という著書のなかで人間の態度としてSAMが重要だと指摘しています。SAMとはサイエンス、アート、マスマティクの頭文字で、サイエンスは「事実」を、アートは個人個人の主体性を、マスマティックは論理を指しています。

わたくしは、この5年間の研鑽の結果として、手技療法を考える上で、このSAMこついて考えることがとても重要だと考えるようになりました。

手技療法が経験を積み上げて発展する(=経験科学として発展する)上での大きな鍵になる点です。このことは、このような膝の問題を考える上でも重要な示唆を与えています。

次回はこのことを少し考えてみたいと思います。


やすらぎ創健堂、開業17年目にあたって

2020-10-10 19:39:43 | Weblog

本日、やすらぎ創健堂は開業17年となりました。これまで長年にわたりごひいきいただいたみなさまには、改めて感謝申しあげます。

姿勢保健均整専門学校(当時、現在は東都リバビリテーション学院として存続)卒業後、他店での勤務時期をあわせると、この職について30年になります。この間5年間の長きにわたり更新してきませんでしたが、この間に大きな発見がいくつかありました。

具体的な刺激方法や刺激部位、症状の改善例などはもちろんですが、そういったことがどのような文脈、流れのなかで語られ記録されるべきか、手技療法の捉え方全体に関わる問題がその根幹にあります。

旧来の手技療法の理論にたえず疑念をいだきながら格闘しつづけて10数年、さまざまな先輩諸氏、クライアントのみなさまなどの支えやご教示を受けながら、よりストレートに手技療法とはなんなのか、どのような可能性をわたしたちの暮らしに切り開くものなのか、そのための言葉をつかむことができたように思います。

これから折々、この点についての発信をしばらく続けていきたいと考えています。なにとぞよろしくお願いします。


手技療法の根本原理(7)

2015-11-02 12:28:21 | 数学、変換群

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。年頭に当たり、これまでのことを少し振り返りながら、今後の展開などについて、考えみたいと思います。

 

手技療法の可能性と科学的発想

わたしが手技療法の科学化の必要性を強く感じたのは、2011年10月に国際統合医療学会で10分程度のオーラルセッション(口演)をおこなったときのことです。この時、直立姿勢の評価法についての報告をおこなったのですが(下図参照)、手技療法的な視点に立った報告に懇親会の席で思いのほか多くの先生方から予想外の賛同の言葉をいただきました。

 

おりしもWHO(世界保健機関)の「BONE AND JOINT DECADE 2000-2010(運動器の十年)」の終わった年でしたが、手技療法の立場から明らかに思えることが、現実にはまだほとんど深く掘り下げられていないという思いも強くしました。運動器の十年運動は、整形外科医を中心にPT、スポーツ関連の団体、製薬会社などを中心に展開される運動だったのですが、手技療法の経験はほとんど生かされていないのです。

 

統計的に「平均的」と判定されることでも、場合分けしてみると、むしろ「良い」群と「悪い」群が隠れていることがあります。場合分けの基準が統計データのなかに写りこんでいればデータ解析で見分けることができますが、場合分けの基準が統計データのなかに写りこんでいない場合、問題そのものの存在が不可視化されてしまいます。手技療法がしようとしている問題提起は、それに該当します。

 

科学の世界では、「手」を使ってものごとを把握するということがなおざりにされてきたからです。客観的に数値化されたデータに依ってこそ、科学的な世界の把握はできないと考えられてきたからです。

 

実際、、科学の歴史は、それぞれの時代の「正しさ」への行き過ぎた過信に対する修正の歴史でもありました。有機化学を確立した大科学者リービヒでさえ、パスツールの細菌学の成果を一切認めようとしなかったことを考えてみるとそのことはよくわかります。

 

ただ、物質科学が完成されてくるにつれ、生物そのものが持っている能力が、通常の計測装置などでは代替できないほどに高いこともまた明らかになってきたのです。

 

ただ、このような能力のもたらすものを、科学的な方法で表現するためには大変な知識と知恵が必要だということも痛感します。手の感覚というものは、そもそもデータ化とか科学化ということととても相性の悪いものです。実際、「手技療法はアートだ」と受け止めている手技療法が大半です。感性の領域はもちろん必要ですが、技術(=アート)として捉えられる領域をしっかり押さえておくことが、今後は必要になっていくでしょう。

 

歩行動作と身体負荷

指先の主観的な感覚は、客観的な理論を拒絶するものではありません。むしろ、客観的に問題を限定することが主観的感覚を磨く上でとても重要なのです。この点については、次回取り上げたいと思いますが、とにかく、どこで、なにに対して、どのように主観性を働かせるのかという線引きが、とても重要なのです。

 

そのような作業をふまえて、はじめて通常の計測装置では捉えられない手の優れた能力が浮かび上がってきます。それはちょうどエアコンの室外機の能力を高めようと悪戦苦闘する研究者が、結果としてカモメの羽の持つ形状の持つ驚異的な能力を理解できるようになるのと同じことです。

 

このブログで紹介してきた主観的なものと客観的なものの境界を探ろうという試みの目的はここにあります。

 

たとえば背骨の関節の運動は密着した骨間の滑らかな運動です。その姿は、右に捻じれ、左に捻じれという反復的な運動です。しかし、平面上のきれいな反復運動にはなりません。2本の足が交互に地面に踏みしめ、そのうえを上体が移動していくわけですから、たえず左右の高低差が生じています。水平面での捻じれと同時に、前額面での側屈運動が加わっているのです(下図参照)。

 

さらに矢状面での屈曲・伸展の動きが加わります。足を前に踏み出す側は腰がやや丸くなり、逆に支点となって地面を蹴る側は腰が反らされた形になります。捻じれながら反っていき、捻じれの頂点で左右の高低差が劇的に反転し、逆捻じれを起こしながら丸くなっていく運動です。下図のようになります。

この一連の動きのなかで、上体は着地した下肢を乗り越えて前に進んでいきます。そこで全身的な大きなエネルギー(加速度)の変動が生じます。わたしたちは「歩く」ことに適応しているためにあまり実感がありませんが、人間の体重を考えるとこの時生じるエネルギーは決して小さくありません。

 

片側の骨盤の位置が高くなった瞬間は、その側の膝が伸びた瞬間です。同時に反対側の下肢は地面を離れ、地面からの反床力を失います。人体の重みはとても大きく、そのような絶え間なく繰り返される瞬間のエネルギーの変動と身体機能の関係を、しっかり考えることが必要だとわたしは考えています。

 

たとえば第五腰椎と仙骨との関節を考えると、最大でも可動域が3°程度、歩行時の動きは身体の重みに促された受動抵抗運動になりますが、おそらく1~2°程度であろうと思います。しかし手技療法の持つ能力は、この可動性に大きな変動が生じるばかりでなく、一つには関連領域の脊髄神経に過大な緊張を引き起こすこと、また全身的な運動リズムの乱れを作り出すことを捉えることを可能にしてくれます。

 

手の持つ主観的な能力は、このような身体動作の解析的なレベルに立った時に初めて明確になるのです。

 

さて、この時、特定の腰椎の動きを一つ下の腰椎の視点から見るとレムニスケート曲線に近くなります(下図)。

 

 

レムニスケード曲線は数式で表すと 

座標系に直すと次のようになります。

これはあくまである腰椎を基準に、ひとつ上の腰痛の動きを見た姿です。身体運動では、この全体が一分間に600m(=100歩程度)のスピードで前進していおり、スピードを替えたり、段差を上り下りしたり、方向を変えたときには、系全体に加速度が加わります。

 

姿勢・運動評価において重要なこと

実際の姿勢では、こういった瞬間に加齢や疲労による関節アラインメントの崩れが重なってきます。さらに個人個人の体つきや動作の癖などの「個性」も関わってきます。このことをどのように捉えていけばよいでしょうか?

