日本共産党の赤い貴族問題

■幹部セレブ生活と保証された優雅な富裕老後生活
【1989年綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件と日本共産党の赤い糸】

元日本共産党幹部=湊靖人&湊ます子自宅2階で湊伸治らが女子高生を肉潰しリンチ虐殺害

2010年10月05日 22時47分21秒 | 日記
↑県立八潮南高校3年吉田順子(当時17歳)↑
 
↓足立区綾瀬女子高生誘拐監禁集団リンチ虐殺コンクリート詰め死体遺棄事件↓
http://blog.goo.ne.jp/xdr123/e/e62e97226587239549f9ab34a419d3e3

リンチ虐殺現場=元日本共産党幹部=湊夫婦自宅2階
湊靖人(69歳)&湊ます子(68歳)=2010年現在年齢
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事件番号=平成2う1058
遺体発見=1989年H1年3月29日

犯人顔の画像=google画像にある。
A横山裕史(40)=(旧宮野裕史)
B神作譲(39)=(旧小倉譲)
C湊伸治(38)
D渡邊泰史(39)
2010年12月末.現在の年齢
 
①宮野 裕史(A)みやのひろふみ
(1970.04.30)
主犯格。懲役20年の刑で服役し。
■2008年平成20年=主犯格A(宮野裕史)出所。
=関西地方の保護司と養子縁組済み=横山裕史
横山 裕史(旧姓は宮野)=S45年4月30日生=主犯
養子縁組で改姓、160cm、H19年5月川口市で解体業。
 
中学時代は軽量級の柔道の選手として活躍。身長160cmと小柄だがガッシリとした体格。付属男子高校中退。見習いタイル工として働き始めるが暴力団員と知り合い、パシリとなる

・父親(当時47歳)…証券マンを経て証券外務員に。  
・母親(当時47歳)…私大音楽学部卒業後、ピアノ教室の講師に。  
・妹…事件当時11歳 

事件後、両親ともに辞職。
妹の家庭教師の日記がHPで公開されていた。
当時から父は愛人宅にいて、家庭は崩壊していおり、夫婦仲に問題があった。小学校の
頃には既に問題行動があった。話し上手で面白いという評判もある。小5でパンチパー
マ。ヌンチャク・木刀を持ち小学校に「殴り込み」をしたことがある。「悪いことはか
っこいい」と思っていたが、小学6年生の時に出来た勉強好きの親友に影響され真面目にな
る。卒業文集には「少年院の院長になりたい。オレ、悪いことをいっぱいした。万引き、
ケンカ、たいがいのことはやった。だから、悪いことをやった奴の気持ちがわかる。オ
レなら非行少年と呼ばれてる連中を立ち直らせてやれる。オレに向いてるのはそういう
仕事だと思う」

中学入学と同時に周囲の人のすすめで、柔道部に入部。体型は小柄(160cm)だったが、
練習熱心で3年の時に都大会で2位になり、東海大付属高へ推薦入学。高校の柔道部の先
輩・顧問に体罰を受ける。その内容はAの父親が裁判所に訴えたほど酷く、殺虫剤にライ
ターをかざしあぶるなど度を越したものだった。 憂さ晴らしに街で手当たり次第に喧嘩
を売るようになり、家でも物を壊し、母親に肋骨を折る重傷を負わせたこともある。

高校を中退、中学の頃から付き合っていた同級生(D渡邊泰史の姉)と同棲。
18になったら結婚しようと1年半、タイル工として真面目に働くが、自動車学校の合宿場で知り合った暴力団員と知り合い銀座の生花商でアルバイト。やめられる雰囲気でなく、現実逃避するためにシンナーを始める。シンナーを吸っている時にしか楽しいと感じない生活。
暴力団の組織「極青会」を作る。
 
②小倉 譲(B)おぐらじょう
(神作と改姓して神作譲)かみさくじょう
(1971.05.11)
サブリーダー。すでに刑務所から出所。 
主犯格の1年後輩。180cmを越す長身。検事や弁護士の質問に太い声でハッキリ答える。  

・父親(当時42歳)…運送会社の配達員。長身。愛人との間に2人の子供がいるが、母親との籍はなぜかそのまま。 
・母親=小倉 悦子(当時43歳)…都内デパート勤務を経て、結婚後は得意だった洋裁で内職。父親が女に走り別居。その後水商売にて一家の大黒柱に。 
・姉(当時20歳)…私立高校卒業後、都内会社員。

小倉という姓でしたが、女子高生殺害事件のあと、
埼玉県の篤志家(トクシカ=慈善活動する人)、神作某氏の戸籍上の養子になりました。
神作某氏は少年犯罪者の更生に力を入れている人で、Bを戸籍上の養子にする事によって姓を変えさせ、社会復帰しやすくなるよう配慮をした人です。そういう篤志家の誠意をも踏みにじったのです。

