海と空

天は高く、海は深し

詩篇第十六篇註解

2005年10月06日 | 詩篇註解

 

詩篇第十六篇

 

黄金ように美しいダビデの詩。

私を守ってください。神よ。私はあなたの中に隠れますから。
私は主に言った。「あなたは私の主人。あなたの他に私の幸せはありません。」
この地に住む聖なる人々は力強く、彼らは私の歓び。
他の神々を慕う者には悲しみが増える。
私は彼らの血の神酒を注がず、彼らの神々の名を唱えることはない。
主は私の分け前、私の杯。あなたは私の運命を支える。

麗しい土地が私への配当となり、私は輝かしい遺産を継いだ。
私は称えます、私のために助言される主を。
主は夜毎に私に警告される。私はいつも主を眼前に見る。私は決して揺らがない。主が右にあって支えられるから。だから私の心は歓び、栄光に踊ります。
そして私の身体は安全に憩う。
あなたは私を見捨てて死に渡すことなく、あなたを慕う人を墓に降さず、私を命の道へと導きます。
あなたの御顔は私を歓びに満たし、あなたの右手からは楽しみがいつまでも尽きません。

 

第十六篇注解   麗しき遺産

英語訳には、「確信の祈り」という標題がついている。主の実在を確信することから生まれた祈りである。この詩も、第十一篇と同じく、主における信頼を歌う。詩人にとって、主は神のみである。この神がどのような存在であるか、祈りによって、あるいは思索によって、認識することこそが、聖書判読や詩篇研究の目的である。旧約聖書の神「ヤーベ」は、ユダヤ人にとってはあまりにも神聖であったので、この言葉が乱用されることを嫌い、代えて「アドナイ」(主・the Lord)と呼んだ。聖書研究の中心課題は、この主をどのようにして認識するか、どのような存在であるかを明らかにすることである。

この主なる神は、ヘブライ民族の祖先である、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーゼの神であった。もともと飢饉のためにエジプトに寄留していた、この民族の子孫が、その数を増し勢力を強めるにつれ、エジプトの民によって、奴隷のように扱われ、圧迫されるようになった。この間の歴史的な事情は、創世記、出エジプト記などに記録されている。

そうした中で、この民族をエジプトの抑圧から解放した指導者モーゼの果たした役割は、決定的に重要である。ユダヤ教の本質は、モーゼの宗教である。この詩篇においても、モーゼやダビデが、どのような「存在」を「主」として認識していたかを知る必要がある。神は、まず、モーゼを介して「十戒」を与えた。そして、モーゼがそのエジプト脱出の過程で、単なる民族共同体であったヘブライ民族に、さまざまな宗教的規定を課すことによって、この民族はヤーベ神を中心とする宗教的共同体としての性格をもつようになった(レビ記第十九章)。この主たる神についての観念の形成に大きな影響を持ったのは、モーゼである。モーゼなくして、預言者もなく、イエスも、パウロも存在しなかった。聖書の神の特殊性は全て、モーゼによってもたらされた神についての観念に由来する。そして、モーゼの神は、この民族の始祖であるアブラハムの神に連なる。この神は、エルサレムの王であり祭司であったメルキセデク(正義の王)によって、パンと葡萄酒でアブラハムを祝福した「天地の造り主であり、いと高き神」にまでさかのぼることができる。(創世記15章)そして、このエルサレムが、まさに連綿として現代のパレスチナ問題にいたるまで、中心に存在している。さらに、この神は、新約聖書においては「イエスの精神」として自覚されることになる。

 

モーゼの神は唯一絶対の神であり、当時のカナンの地において崇拝されていた多くの異教の神々と並列されるべきものではなかった。モーゼは、金で作った子牛やアシュラ像などの神々の彫像を偶像として崇拝することを禁じた。主なる神は、感覚によっては捉えることができず、もっとも抽象的な「火」にたとえられる。そして、モーゼはホレブ山で、「燃え上がる柴の中に」主の声を聴いた。そして、モーゼは、「私はある」と永遠に呼ばれる方として、神をイスラエルの人々に知らせるよう告げられる。(出エジプト記第三章)

ここで明らかであるのは、神はもっとも抽象的な実在の観念であるということである。したがって、神は、抽象的能力をもつ、すなわち、言語をもつ人間にのみ認識されることを示している。この神は、さらに新約聖書において、イエスによって、「天におられる父」として教えられ、「隠れたところで見ておられる」目に見えない存在として教えられている。私たちが聖書の記述から学ぶことができるのは、こうした神についての表象や概念である。

また新約聖書においては、神は、「イエスの精神」として、「聖霊」として認識される。したがって、旧約と新約では、神についての観念もしくは概念には雲泥の差がある。イエスにとっては、「主」は「父」でもある。単に恐ろしく畏怖すべき存在ではなく、放蕩息子をいとおしむ慈愛に満ちた「父」として認められている。また、この父は「隠れたことを見て報い」「空の鳥や野の花を養い育てる」創造主である。イエスは、感覚では捉えることのできない神をさまざまな比喩によって説明した。放蕩息子を思いやる父として、求める者によいものを下さる父として、「悪人にも善人に陽光と雨を与える」神として(マタイ五章)、父なる神の姿を示した。時には、「ぶどう園の主人」として(マタイ21章)、「婚宴を主催する王」(同22章)として、さまざまな比喩を用いて、神の表象を明らかにした。

イエスもまた、天の父は一人だけであるとして、モーゼの一神教を受け継いでいる。さらに新約聖書では、イエス自身が、神から使わされた方として、天の父と並ぶ存在とされる。だから、新約聖書の目で詩篇を読むときには、主はまたイエスであり、聖霊でもある。

詩人は言う。全ての善いものは神から来る。主に忠実な人々がどれほどすばらしいか。主に忠実な人々と共にあることは大きな喜びである。主は夜毎に私を導き、私の良心に警告する。詩人は、つねに主の実在を意識している。そして、主は詩人の持てる財産の全てである。家でもなければ土地でもない。父なる神、イエス、聖霊が、詩人の保有する全てであるという。主は私の必要とするものを全て与え、私の運命を支える。主は美しい土地を贈り物として与えられる。詩人は、主をつねに前に置き、主は右に存在して詩人を支える。それゆえ、何者も決して詩人を揺らがせない。詩人の心は喜び踊り、そして、身体は平安である。それは、主が決して詩人を見捨てることがなく、主に忠実である者に決して墓穴を見させないからである。主は命にいたる道を教え、主と共にあって永遠の喜びと満足がある。

 人間の生涯は、よく旅にたとえられる。順境の時も逆境の時も、こもごもに訪れる。この詩篇は順風満帆の時に、その幸運を感謝するときの祈りとして歌われる。

 

 

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