 

まず大切なことは姿勢や動作の分析においては、まず最初に理念的なモデルを作ることだと思います。

 

その際、姿勢や動作は、加齢とともに次第に崩れていくものですから、たんなる平均値ではなく、歪みの傾向をつかみ、回帰的に理想的な姿勢の姿を明らかにすることでしょう。

 

人類をふくめ、生物には進化的に形成された運動の理念というものがあります。そのことは解剖学的な骨格の形状や関節の構造、筋肉の走行などの身体構造に織り込まれています。それ自体が数百万年の中で築かれた地球重力環境への適応なのです。

 

理想的なモデル体型を保持している人は、実際にはよほど姿勢のよい若い人のみです。理念的な姿勢モデルを明らかにするためには、現にある人々の姿勢を計測するだけでは不十分で、数学、物理学の助けが必要です。現代数学について考えるにあたって、わたしはいまいったことを念頭に置いています。

 

そもそも科学的な計測技術は、レントゲン撮影にしてもMRIにしても、現に運動しているものを捉えるものではないということを忘れてはなりません。 たとえばスピード、加速度、運動の軌跡、これらは運動そのものではなく、運動から抽出された静止量です。

 

静止量を客観的に取り出すことは、それ自体とても価値のあることです。しかし、たとえばイチロー選手のプレーから多くの客観的なデータを取り出したとしても、決してイチロー選手のようにプレーできるわけではありません。身体機能を捉えるときに、この基本的なことを見落としてしまってはなりません。

 

たとえば身体が前傾するということは動作の回旋軸が狂ってくることです。本来、上体の回旋によって吸収されているエネルギーは、この時、どこに負担となっておおいかぶさるでしょうか?

 

人間の身体そのもの重量はとてつもなく重くできています。組織の生理的な能力からみると、こういったことで生ずる負担はとても甚大です。人間の身体組織は体節的な構造によって形作られていますが、このことが人体の基本生理に与える影響は現在はまったく目が届いていない状態なのです。

 

ではどのように数学が適応できるか、そのことを知るために現代数学の基本的な性質を知り、数学的感覚を磨くことが必要だと考えいます。前回、エルランゲンプログラムについて触れたのは、そのような流れの流れを想定したことでした。今年一年、折に触れて現代数学についても、考えていきたいと思っています。

(つづく)


手技療法の基本原理(6)

2015-09-05 18:57:13 | Weblog

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前回はユークリッド幾何学の入り口のお話のところで途切れてしまいました。少し立ち入った話になっていますが、手技療法の対極にある「実証科学における客観性」について考えるなかで、とくに数学の役割を理解する一つの手かがとして、クラインのエルランゲン・プログラムについて考えようということでした。

変換群とはなにか?

ウィキペディアの「エルランゲン・プログラム」の記述を引用すると、


クラインはこの中で、幾何学を集合に対する変換群の作用によって分類し、その中で出てくる不変量(不変式)を扱うものだと定義した。例えばユークリッド幾何は合同変換で変わらない性質を扱う分野であり、射影幾何は射影変換で変わらない性質を扱う分野だ、というのである。


とあります。


「集合に対する」「不変量(不変式)を扱う」云々のところは、とりあえず置いておいて、「変換群」というものがエルランゲン・プログラムを考える鍵になっていることがわかります。

変換群という言葉だけを聞くとものものしいですが、実際に図で見るとたいしたことではありません。

ここに挙げた、合同変換、相似変換、射影変換、アフィン変換などが「変換」という行為の具体的な姿です。これらをまとめて「変換群」といっているのです(※実際には、もう一つ「複素変換」という変換のタイプがあります。これについては次回に紹介します)。

クラインはこの変換群の考え方を使って、非ユークリッド幾何学を統合してみせたのです。

そもそもユークリッド幾何学は定規とコンパスの幾何学です。上にあげたよう変換を自由に行うことはできませんでした。

ただ、長さはコンパスを使えば同じものを自由に作り出すことができます。角度は平行線を使えば同じものを作り出すことができます。図形の角度や大きさを自由に変えることはできませんが、合同変換は自由におこなえます。

つまり長さと角度が「不変量」として保存される幾何学と定義することができます。

変換群のアルゴリズム

ユークリッドの時代には、図形を移動したりひっくり返すという作業が、数学的な厳密さに欠けると考えられていました。

ゼノンのパラドクスによれば、ある物体が落下するためには、かならず地面と間の中点をとおらねばならず、次にその中点と地面との中点をとおらねばならず、さらにその中点と地面との中点をとらねばならないから、実際、落下しているように見えて、地面に到着することはない、そのような疑いがあると考えられていたのです。

しかし、解析幾何学が生まれ、時代は一変しました。変換という行為は、座標系のなかの関数としてごく当たり前に考えられるようになったのです。

たとえばコンピュータ・ゲームや映画のコンピュータグラフィックスなどでは、複雑な図の変換が縦横無尽に繰り広げられていますよね。図形の変換は、わたしたちの日常生活になじみ深いものになっているのです。

現在の高校数学で非ユークリッド幾何学が取り扱われるのも、そのような点から考えると理解できます。変換には行列の知識が必要ですが、知りたい人は自分で専門的に勉強してくださいということでカリキュラムから削られています。学ぶ順序からすると、いきなり行列を学ぶより親切だと思います。

ここでは少し行列の話をします。変換群の性質は、そのアルゴリズムによって明解に定義できるからです。少しお付き合いください。

さて、変換とは座標上の点(x、y)を別の点に移動する関数です。大雑把に次のように表現できます。

この関数は行列式で表すと以下のように一般化して表すことができます。

並行移動する合同変換では、x方向に+3、y方向に+5のように移動すればよいわけですが、この場合は、以下のように行列の和としてあらわすことができます。

 

このとき先頭についている

は単位行列と呼ばれるもので、x、yの値を変化させない関数です。これを次のようなひっくり返った形にすると

xがyの値に、yがxの値に変換されます。

つまり原点を通って45°で右肩上がりの直線上の点、つまりx=y上の点は動かないが、それ以外の点はこの線を境に対称に変換された合同変換の図形になります。

図形の回転とアフィン変換

回転させるためには三角関数を使ってあらわします。角度θの回転では、以下のようになります。

三角関数は、角度をベクトル(内積)に変換するものです。具体的な長さ(a、b)式で表すと

  、 

になります。ヒルベルト『幾何学基礎論』では、このように式による表現が採用されています。(x、y)が次のような(x'、y')に変換されます。

 、 

先に申し上げたように、変換という作業は以下の行列式として一般化できます。 
 

このとき変数 a、b、c、d の値によってxやyが2倍になったり3倍になったり、x、yが入れ替わったりといった変換が起こります。x、yが同じ割合で変化すれば相似変換になります。

並行移動したり、入れ替わったり、回転するだけなら合同変換です。

a、b、c、d の違いによって、変換のなかにいくつかのタイプ(群)が存在することが実感していただけると思います。

つまり「変換群」は、このa、b、c、d の取り方によって決まるのです。アフィン変換はクラインの時代にはまた考えられていませんでしたが、これと少し違った形になります。 

いずれにしても、このように行列式のアルゴリズムで見ると図の変換がうまく整理できます。

このアルゴリズムをプログラムに反映させると、図形の変換プログラムになります。そういったプログラムの書き方についてもネット上では様々な情報が紹介されています。

一見するととても難しく感じます。これはちょうどマイクロソフトのosがMS‐DOSだった時代、タックシール一つ打ち出すにも、英語のコマンド打ち込まなければならなかった状態とにています。

実際の図の姿になると抵抗感がなくなります。web上、グラフィック上では、こういった変換がさまざまなところでおこなわれています。

ここには数学の役割の変化があります。18世紀末から起こった形式主義による数学の現代化は、このさきがけだったのです。

「変換群」で非ユークリッド幾何学がどのように統合されるのか?