2004年6月神作譲の名前で再犯し逮捕された(事件記事=週刊アサヒ芸能2004.7.22号)。
この男はこの事件に関して無反省な発言を繰り返し、類似の事件を引き起こした
■2005年平成17年5月13日
神作譲は控訴を取り下げ、懲役4年確定。

③湊 伸治(C)みなとしんじ
(1972.12.16)
犯行現場の部屋の提供者。すでに刑務所から出所。 
JR常磐線綾瀬駅から北へ15分ほど歩いた住宅街。玄関と二階ベランダが南欧風、3DKの建て売り住宅。約百平方メートルの敷地いっぱいに建っていて、両隣の家とは人がやっと入れるほどの狭さ。近くに小さな公園有り。事件の13年前、一家は同じ足立区内から引っ越してきた。  
「足立の学習院」と言われたエリート中学卒。その後、都内では唯一の化学専門工業学校に進学。  

・父親=湊靖人(当時48歳)…東京湾近く、隅田川沿いに近い町工場が密集した一角にある診療所にて事務長。入院設備は無いが七つの診療科目を備えた大きな診療所。仕事と酒で子育てはすべて母親任せ。  
・母親=湊ます子(当時47歳)…父親と同じ診療所にて看護婦主任を勤める。事件後、23年間勤めた診療所を辞職。

●この両親が共産党員であったため、
警察はマスコミを恐れてなかなか家に踏み込めなかった。
仕事一筋の父親はきびしい体罰をふるった。少年が決められた家事の分担をしないこと
などを母親から相談されると、少年をたたき起こして叱った。泣いて逃げる少年を追い
かけて殴ったり、深夜外へ引きずり出して、公園を走らせたこともある。

父親は、毎晩酒を飲んで帰宅した。少年とその兄(18)は「週に1回はなぐられていた。
ぞっとするほど怖かった」と、弁護士に証言。父親は、「月に1度いや、年に数回しか
なぐった覚えはない」と述べている。父親が体罰をしなくなったころ、C少年の家庭内暴
力がはじまった。

通っていた公立中学校は進学名門校だったが、ここでも教師の体罰が横行していた。生
徒は毎日のようになぐられた。C少年も、バスケット部顧問の女性教師になぐられ退部。
中学でAの2年後輩。工業高校に入るが2学期には中退。
この事件が発覚した際、別件で既に栃木の少年院に送られていた。東京に呼び戻し逮捕。

・湊Cの兄=湊 恒治(当時17歳)…小倉譲(サブリーダー)と中学の同級生。
ほとんど一部始終を目撃し、時には食事を運んでいたにも関わらず事件発覚まで沈黙を守る。

湊の両親は2人とも共産党幹部。
警察が逮捕状を持っていった段階で 速攻で弁護士を用意し、
家宅捜索も弁護士立ち会いの元で行われた。

党は、事件後すぐの段階で湊の両親を除名し、
「共産党とは一切関係がありません」と発表。
そして、「監禁という認識がなかった」「少女は帰る気がなかった」
等の湊の母親の自己弁護的記事を赤旗によって
1989年5月20日~27日まで連載コラムで積極的にバックアップをした。
湊靖人&湊ます子への援護記事文。

➽共産党・橋本敦議員(参議院)の発言
さまざまな少年事件は、社会全体の構造の歪みや 受験戦争などの教育の歪みといった背景の中で おきてくるものです。
被害者による報復主義には反対ですし、20歳未満の少年は まだまだ未熟ですから、教育し、更生させていく必要が あるんです。(インタビューより)

④渡邊 泰史(D)わたなべやすふみ=監視役
(1971.12.18)
刑事裁判で、実刑判決を受けた少年が収容されている川越少年刑務所(埼玉 川越市)。
ここに、彼女の監視役だったD(渡邊)が服役する。
D(渡邊)は11月の強姦に加わり、
最後の暴行では彼女を鉄球で、何度も殴るなどしている。

1996年11月=D(渡邊)が仮出獄
少年院でいじめに合い、現在引きこもり症候群。 

4人の少年達の中では一番痩せていて、声が小さく、右後頭部、中学教師の体罰を受け出来た10円玉程の白髪が、公判時にはこぶし大にまで広がっていた。定時制の工業高校へ進むが1週間で行かなくなる。ファミコンが好き。  

・父親:幼少時(5歳)に離婚。その後まもなく交通事故で死亡。  
・母親(当時44歳):元美容師。離婚後、生活保護を受けながら時計部品の工場でパート勤務。 
・姉(当時18歳):母親との面会拒否の為、姉が面会・差し入れを続けていた。 
姉⇒宮野裕史(A)と付き合っていた=同棲。

