よくヤクザは必要悪であると主張する方がいる。私はその主張は「必要悪」という言葉の意味を誤用していると考える。その誤用のため、自覚的に噛む自覚的にか、ヤクザ=必要悪という主張は誤っている。
ヤクザは必要悪ではない。これがこの文章で言いたいことである。
必要悪とは、デメリットを生むものの、そのデメリットを許容してでもそれが必要であるような対象、もしくはその状態を指す、と私は考える。
例えば、患部を切り取るために体によくないとわかっていても、メスで体を切り開くケースなど。
ヤクザは必要悪ではない。ヤクザに積極的な社会的メリットはまず持って考えられない。
だが、ヤクザはデメリットのみを社会に与えるからといって、社会から消えることはまずありえない。ヤクザの存在は、「必要」ではなく「必然」なのである。
そういう環境や素質に生まれ育ち、社会は常に後ろ暗いニーズを持ち、人々は暴力に恐怖を感じる。こういった条件が、ヤクザの存在を必然としている
必然的にヤクザは存在するが、なければないでそれが一番よいのである。
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以上が私の主張であるが、それを規定している感情的な側面を以下に記したい。
知り合いにヤクザがいると公言し、「自慢」するるようなやからが多い。そういう人間はたいていは実際にはヤクザと「知り合い」というほどの『知り合い』ではないのだろうが、ヤクザと知り合いだと言うことで何かしら自分の顔の広さや、人脈と言うものを自慢しているつもりなのだろう。だが、それは自らの世間知の無さを露呈しているだけだ。
かつて、私の友人に、自分の兄弟がヤクザだという人もいた。だが、それは「知り合い」とかと違い、客観的事実だったので仕方がない。その人とは結構仲良くしていたが、もし最初にヤクザが家族にいると知っていたら、そもそも仲良くなったかはわからない。様子を見て、よほどその人が信頼できるかどうかを判定できるまで待ったかもしれない。
もちろん、本当にヤクザの知り合いの人もいるだろう。もし、私が本当にその人がヤクザと知り合いだと感じたら、私はその人との付き合いをある一線で止めるように工夫するだろう。付き合いをやめることは角が立つが、付き合いの糸を長く細くする努力をする。
できるならば、ヤクザとは一切関わりたくない。
こう述べると、ヤクザ関係者を差別しているようだが、そうでもない。前に働いていたアルバイト先は、ごく普通の仕事であったが、何故か前述した「実は兄弟がヤクザで」とか、それに仕事上関わっていて、刑務所には行きませんでしたが、人生をやり直し中ですみたいなあんちゃんがもぐりこんでおり、何故かそういう人と仲良くなってしまってから事実を知らされて困惑した思い出がある。だがその後も、交際には支障は起きなかった。
あまりにヤクザ的なものが身近な人は、却ってそれを自慢したりはしない場合もある。そういう人ならば、私も付き合いやすい。
つまり、私が一番嫌いなのは無論ヤクザ本体だが、次に嫌いなのはヤクザの知り合いがいることをアピールして何か威張るやつである。実際に知り合いなら準ヤクザであるし、大して知り合いでもないのにそう公言するなら大して罪は無いが、軽はずみなやつと内心思わず軽んじたくなる。人間、どんな人とでも喧嘩したり損害を与え与えられたりすることがある。そこにヤクザが絡んでくることはいくらでも考えられる。大して親しくも無い連中と関わって、挙句にヤクザに乗り込まれたんじゃかなわない。これが率直な感覚である。
ヤクザは必要悪ではない。これがこの文章で言いたいことである。
必要悪とは、デメリットを生むものの、そのデメリットを許容してでもそれが必要であるような対象、もしくはその状態を指す、と私は考える。
例えば、患部を切り取るために体によくないとわかっていても、メスで体を切り開くケースなど。
ヤクザは必要悪ではない。ヤクザに積極的な社会的メリットはまず持って考えられない。
だが、ヤクザはデメリットのみを社会に与えるからといって、社会から消えることはまずありえない。ヤクザの存在は、「必要」ではなく「必然」なのである。
そういう環境や素質に生まれ育ち、社会は常に後ろ暗いニーズを持ち、人々は暴力に恐怖を感じる。こういった条件が、ヤクザの存在を必然としている
必然的にヤクザは存在するが、なければないでそれが一番よいのである。
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以上が私の主張であるが、それを規定している感情的な側面を以下に記したい。
知り合いにヤクザがいると公言し、「自慢」するるようなやからが多い。そういう人間はたいていは実際にはヤクザと「知り合い」というほどの『知り合い』ではないのだろうが、ヤクザと知り合いだと言うことで何かしら自分の顔の広さや、人脈と言うものを自慢しているつもりなのだろう。だが、それは自らの世間知の無さを露呈しているだけだ。
かつて、私の友人に、自分の兄弟がヤクザだという人もいた。だが、それは「知り合い」とかと違い、客観的事実だったので仕方がない。その人とは結構仲良くしていたが、もし最初にヤクザが家族にいると知っていたら、そもそも仲良くなったかはわからない。様子を見て、よほどその人が信頼できるかどうかを判定できるまで待ったかもしれない。
もちろん、本当にヤクザの知り合いの人もいるだろう。もし、私が本当にその人がヤクザと知り合いだと感じたら、私はその人との付き合いをある一線で止めるように工夫するだろう。付き合いをやめることは角が立つが、付き合いの糸を長く細くする努力をする。
できるならば、ヤクザとは一切関わりたくない。
こう述べると、ヤクザ関係者を差別しているようだが、そうでもない。前に働いていたアルバイト先は、ごく普通の仕事であったが、何故か前述した「実は兄弟がヤクザで」とか、それに仕事上関わっていて、刑務所には行きませんでしたが、人生をやり直し中ですみたいなあんちゃんがもぐりこんでおり、何故かそういう人と仲良くなってしまってから事実を知らされて困惑した思い出がある。だがその後も、交際には支障は起きなかった。
あまりにヤクザ的なものが身近な人は、却ってそれを自慢したりはしない場合もある。そういう人ならば、私も付き合いやすい。
つまり、私が一番嫌いなのは無論ヤクザ本体だが、次に嫌いなのはヤクザの知り合いがいることをアピールして何か威張るやつである。実際に知り合いなら準ヤクザであるし、大して知り合いでもないのにそう公言するなら大して罪は無いが、軽はずみなやつと内心思わず軽んじたくなる。人間、どんな人とでも喧嘩したり損害を与え与えられたりすることがある。そこにヤクザが絡んでくることはいくらでも考えられる。大して親しくも無い連中と関わって、挙句にヤクザに乗り込まれたんじゃかなわない。これが率直な感覚である。