非ユークリッド幾何学は1860年ころを契機に、ガウス、ボヤイ、ロバチェフスキー、リーマンなどの発案になるものが次々と世に知られるようになっていきました。契機になったのは1855年のガウスの死でした。

死後公開されたガウスの遺稿で、大数学者ガウスが非ユークリッド幾何学の存在をよく理解していたことが明らかになったのです。

ガウスの考案した非ユークリッド幾何学は、平行線が2本引けるというものです。

これは大平原の駅のホームに立ってどこまでも続くまっすぐな線路を見ている姿を想像するとことからはじまります。

平行な2本のレールが上り方向と下り方向、それぞれに地平線に向けて収束していきます。一本のレールの上から見ると、上り方面に収束する一本と、下り方面に収束する一本、それぞれ2つの平行線が見えます。これあ1点透視図の世界です。

地平線は無限遠点として除外して考えると、ある直線外の一点を通る平行線が2本引けることになります。

このように考えても、一定の制約のなかで幾何学がなりつことをガウスは理解ました。しかし、そのことを発表しませんでした。神学論争のような手の負えない議論に巻き込まれるのを恐れたのではないかと考えられています。

ガウスの考えた非ユークリッド幾何学は、変換群の観点から見ると、ユークリッド幾何学を射影変換した幾何学といえます。

つまり、とてもきれいに整理することができるのです。エルランゲン・プログラムの卓見です。

リーマンの幾何学とポアンカレ円盤

しかし、この方法が非ユークリッド幾何学を統合する唯一の方法というわけではありません。

リーマンの非ユークリッド幾何学は、楕円幾何学、放物線幾何学、双曲線幾何学など、球面の曲げ率を多様に変化させるものでした。

このような視点に立つとユークリッド空間は、曲げ率0の空間の幾何学ということになります。この方法でもきれいに統合できるのです。

ポアンカレ円盤は、このような非ユークリッド幾何学を見渡す別の見方です。

このような19世紀末の非ユークリッド幾何学をめぐる議論に触れると、勃興しつつある現代数学の息吹を感ずることができます。

このような数学は、実証科学の理論構築になくてはならないものとなっていきます。マクスウェルの波動方程式しかり、ボルツマンの熱平衡力学しかり、アインシュタインの相対性理論しかりです。

数学は地上の束縛を離れて、公理系という仮想空間のなかで爆発的に発展を遂げてゆくことになります。これこそが、数学の形式化であり、今日の「客観性」に張り付いている重要な側面なのです。

次回は、このあたりのことから考えてみたいと思います。

(つづく)


手技療法の基本原理(5)

2015-08-03 18:31:47 | Weblog

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だいぶ間隔が空いてしましましたが、このたびは手技療法の理論化という課題に一歩踏み込んで考えてみます。

 計測と観察事実

手技療法の世界は成熟した理論が生まれにくい世界です。手の感覚にこだわりをもって見なければ捉えられないことがたくさんあるからです。手の感覚と科学との相性がとても悪いことはいうまでもありません。たとえばボアン・カレは次のように述べています。 

我々には力がなんであるかはすっかりわかっている。我々はそれについて直接の直観を持っている。この直観は筋肉の収縮から生じた概念で我々が幼児からなれているものである。しかしまず仮にこの直観が力それ自身の真の本性を我々に知らしめるとしても、それは力学の基礎とするには不十分であろう。しかも全く役に立たないであろう。重要なのは力がなんであるかを知ることではなく、力の測り方を知ることである。力の測り方を教えないものはすべて力学の研究に役立たないことは、たとえば熱を研究する物理学者にとって主観的な熱い冷たいという概念が役に立たないのと同様である。この主観的な概念は数に翻訳することができない。だから少しも役に立たない

(ポアン・カレ『科学と仮説』1902 岩波文庫版第48刷2013 135p.)

 ボアン・カレ(1854~1912)はトポロジー(位相幾何学)を確立した数学者であり、ポアンカレ予測でも有名ですが、天文学、物理学者としても多くの成果を挙げた人です。量子力学が成立する前の時代の人であり、ラッセル、ヴィトゲンシュタイン、ゲーデルらに比べるとわずかですが前時代の人です。科学哲学については規約主義の立場から多くの考察をおこないました。

 ポアン・カレは、主観的なものはそれ自体では役に立たないこと、いかに計測するかということが問題であると主張しています。 

一方で、科学の全体系を見渡した時に、「力」とか「エネルギー」のように、直接計測することのできないものが中心概念として普遍性・客観性を与えられています。規約主義とは、概念というものを一つの規約(取り決め)と捉えようという立場です。たとえば「質料とは計算に導入すると便利な係数である」(同133p.)というように。

たとえばリンゴが木から落ちるのは、地球がリンゴに「力」を加えた結果です。リンゴに生じた加速度(重力加速度)は、地球の与えた「力」の作用であり、リンゴに与えられた作用と反作用はと等しいと考えます。両者が等しくなるのは、エネルギーが保存されるという法則によります。

この一連の説明のなかで、実際に計測できるのは、リンゴの重さ、時間、距離(リンゴの落下した距離)です。加速度は時間と距離から求めるしかありません。「力」は質料×加速度によって与えられる概念です。「力」は他のものに作用を与えることができるわけですが、それは加速度という方であらわれるのでなければなりません。

すると、この記述には直接計測できない「概念」が大きな役割をはたしているのがわかります。計測はできませんが、これらの概念は計測結果と完全に符合しており、一連の現象を矛盾なく説明することができます。ポアン・カレのいう規約主義とは、「力」「エネルギー」といったものは、計測結果と矛盾しない規約であると考えればよいという立場です。

概念化、理論化という行為

今日の完成された物質科学は実証主義に基づいているといわれます。これは、どのような定義や命題も経験可能な観察事実へとさかのぼって確認することができることを意味します。わたしたちは、追試によってこの観察事実を確認することもできます。

しかし、単に観察事実の集積だけで物質科学が完結しているわけではありません。概念化、概念相互の関係についての認識がとても重要な役割をはたしています。計測という行為は、主観性と客観性が橋渡しする重要な意味を持っているのですが、そこで求めらているのは個別の「事実」ではなく、普遍的な「概念」なのです。結果的にわたしたちの知りうる客観的世界は、計測技術に制約されることになります。

たとえば古典物理学のなかでは化学反応の前後で質量は変化しないとされていました(質料保存の法則)。しかし、量子力学のなかでは成り立ちません。保存されるのはエネルギー(E=mc²)であり、質量はわずかにせよ変化します。ラボアジュは念入りな計量によって化学反応の前後で物質の質量が変化しないことを証明したとされます。当時の計測技術ではこのことが表面化することがなかったのです。

手技療法が手による主観的な計測を重視するということは、主観的なものすべて肯定するのではなく、客観的な世界把握の限界を捉えたうえで、その不足を補うために意識的に主観的な能力を活用することです。むろんそのような主観的な観察に再現性がなければなりません。計測という行為がどのように制約されているかということについて掘り下げて考えることが必要になります。これについては、次々回にでもまとめられればと思っています。

さて、科学的世界把握のためには、観察事実を生み出す計測方法だけでなく、「事実」と「概念」の関係についても理解しておかなければなりません。科学のなかにはさまざまな概念があります。わたしたちが体験できるのは「事実」であって、これは「重さ」「長さ」「距離」「時間」など、具体的に計測できるものです。

「力」「エネルギー」という言葉が意味するものは「概念」であって、わたしたちは直接「力」や「エネルギー」を計測する手段を持ちません。

両者の関係は論理学的なものです。たとえばわたしたちは、「ポチ」とか、「ハチ」という固有の名前で呼ばれるイヌに接することはできますが、「犬」という概念そのものを体験することはできません。「犬」という概念は、普遍性をもち無限というものを含んでいます。集合概念なのです。

今日の客観的な世界像(物質科学)は、膨大な数の経験的な観察事実にもとづいて構築されているのですが、たんに事実を寄せ集めることによってできてるのではなく、いま紹介した「概念化」に見られるように、論理的数学的な体系化を通じて構築されています。

論理的数学的な体系化とはどういうことなのか、たとえばノーム・チョムスキーは言語学について次のように述べています。

厳密な定式化の追求には、単に論理的精密さに注意を払うことや、既に確立されている言語分析の諸々の方法を洗練するよりも遥かに重要な動機が存在する。…精密だが妥当でない定式化は、受け容れがたい結論にまでそれを推し進めてみると、その定式が妥当でない正確な原因が明らかになることが多く、結果として、当該の言語データに対するより深い理解が得られるのである。…不明瞭で直観に捕らわれた概念は、不合理な結論を導くわけでもなく、また、新しく正しい結論をもたらすわけでもない。

(ノーム・チョムスキー『統語構造論』1957 岩波文庫版2014 7~8p.)