仮出獄後:
小さなアパートでの二人暮らし。D(渡邊)はふすまに鍵をかけ、6畳の部屋に閉じこもっているという。母親は3畳の台所で寝起きをし、親子の会話はほとんどない。55歳になる母親は、事件後、仕事を3回変わった。親戚や近所とも、ほとんど付き合いはなく、人目を避けるように暮らしている。
渡邊 泰史=S46年12月18日生
横須賀市金沢区六浦東OO住宅に母ヤスと2人暮らし

⑤中村 高次(E)なかむらこうじ
A宮野、B小倉、C湊からささいなことでリンチにあう。
現在は地元スナックでこの事件のことを面白おかしく語る無反省人間。

⑥伊原真一(F)いはらしんいち
家庭裁判所での審判の結果、伊原 は半年間の少年院送致になった。
北アルプスの麓、長野県穂高町に初等中等少年院 有明高原寮はある。
ここは、短期間で更生が可能とされる少年を収容している。
鉄格子や鍵はなく、全国でも唯一の完全な開放施設だ。
伊原は、ここで半年間を過ごすことになる。
1989年5月=入院
1989年秋=仮退院
現在は建築会社で働く

1994年に結婚 事件のことをすべて話したという
伊原= 最初はやっぱりビックリして(今の嫁が)、何日か会わない日が続いたんですけど……彼女も悩んだところがあったんでしょうけど……今の自分を見ててくれる部分もあって……。
そして、子供(娘)が生まれた
新聞配達員を経て、某建築会社で社員として働いている

⑦湊Cの兄=湊 恒治(兄、1972年S47年1月21日生)=(G)
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■日本共産党=橋本敦、と言う人物■
生年月日=1928年8月23日(現在82歳)
出生地=大阪府
出身校=京都大学
現職=弁護士
所属政党=日本共産党
称号=日本共産党永年党員=これで、党からの年金生活の保証で安泰。
選挙区=大阪府選挙区
当選回数=4回
任期=1974年7月8日~1998年7月25日

●1928年大阪に生まれた。
●1951年京都大学法学部を卒業。
●1957年より弁護士を開業する。
●1974年、大阪市長選挙に落選後、
●日本共産党のすすめにより参議院大阪選挙区で立候補、初当選。以後当選4回。

●ロッキード事件の調査のために訪米し、
共産党国会議員団の代表(橋本敦)として疑獄事件追及に尽力する。

●1987年、大韓航空機爆破事件を受けて北朝鮮の拉致に疑惑を感じ、橋本敦は調査を始める。
●1988年(昭和63年)3月26日、参議院予算委員会において日本人拉致問題に関する質問をして国家公安委員長梶山静六から北朝鮮による関与が濃厚とする政府答弁を初めて橋本敦は引き出す。

しかし、
①失踪問題を国会で初めて取り上げたのは、
1980年、公明党の”和泉照雄”。
②北朝鮮拉致問題を国会で初めて取り上げたのは、
1988年1月の民社党中央執行委員長”塚本三郎”

●2002年、橋本敦のかつての秘書兵本達吉から、
「拉致事件の解明を妨害してきた張本人」だと非難されるが橋本はこれに反論した。
参議院議員の任期満了に伴い、議員生活を終える。
現在は大阪府在住で、北大阪総合法律事務所にて弁護士活動をしている。

<橋本敦と兵本達吉との争い>、
■兵本の告発の主な内容とそれに対する橋本の反論■
①兵本は、「私を除名したのは拉致問題解明の妨害」だと主張している。
②これにたいして橋本は、「98年3月の時点で兵本は定年だった。兵本をやめさせたいのであればそこでやめさせればよかっただけの話だ。しかし私は定年延長の手続きをしている。
除名の原因は5月に兵本が、
警視庁警備公安警察官に自分の採用を事実上依頼する対応をしたことである。」
と反論している。
③兵本は、「私が拉致の解明のために出張をしようとすると橋本にとめられた事があった」
と主張している。
④これに対して橋本は、「その件は党議員団が行うべき調査活動というようなものではなかったので止めただけで、拉致解明を妨害する意図などない」と反論している。
⑤兵本は、「橋本の質問内容はほとんど私が書いたもので、橋本はそれを読み上げただけ」と主張している。
⑥これに対して橋本は、「拉致問題を取り上げようと言ったのは自分であるし、原稿も秘書の資料を踏まえて私が書いたもの」と反論している。

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女子高生コンクリート詰め殺人事件の神作譲(当時小倉譲17歳)が凶暴事件で逮捕された

👇《週刊アサヒ芸能 2004.7.22号》原文のママ👇
”女子高生コンクリ詰め殺人犯、再逮捕直前の「野獣捨てゼリフ」”