実証科学において、さまざまな観察事実をまえに、「どのように概念化するか」、「概念間の関係をどのように位置づけるか」という問題が必然的に発生してきますが、厳密な定式化を進め、その定式を極限まで推し進めてみないと、概念化の妥当性、あるいは概念間の関係の妥当性も明らかにすることができません。ノーム・チョムスキーはそのことを言っているのです。

逆にいえば、生産性のない学問分野というのは、なまくらな概念をなまくらに構築して、ぼんやりした知識めいたものを得、矛盾もなければ批判もでない水準に甘んじているということができます。

このような「知識」はふるいにかけることができません。淘汰もされないかわりに当てにもされないし、発展性もなければ他分野との競合も生まれないのです。手技療法の世界は、まさにこういった状況です。

たとえばさまざなまノウハウが数多く語られています。さまざまな場面にあわせてノウハウを細分化して展開すると意見するとあたかも理論的な体裁をとっているように見えます。 

しかし、ノウハウと理論は別個のものです。理論化するということは本質的に無限という概念を含んていなければなりません。極限まで推し進めた時にどのようなことが起こるか、「○○という現象が伴ってくるはずである」、「○○という現象を満たさないと成り立たないはずである」といった随伴する問題が見えてこなければなりません。 

実際にこのことを検証してみると、定式化の不完全さが明らかになることがほとんどでしょう。そのことに耐えながら、問題点を修正していかなければなりません。あるときには目的としていたこととは全く異なる発見が生まれることもあるでしょう。

ノーム・チョムスキーが厳格な定式化に期待されることというのは、このことを指しています。ノウハウというものは、個人の主観的な問題解決の集積です。そこには、無限という概念、極限という概念が介在することがありません。同時に、自己撞着や自己憐憫が淘汰される厳格さも生まれようがありません。

無限という概念、極限という概念が介在しないということは、それは「不明瞭で直観に捕らわれた概念」(ノーム・チョムスキー)であり、「数に翻訳することができない。だから少しも役に立たない」(ポアン・カレ)ものなのです。

ここで問題としようとしている「主観性」とは、いまいったような問題を乗り越え決別したところで生まれる「主観性」です。でなければ、現在の実証科学の限界を超えるものとしての「主観性」を考える意味はないのです。そこで、わたしたちは、改めて実証科学を基礎づけている論理学や数学の「論証」という行為のなかに立ち入ってみることが必要になります。

なぜなら理論化、定式化という行為は、観察されなければならない事実、観察されなければ即座に矛盾となってはなかえってくる現象を提示するものだからです。たんに「観察事実」を集積するだけでは、理論が生まれるわけではありません。むしろ理論化、定式化ということが、「事実」と深く関わるための重要な鍵になっているのです。

ヒルベルトの形式主義

理論化、定式化という行為を考えるうえで数学についての理解は重要な意味を持ちます。ここで、わたしたちが考えなければならないのはもう少し限定していえばヒルベルの形式主義と言い換えてもよいでしょう。

ヒルベルトの形式主義は、現代数学を基礎づけている基本原理です。多くの人が高等学校の数学で学ぶカリキュラムはヒルベルト形式主義に基づいていますで。決して縁遠いものではないのです。

集合からはじまって、三角関数、行列、二次方程式の解公式から虚数、微積分、高次方程式へ連なる高校数学の一連の流れです。数学の用語にしたがえば、数学基礎論、代数学、解析学、幾何学、応用数学となります。

これらの数学はそもそも別個の時代に独立に発展してきました。これらが一連の論理的な関連性をもった統一的な体系性であることを明らかにしたのがダビッと・ヒルベルトです。ヒルベルトは20世紀初頭の代数学者で、現代数学の基礎づけに大きな役割をはたしました。前回紹介したゲーデルの不完全定理は、このヒルベルトの形式主義が不完全なものに終わることを証明したものです。

さてヒルベルトの形式主義の成り立ちを象徴的に表す出来事として、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とを統合したフェリックス・クライン(1849~1925)のエルランゲン・プログラム(1872)があります。

 このエルランゲン・プログラム(1872)はヒルベルトの形式主義に基本アイデアを提供するものでした。事実、ヒルベルトの形式主義はまず幾何学からスタートし大きな成功を収めました(『幾何学基礎論』1899 ちくま学芸文庫版2005)。

 しかし、数論、解析学へと進むにつれてさまざまな困難が生じてくることになるのですが、集合論や記号論理学に連なる19〜20世紀初期ころの理論化、定式化についての議論の見通しをうるためにはわかりやすい入り口となるように思われます。

 今日、完成された客観的な科学の成果に目を奪われていると、客観的な世界の基礎づけがどのようにおこなわれているかということが見失われてしまいがちですが、主観性と客観性の関係のような科学の基礎に関わる問題を考察するためには、このことがとても重要になります。

 というのは、量子力学のように数学の比重がますます大きくなりつつ分野がある一方で、逆に数学では解けない問題というものについても理解しておくことが必要になるからです。その代表的なものが運動です。

ここでは中学校で学ぶユークリッド幾何学のことを少しおさらいをして次回につなげたいと思います。

ユークリッド幾何学は、ある直線の外部にある一点を通る平行線が一本しかないという公理にそって成り立つ空間の幾何学です。

図中、同じ記号をふった角度はそれぞれ等しくなります。二直角の交点にできる対頂角は等しく、平行線と交差する直線とも間にできる同位角は互いに等しいことから、同じく錯角が等しくなります。

このことから三角形の内角の和がかならず180°になることが証明されます。このような三角形についての知見が、ユークリッド幾何学を花開かせる大きな跳躍台となりました。

しかし、実際の地上では、三角形が大きくなると内角の和は180°よりも小さくなります。これ地球の表面が球面だからです。

数学史上の多くの人が平行線の公理の証明を試みましたが、結果的に平行線の公理をはずしても一定の体系的な幾何学が成り立つことが逆に証明されていきます。ガウス、ボヤイ、ロバチェフスキー、リーマンらの幾何学、いわゆる非ユークリッド幾何学です。

クラインのエルランゲン・プログラムは、これら異なる性質をもった幾何学を、より巨視的な観点に立って統合しようとするものでした。ヒルベルトはクラインの指導学生の一人でしたが、このことから数学的世界の基礎づけというものを、より徹底的に推し進めようとしたのです。

次回は、数学の基礎づけの問題について考えてみたいと思います。

(つづく)


手技療法の根本原理(4)

2015-04-19 00:41:26 | Weblog

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手技療法にとっての21世紀

 わたしは、1990年に姿勢保健均整専門学校(現在、東都リハビリテーション学院)を卒業しました。「手技療法」をはじめてかれこれ25年が経過したことになります。 

 この間、ヒトゲノムの解析結果が明らかになり、タンパク質の構造解析の技術が開発され、機能的MRIを使った活動中の脳の機能の研究が進み、遺伝子を使った腸内細菌の解析、免疫の機能解明などがおこなわれました。

 

文科省の構造生物学データベースの公開(ヒトゲノム、タンパク質の構造解析の検索ツール)

http://p4d-info.nig.ac.jp/mediawiki/index.php/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6%E3%81%AE%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%83%84%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%A1%E3%82%89

  これは医学の進歩、人間の健康にとって大きな意義を持つものです。

  では手技療法の世界にこの25年間どの程度の進歩が見られたのかというと正直きわめて乏しいと考えます。

  単純に量の問題ではありません。手技療法のなかにもすぐれた成果、発展があります。しかし、それを束ねてゆこう、一般化してゆこうという動きが欠けているのです。

  たとえば体幹力、インナーマッスルへの注目は、手技療法の分野と関わりの深い問題です。手技療法のなかには、整形外科とかスポーツ科学などにはない多くの知見の集積があります。

  背骨の関節運動、神経学的な意義について、手技療法のなかにははるかに掘り下げられた知見があります。研究においては、「掘り下げる」ことと「広げること」「一般化すること」の両面が必要です。

  ヒトゲノムの解析やタンパク質の構造解析は、医学そのものの進歩というよりは、医学を支える基礎科学の進歩です。医学は、その成果を「広げること」「一般化すること」に取り組んでいるといえます。

  手技療法も、小さな殻に閉じこもっているべきではありません。

 

消去法で浮かび上がってきた手技療法の価値

 そのために、手技療法の成り立っている地盤をちゃんと見定めることが必要です。あやまった設計図をもとに突き進んでも、しっかりした建物を建設することはできません。

 かつて感染症の脅威が猛威を振るっていた時代がありました。たとえばクリミア戦争(ナイチンゲールが活躍した戦争)では、実際の戦闘で亡くなるよりも多くの人が怪我や手術などによる感染症で亡くなっています。

 致死性の細菌やウィルスによる伝染病と、怪我や手術後の感染症は現象としてはだいぶ違いがありますが、細菌やウィルスなどの小さな生き物(ウィルスは厳密には生き物といえない)によってもたらされるという点では共通です。

 パストゥールやコッホなどの研究で細菌学が確立されてくると、伝染病の予防には、感染者を隔離したり、食べ物や飲料水を制限するといった基本的人権の制限が社会的に必要だということが理解されるようになりました。 

 伝染病の予防という観点からみると、伝統的な医療は効果がないばかりか、合理的な伝声病対策のさまだけになることが少なくないことから、禁止するのが当たり前のように考えられるようになりました。

 たとえばエボラ出血熱の蔓延では、現地の人々が発病した家族を病院から連れ帰ったり、伝統的な食事の変更に抵抗するといったことが起こりました。

 しかし、抗生物質の発達によって、感染症の脅威が取り除かれてゆくと問題の本質がはっきりと見えるようになってきました。

 伝染病は、じつは政治経済のグローバル化(16世紀のスペイン、ポルトガルにとよる「世界分割」に端をはっする)によって長い年月をかけて作り上げられた人と環境との伝統的な共生関係を破壊されることによって発生したのでした。

 著名な人類学者クロード・レヴィ・ストロースは、人類学の対象なった原住民族の大半が、ヨーロッパ型の異文化との接触により感染症によって絶滅に近い状態に追い込まれたことを報告しています。

 感染症への対策が確立されたことによって、逆に、感染症以外にも多くの健康の脅威が存在することが理解されるようになりました。

 その結果として医療の分野で、「治療から予防へ」、「メディカルヘルスケアからプライマリーヘルスケアへ」という大きなパラダイムチェンジが発生しました。

 病気になってから治療するのではなく、予防に取り組むことが医療胃の点でも、健康の質という点でも、はるかに価値が高いことが理解されるようになったのです。

 1978年、WHOのプライマリヘルケアの世界大会では必要があれば伝統的治療師の力を借りることが改めて宣言されました(アルアマタ宣言)。今日、WHOのなかで、カイロプラクティックの『カイロプラクティックの基礎教育と安全性に関するガイドライン』が定められたり、「経穴部位国際標準化公式会議」が開催されて経穴(ツボ)の国際標準が定められたりしているのは、このような流れを受けてのことです。

 

伝統的医療の提起するサイエンスのパラダイムシフト

 科学的医療の立場に立つ人の多くは、仮に伝統的医療の価値が再評価されるとしても、その再評価は科学的なものでなければならないと考えています。これは当然のことです。

 日本においては、プライマリヘルスケアやWHO『運動器の十年』の運動は、医師など公的資格をもつ医療関係者と考えられています。 科学的な知見に基づいて、科学的な検証をへてサービスを提供できるのは、公的な医療資格をもった専門家であると考えるのも当然のことでしょう。

 しかし、にもかかわらず伝統的な医療、あるいは、わたしたちが行っている近代的な手技療法は、駆逐されるどころか幅広く社会的な支持を受けています。

 なぜそういったことがおこるのか、伝統的医療の側が科学的な視点に立って情報を発信することが求められていると思います。

 伝統的医療は、すくなくとも現在の科学とはことなる経験の上に成り立った技術です。現在の科学的な方法論と、これらの手技療法の技術の間にどのような壁があるのかを、科学的な視点にたって原理的に明らかにすることが必要だと思います。

 「手技療法の地盤をを建設する」ためにも不可欠な作業です。

 

統計学で明らかにできることとできないこと

 伝統的医療の内側に立ち入らなくとも、有効性は統計学的に判定できると考えている人がいます。各国の政府機関やWHOにおける伝統的医療の評価は、基本的にこのような視点に立っています。

 医療統計が整備され、EBM(根拠に基づいた医療)が提唱されている時代、統計学は医療制度を支える重要な基盤です。

 制度医療では、レセプト請求や電子カルテ化などで自動的に大量のデータ(ビッグテータ)が蓄積されますが、伝統的医療の側には制度的に蓄積されたデータは存在しません。個人個人の院で集積されたデータも、多くはデータ化されていませんし、記録されている内容にもばらつきがあります。

 しかし、統計学の意味を理解しし、伝統医療のとるべき方向を明らかにすることは重要です。

 統計的な検証には暗黙の前提が置かれています。それは「採取したデータのなかに、すべての事象が写りこんでいるという」前提です。この前提条件が検証結果の限界でもあります。

 伝統的医療と一般の人々の間にはさまざまな事象が発生します。これは世界中で将来にわたって無限に発生する事象です。データを取るということは、表本を取り出してこの「無限にある事象」の性質を類推しようとすることになります。

 では、統計的解析のもとになるデータは、どの程度、その全体を反映しているでしょうか?

 統計学は「場合分けの科学」ともいわれます。たとえば、喫煙している人と喫煙していない人で肺がんの発生率に差があるか否か、ある治療法は喘息に対して有効か否か、といったように具体的な「場合」に対して統計的な検証がおこなわれます。

 「場合分けの科学」というわれるのは、場合分けの仕方によって結果が大きく左右されるからです。

 たとえばある治療法の有効性を、喘息に対して検証するのか、逆流性食道炎に対して検証するのか、椎間板ヘルニアについて検証するのでは意味が全く違います。

 問題は、その場合分けの基準はどこからくるかです。次のような例を考えて見てください。

 

データから完全に恣意性を排除すること=客観化することはできない

  20人の人を集めて、バスケットボールのシュート練習をさせ、練習量とシュートの成功率の相関性を検証しようとしたとしましょう。

 その結果、両者の間には全く相関性がなかったという結論が出たとします。そんなことはあるわけないと思われでしょうが、少し、この仮定にお付き合いください。

 もしシュートの成功率は練習と相関がないとすれば、シュートの上手な人と下手な人といった違いは、身長とか性別とか遺伝的特性といった努力によって超えられない壁によって100%決定されていることになります。

 さて、20人の対象者を調べてみると、18人は乳幼児で2人が大学生だったとします。この場合、先にあげたように練習とシュートの成功率に相関性が見られないのは当然だということになります。乳幼児ではそもそもバスケットボールを投げることができません。

 もし2人の大学生を「場合分け」して調べてみれば、おそらく練習量とシュートの成功率の相関性ははっきりとした数値として出てくるであろうと予測されます。

 乳幼児と大学生を分けるという「場合分け」は、普通に考えれば当たり前です。しかし、そのような基準が、伝統的治療師には見えていても、世間的な常識では見えないといった場合もあり得ます。少なくとも理論的にはありうるのです。

 統計学では、極端なデータははずして顕彰することが一般的です。これは「まぐれ」を排除するのです。

 ここで明らかなことは、なにが「まぐれ」で、なにが「本質的」なのかは、データのなかに写りこんでこないということです。一見「まぐれ」としか思われないできごとのかに、「本質的なもの」を読み取るかどうかは、調べる人の思い一つ(恣意性)によることになるのです。

 データを集め因子分析と重回帰分析など、さまざまな解析手法を用いて自動的に結果が浮かび上がってくる検証結果ももちろんあるのですが、それはあくまで採取されたデータのなかに潜む傾向性であって、無限に存在する事象のすべてではありません。

 どこで「場合分け」をするかはたえずあらたな研究課題なのです。伝統的医療の価値は、すでに統計調査によって結果が出て居ると考えている人は、このような基礎的な部分で誤りを犯しています。

  じつは、この問題はクルト・ゲーデルの「不完全性の定理」によって厳格に証明されている問題です。 

 最初にいったように統計学的な検証は標本調査です。データはたえず不完全で、本質的なものが抜け落ちている可能性があるということを考えないと、わたしたちは常識の輪のなかを、ただぐるぐるとまわっているだけになります。

 あらゆる科学的発見は「まぐれ」と「本質的なもの」の間のパラダイム転換によって起こりました。伝統的医療は、まだその本質が開示されていない医療(身体的アプローチ)なのです。

 

 

手技療法の「経験」を理解する

 では、はたして伝統的治療師は「大学生における練習量とシュートの成功率の相関性」のような明白は場合分けの基準を取り出しうるのだろうか?

 このこそが、ここで考えるべき最も重要な課題です。

 タンパク質の全構造解析が進み、ヒトゲノム構造が終り、かたや核磁気共鳴によって体内の水素原子の原子核(陽子=プロトン)の位置解析から体内が透視できる時代に、人間の五感にたよって成り立つ知識など、些末な時代遅れのものにすぎないと、常識的な人は考えるのは当然のことかもしれません。

  しかし、科学の進歩は、人間の手の持つ能力、脳の持つ能力、さらに生物の持つ能力についても多くのことを解明しました。生物応用技術という分野では、エアコンのファンの能力、掃除機の吸い取り能力など、従来技術では考えられないレベルの性能の向上が達成されています。

 このことを象徴的にあらわしているのが献血でしょう。生きている以上、だれの身体も血液をつくる能力を持っています。

 しかし、現在の科学技術では、血液をつくることはできないのです。

 次回はこういった点を踏まえて、伝統的医療がプライマリヘルスケアの分野でもつ積極的な価値について、科学的な視点に立って検討してみたいと思います 。

 それは、現代の科学の根底に横たわる主観的なものと客観的なものとの原理的な対立の問題なのです。
(つづく)

手技療法の根本原理(3)

2015-02-21 19:29:09 | Weblog

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これまで手技療法を科学的に考えるという視点から客観性と主観性の問題を考えてきました。思うように更新できずに新しい年を迎えてしまいました。少しずつですが、また議論を前進させてみましょう。

手技療法は人間のもつ「感じる力」をもとになりたつ技術です。「感じる力」というのは、好きとか嫌いといった情緒的な感じのことではなく、人間の五感がもっている情報収集能力です。

炭鉱の作業で籠にカナリアをいれて傍らに置いておくと、有毒ガスなどの発生に対していち早く感知してさえずりが止まるといわれています。「炭鉱のカナリア」という言葉は、他に先んじて危機を察知するものの代名詞となっています。

あるいは地震の跡のがれきや雪崩のあとから生存者を探し出す災害救助犬のことは、今日さまざまな報道で目にする機会が多くなっています。

生き物が持っているセンサーは、機械的に作り出した検出装置などでは到底及びもつかない検出能力を持っています。今日、生物が持っているすぐれた能力について、生命科学の進歩を背景に科学的な理解が進んでいます。

しかし、実際に生き物が読み取っている「世界」を客観化することは現在の科学ではできません。災害救助犬が、実際にどのように世界を受け止めいているかを、わたしたちが外部から理解することはできないのです。

生き物のセンサーは、驚くほど高い感度をもっていますが、同時に間違いをおかすことがないわけではありません。高いセンサーとしての能力と、時には勘違いをしてしまうこともある欠点が分かちいがたく結びついていることも生物的な能力の一つの特徴があります。

手技療法も、そのような主観的な能力に依存した技術です。人間の持つ「感じる力」に依存するということは、つまり本格的に「主観性」というものに向き合うことが必要になるのです。

そのことは、第一に、手技療法がいわゆる物質科学の前提から外れていることを意味します。

同時に、これまで積み重ねられてきたさまざまな手技療法の伝統に問題があることを示唆しています。

これまでの手技療法は、主観的な能力に立脚しながら、そのことに注意を向けてきませんでした。

たとえば鍼灸の背景にある漢方医学においても、カイロプラクティックやオステオパシーなどアメリカに起源のある手技療法においても、理論は『客観的なもの』と考えられてきたのです。

そして手技療法家の主観性は、訓練によって当然のごとくに乗り越えられなければならないものと考えられてきたのです。

しかし、わたしたちはあくまで『主観的』にしか世界を理解することはできません。『主観的』な存在であるわたしたちが、『客観的』な認識を持つにあたっては、じつは想像を絶する巨大な壁を乗り越えなければなりません。

わたしは、現代の手技療法がこの点に目を向けるべき時にさしかかっていると感じています。現代の医学は素晴らしい成果を挙げ、人々の生活に不可欠な多くの貢献をしています。

インシュリンの単離と合成によって、インシュリンの分泌がなくなっても人は生きることができるようになりました。サーファクタントの発見は新生児呼吸窮迫症候群の子供にこの世で生きる道を開きました。このような医学の成果は、『客観的な』物質科学によってもたらされました。
しかし、人間の健康ということを考えた時、医学が目を向けていない領域があることも確かです。

手技療法は、そのことを一つの現象として示していると思います。しかし、その経験はいまだ半分霧がかかった状態におかれています。

手技療法における『主観性」と『客観性』の問題は、このことを考える重要な糸口のです。たとえば中世の錬金術は数多くの成果を挙げ、近代の物質科学の発展の基盤を作ることに大いに貢献しました。

しかし、物質についての古典的な四元素説に立っていました。またこのような物質の性質が占星術などとも深く結びついていると考えられていました。これはこれで一つの体系的な説明を与えるものでしたが、それは実際の性質を合理的に説明するものではありませんでした。それゆえに、合理的な物質科学がひとたび成立するとあっというまに忘れ去られていきました。

錬金術と近代の物質科学とを分けたものこそ、『主観的なもの』と『客観的なもの』との関係でした。現代の手技療法についてわたしが考えたいのは、これと同じ問題です。

たとえば近代の物質科学においても、客観的な世界観が一足飛びに形作られたわけではありません。多くの誤りや誤解がない交ぜになしながらゆっくりと合理的な世界観が形作られてきました。
真理の発見者として著名な科学者が、一方で誤解や思い込みによって真理の抑圧者となるといったことが頻繁に起こりました。

たとえば有機化学の発見者として、19世紀最大の科学者とも言われるユストゥス・フォン・リービッヒは、アルコール発酵や腐敗、生物の自然発生説を合理的に否定するなどの成果で近代細菌学の開祖ともいわれるルイ・パスツールの研究に対しては容赦のない攻撃を続けました。

リービッヒは微生物が重篤な感染症を引き起こすなどというパスツールの考えは、ライン川の流れの原因を、川沿いに設置された水車にあるとするくらいばかげたものだと批判しました(イリヤ・メチニコフ『近代医学の建設者』岩波文庫版 1968)。

(つづく)
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手技療法の根本原理(2)

2014-06-13 07:43:34 | Weblog

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「職人技」と呼ばれるもの背景には、いずれもその人の身体能力、身体感覚があります。身体能力や身体感覚は、ほんの一瞬のなかで発揮されるものですが、そこにはその職人の積み重ねてきた経験が凝縮しています。

便宜的に「職人技」と表現していますが、正確にいうと「客観的に言葉にできない技術要素」、「属人的な技術要素(その人に備わった技術)」という意味です。技術には「客観できる要素」=機械化できる要素と、「客観なできない要素」=人の主観的な能力によらなければならない要素の二つがあります。

職人技といっているのは、後者の要素です。「職人技」というときにはとくに「経験(修練)に裏付けられた」、「即座にまねできない」という点が強調されています。経験の凝縮という表現は、「技」という言葉の意味を表す上で、とても重要な性質を伝えています。

機械化するためにはものごとを客観的にとらえ、「科学的な目で分析する」ということができなければなりません。「科学的」という言葉は、デカルトの『方法序説』で切り開かれた近代の物質科学の視点です。主観性に左右されることのない客観的な実在のみを相手とすることを意味します。

その意味では、職人技は「科学」の俎上にのぼせにくいものです。この点は前回お話したとおりです。これは、職人技というものが、その人の「主観性」に積極的にこだわることによってしか成り立たないからです。

機械は、一定の仕事を客観化し、科学の進歩とともに蓄積されてきたさまざまテクノロジーの体系と結びつけることによって、人間が持っている認識力や運動能力を飛躍的に伸ばしてくれます。

飛行機や新幹線の移動能力、MRIや電子顕微鏡の解析能力、コンピュータの情報処理能力、橋脚やダムのもつ物理的な能力。それぞれは驚嘆する物資的な可能性を人間に与えてくれています。それ故に、わたしたちは機械化された技術というものにたえず期待をし、それこそがわたしたちを支えてくれていると考えがちです。

たしかに豊かな物質的な生活、豊富な食べ物、たえず利用可能なエネルギー、世界中の情報を手に取れる通信機器、それらの背景となるグローバル経済など、どれ一つをとっても機械の助けなしには成り立たないものばかりです。

ただ人間が抱える課題に対して、すべてを機械化して対処できればよいのですが、現実には、さまざまな世界の抱える課題に対して機械によって対処できることは、ほとんどわずかしかありません。


エドモンド・フッサール(Edmund Husserl)とエルンスト・マッハ(Ernst Mach)。90年代に中村雄二郎『臨床の知とは何か』(岩波新書)では、ここで取り上げようとしている問題をどちらかというと外側から評論的に考察されました。技術の内側に立ち入ってみるには、フッサールやマッハらの視点に立ち返ってみることが必要だと思っています。


手技療法も、おこなう人の手の能力、「主観性」に積極的にこだわることによって成り立つ技術であり、いま言った意味での「科学」の俎上に乗りにくいものです。現に、このことを科学的に確定した研究はいまだに存在しません。

しかし、「科学」の意味を、冒頭で紹介したデカルト的理念においてではなく、特殊な人が獲得した「職人技」を、だれもが理解できる判断と行動の修正プロセスとして記述しなおすことととらえれば、手技療法を科学の俎上にのぼすことも不可能ではないかもしれません。

経験の凝縮ということが、「技」の重要な側面だといいました。このことを「だれもが理解できる判断と行動の修正プロセス」という観点からすこし噛み砕いてみましょう。

人間は、だれでも過去に実践したことを何らかの形で記憶にとどめています。たとえば子供のころの遊び場の様子、小学校の運動会の時の様子、学校帰りの景色などなど。職人技の背景にも、習いたてのたどたどしい経験、先輩や顧客から叱られた経験が刷り込まれています。

記憶というと、たんにメモリーのなかに書き込まれた状態、あるいはインデックスにしたがっていつでもそのままの形で取り出せる(思い出せる)状態という風に捉えられるかもしれませんが、実際にはそうではありません。日常生活でもしばしば経験することですが、わたしたちは自分の意図にしたがって自由に記憶を操ることができません。

しかし、「技」においては、過去の記憶が一瞬のうちで実践のなかに表れなければなりません。したがって、記憶はたえず出力可能な状態で待機していなければなりません。職人技が属人的な技術であるというのは、過去の記憶を蓄積する方法と大きな関わりがあります。

日常生活で、ついいやな事を思い出してしまうことがあります。失敗した経験や苦い記憶を思い出すのはいやなものです。無意識に抑圧しているいやな記憶が、何かのきっかけで意識のうえに上ってこざるを得なくなった状態です。

このような場合、過去の記憶が呼び出されたことに変わりがありませんが、あくまで受身のものです。通常、日常生活に都合のよいようにいやな記憶は無意識に抑圧されているのです。

しかし職人技に関わる記憶は、たんに受動的なものでは役に立ちません。必要に合わせてたえず呼び出し可能な状態に待機されていなければなりません。その時に、その記憶が「よい」とか「悪い」「いやな」といった情緒性は関係がありません。

とはいえ人間ですから、完全に情緒性を排除することは困難です。重要な記憶でも、激しく叱り飛ばされながら覚えたことを冷静に思いだせなかったり、緊張して細かな事実の観察がおろそかになるといったことが生じるかもしれません。

これは職人技が、人間の能力に頼らざるをえない不便な点です。

職人技では、そのような「情緒性」を乗り越えて、対象と純粋に向き合うことが必要になります。そのためには、かりに激しく叱り飛ばされたときの怒りや反発の感情あったとしても、「自分のために叱ってくれたんだ」「本当は大切なことを教えようとしてくれたんだ」と心底思えるようになることが大切です。

情動という面でいえば、たんに「怒り」「反発」にとどまるのではなく、主体的に「合理化」「昇華」をして、不要な情緒性を記憶のなかからそぎ落としてしまうことが必要になるのです。

職人技は、たしかに「主観的な能力」にこだわって成立する技術ですが、あくまで対象と客観的に向き合うことによって成り立つ技術です。

最終的に必要なのは「情緒性」に裏付けられた「主観性」ではなく、人間のもっている能力をできるかぎり客観的に対象と向き合あわせることが求められているからです。

西田哲学の純粋経験という言葉を引いたのはこのことを指しています。そこで問題とされているのは、あらゆる思念や学問による理念化に先立つ純粋な経験であり、自分と対象、主観と客観という区別すら存在しない経験、主客合一の純粋なる経験という意味です。

この点が強調されるのは、日常の経験のなかでは、わたしたちは既知の知識や気分といったものを介さずに純粋に対象と向き合うことがなかなかできないという意味合いも含んでいます。

たとえば手技療法を学ぼうとする人であれば、まず人の身体に触れることによる緊張感があります。

わたしたちは、日常、家族同士でも背中を触ったり首を抱えたり、手足の関節を曲げ伸ばしするなどといったことはありません。人の身体というものは、ある意味では手短なものでありながら、同時に未知の領域でもあるのです。

さらに、「仕事にしなければ」とか、「これから勉強するぞ」とか、あるいは「いろいろやってもちっともよくわからない」といった挫折感など、さまざまな情緒が伴ってきます。

職人技という点から見ると、そのような情緒性からいかに自由になれるかということが大切なのです。わかりやすいたとえ話が、夏目漱石の『夢十話』のなかにでてきます。

話は、「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。」といったところからはじまります。

運慶な見物人にもめくれず一心不乱に鑿を振るっていて一人の若い男が、「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我われとあるのみと云う態度だ。天晴あっぱれだ」「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在だいじざいの妙境に達している」と云ったといった描写が続きます。

主人公は、刀の入れ方がいかにも無遠慮であったと感じ、そうして少しも疑念を挾さしはさんでおらんように見えたにも関わらず見事な仁王像が出来上がるのを見て「よくああ無造作むぞうさに鑿を使って、思うような眉まみえや鼻ができるものだな」とつい独り言を言ったというのです。

運慶の仁王像


すると隣にいた見物人が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋うまっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云ったというのす。そう思って自分もいろいろ彫りだしてみたが、「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋うまっていないものだと悟った」という落ちになっているのでが、ここに描写された運慶の逸話こそ、主客合一の境地といってもよいでしょう。

西田哲学では「純粋経験」「主客合一」などと呼ばれますが、本意ではないにしても、そこには少し情緒的なにおいを感じます。「主客合一」などということは、夢中に励んでいる様子をあとから反省して言うことであって、そういった想念そのものは邪魔なものです。

より正確にいえばさまざまな理念化の働きを停止して、「生活世界」の現象に向き合うことです。そこに超越論的判断停止ということが働いていなければなりません。これがエドモンド・フッサールの超越論的現象学です。

このような立場に立つと、冒頭で述べたデカルト的な客観性の暗雲を突き抜けてを、現象学的に対象を向き合うことができます。「だれもが理解できる判断と行動の修正プロセスとして記述」するスタートといえるでしょう。

むろん超越論的判断停止はあくまで出発点であってそれさえあれば「職人技」が成り立つといったものではありません。

職人技は、現在の科学技術では置き換えられない人間の生理的能力をフルに発揮することに支えられています。その能力を身に着けるためには、人間をよく知ることが大切です。

次回は、このことをより具体的に紹介してみたいと思います。
(つづく)
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手技療法の根本原理(1)

2014-03-06 18:13:32 | Weblog

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ご無沙汰してしまいました。団体の仕事におわれ、なかなか更新することができないまま時が過ぎてしまいました。はや3月にはいってしましましたが、今年は定期的な更新を心がけていきたいと思います。

少し古い本ですが、高橋 晄正という方がまとめた『漢方の認識』(NHKブックス 1969)という本のなかで、木下晴都氏の研究として、6人の鍼灸師が12名のクライアントに対して目隠しをして二度の脈状診をしてもらったところ、同じクライアントに対する二度の診断の一致した割合は、それぞれ75%、67%、42%、33%、17%、8%であったという例を紹介しています。

説明を補うと、鍼灸師の方が目隠しをして12名の人を見たときに、少ない人で3名、多い人では11名分の診断が一回目と二回目で異なってしまったということです。

報告では、さらに比較的割合の高かった上位3名(75%、67%、42%)の診断の異同を検証したところ、3人が一致した診断にいたったのはわずかに2例であったことを報告しています。これは診断の客観性に疑いを挟ませる重要な事実です。

たとえば血圧計で計測するとき、幾度も計測すると一回一回の数値には必ず違いが出るはずです。これは生命現象のゆらぎといわれる問題です。ときには緊張したり寒気を感じたちすれば、思いのほか大きな変動が生ずることがあるでしょう。

このことは、いうまでもありませんが「血圧を計測しても意味がない」ということを示しているのではありません。血圧の些細な数値の変動を気にかけても仕方がない(無視してもよい)ということを意味しているのです。

ここで問題となるのは『手』を使って、いったい何を明らかにしようとするのかということです。『手』の役割をよく理解し、適切にコントロールしていくことが重要なのです。

たとえば整形外科ではゴニオメーター(関節角度計)を用いて関節可動性の計測をおこないます。その際、手を用いることの問題として、「検査者内信頼性」、「検査者間信頼性」ということがよく検討されています。

実際に、手でゴニオメーターを操作して計測すると、測るたびに結果が違ってしまうのです。同じ検査者自身の計測においても差が出るし、異なる検査者間ではもっと大きな差が出る。誰が考えても容易に想像のつくことです。では、これをどう考えるかということなのです。

このブログでは、手技療法とはなにか、どのような効用が期待されるのかについて、客観性というものを軸にお伝えしたいと思っています。その際、手にどのような役割を持たせるのかということがとても重要です。

そして、なぜ手を用いなければならないかについて、明晰な根拠を明らかにしてゆくことが大切だと考えています。なぜなら手技療法というものは、『手』の能力をはなれては成り立たないからです。

そのことは、手技療法の意義を理解していただくためにも、手技療法の可能性を伸ばしてゆく上での重要だと考えています。

わたしたちが用いている『手』は、じつはたんに手首から先の部位をさしているのではありません。手は、神経によって脳につながれています。また腕や肩を通じて体幹、さらには骨盤や足を通じて地面につながっています。

手で感じたことは、すべて脳に送られ、連続的に処理されます。連続的というのは、たとえば血圧計のように、ある特定の瞬間のデータを記録するだけではなく、手で触れているすべての時間、さらに手を動かせばそれに伴って変動してゆすべての時間のデータをキャッチし、たんに記録するのではなく、その変化をとらえ即座に直感としてもどしてくれているのです。

それだけではありません。手は、たんに感覚するだけでなく、押したり引いたり握ったりしたときの反動を、手首から腕、体幹、さらには足を伝わって地面にいたる力の流れ(バランスの変化)としてキャッチし、即座に全身の運動能力を発動させるととのもに、経験と照合し、その物質イメージをもどしてくれます。

さらに、このすべての能力が学習機能をもっていて、経験を集積するにつれ、より組織的な情報処理能力へと新生されてゆくのです。

あえてそのように申し上げるのは、これまでわたしの知る、限り手技療法についての記事は、経験とか効果のアッピールについてのものが多く、上のような問題がほとんど無視されてきたからです。

そのそも科学は徹底的に「主観性」を排除することによって成り立ってきました。近代科学に哲学的な基礎をあたえたルネ・デカルト(1596~1650)は、『方法序説』のなかに、主観的な印象は夢なのかうつつなのかの区別がつかないし、確かだと思ったことが思い違いであったり、およそ頼りにならないと記しています。

しかし手技療法における『手』は、機械と違い、人それぞれの「主観性」抜きには働きません。このことが、一般的な科学の土俵に乗せにくい手技療法の弱点となってきたのです。

実際に手技療法は、『手』の背後にある「主観性」を排除できないと不完全な存在ではありません。むしろ「主観性」を徹底的に鍛え、まさしく職人の域にまで高めていかなければならない『技』の基盤なのです。

つまり、たんにマニュアル的に『手』を使っていたのでは手技療法の『手』にはならないのです。

デカルトが排除しようとした「主観性」とは、別の言い方をすると心理学的な意味での自我です。

しかし、手技療法の根拠にある「主観性」は、そのような意味での心理学的な自我とは違います。あえて言葉にするなら、自我を滅却して対象と合一する、西田哲学にいう「純粋経験」の域に属することなのです。

日本は、明治以来、和魂洋才で近代科学の技術の導入に突き進みながら、近代科学のもとになる科学的精神については、ほとんど理解することを拒んできました。

このことが、結局は手による経験を高めてゆく上で、大きな障害になりつつあるというのがわたしの考えていることです。

人の健康をめぐる環境が変化し、手技療法の持つ意義、とくに手でなければできない人間の健康に対する効用について、もっとしっかりした議論が求められると思うのです。

次回は、このことをより具体的に紹介してみたいと思います。
(つづく)
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