逮捕監禁致傷容疑で、6月4日に警視庁竹の塚署に逮捕されたのは、自称・コンピュータ会社アルバイトの神作譲被告(33)。

実は、神作被告は15年前、少年犯罪史上に残る「綾瀬・女子高生コンクリート詰め殺人事件」のサブリーダー役として、世間を震撼させた人物である。犯行当時17歳だった神作被告はその後、懲役5年以上10年以下の不定期刑が確定した。
ところが、刑期を終えた神作被告は、更正どころか、さらに凶暴性を増して地元に舞い戻ってきていたのだ。

今回の事件は、5月19日の深夜2時ごろに発生した。

東京・足立区に住む被害者のAさんが語る。
「もともとヤツ(神作)は、私が働いている職場のお客さんの紹介で知り合ったんです。確か、去年の暮れごろでした。190センチ近くある長身で、派手な金髪に派手なジャージ。その筋の人という雰囲気があった。実際、ヤツは『オレはヤクザだ』と自慢げに話していたし、あまりかかわりあいたくないと思っていました」

しかし、神作被告は、Aさんと同僚のBさんを紹介されるやいなや、すぐに2人の携帯電話の番号を聞き出したという。
2人が、神作被告の“正体”を知ったのは、今年4月上旬のことだった。そのとき神作被告は、AさんとBさんが一緒に暮らす社宅の前で深夜、待ち伏せをしていた。

Bさんが振り返る。
「ヤツは部屋に上がると、帰るまでずっと『自分がいかに怖いヤツか』という自慢話を繰り返した。最初に『オレは10年間、(刑務所に)入っていたんだ』と切り出すと、一気にまくしたてた。そして、『10何年前にこの近くで起きた大きい事件って覚えているだろ。それの犯人はオレなんだ』と、具体的な事件名こそあげないものの、あのコンクリート詰め殺人事件をにおわせていた。そして、事あるごとに『わかるだろ』とこちらに同意を求めるんです」

ちなみに「コンクリート詰め殺人」の発端となる事件が発生したのは、88年11月25日のこと。少年グループがバイト帰りの女子高生を拉致し、メンバーの少年の自宅2階に監禁。複数の少年がかわるがわる陵辱と暴力の限りを尽くし、約1ヵ月半後に女子高生を死に追いやり、死体をコンクリート詰めにして捨て去った―――。

このおぞましい事件の“真相”を神作被告は、
時折笑顔を浮かべながら語っていたというのだ。

Aさんが振り返る。
「アイツは、事件のことを得意げに話していました。『女が死んでいるのを確かめたのはオレなんだ。タバコに火をつけて女の口に近づけても、タバコの煙がまっすぐ上っていった。それで死んだのを確認した』とか、『あのときに後輩を呼んだのはオレなんだ。だから本当はオレが主犯なんだ』とまで言っていました。」

神作被告は、事細かに暴行現場の模様を話した。タバコを被害者の体に押しつけたり、髪の毛を切ったりといった、15年前の事件の記憶を鮮明に覚えている様子だったというのだ。そして、一とおり事件について話したかと思うと、「あんときは楽しかった」と、懐かしそうに振り返ったという。

Aさんの話。
「ヤツは、『オレは刑務所で悟ったんだ。警察や検察にしても、マスメディアも、ダマすのは簡単だ』とうそぶいていた。そして『マスメディアは自分の味方だ。警察や検察に対しても、自分を作り上げて相手を同情させれば、すぐに(刑務所から)出てこられる。精神病の振りをすればすぐに出られる』と言って、まったく反省した様子はなかった」

そして事件前日の5月18日、Aさんの携帯電話に、神作被告から怒りの電話がかかってきたという。
「内容はよくわからないんですが、すごい剣幕で『仕事終わったら電話しろ』とどなっていた。そして、仕事が終わって深夜に帰宅すると、家の前に神作のセルシオが・・・・。おそるおそる近づくと、いきなり運転席から出てきて『女、取っただろ』と因縁をつけ、何十発も殴りつけてきたんです」(前出・Aさん)

事情のわからないAさんは、不意のパンチになすすべもなかった。一緒にいたBさんも茫然とするだけだったという。

Bさんが話す。
「すぐにAの顔は血だらけになった。神作は『オレの情報筋から入っているんだよ』と叫びながら殴り続けた。そしてヤツはトランクから金属バットを出して威嚇すると、そのままAを車のトランクに押し込んで、あっという間に逃げてしまったんです」

一方のAさんは、生命の危険まで感じたという。
「前の事件の話も聞いていたので、殺されると思った。あるスナックの前で降ろされて中に監禁されてからも数十発殴られ、もうひたすら謝るしかなかった。服はもう血だらけ。神作は『綾瀬の事件では1人殺しているんだ。1人殺しても2人殺しても同じだ』と言って、路上でよりも激しく殴ってくるんです」

このスナックは、神作被告の母親が経営している店だった。
そして朝7時ごろになってようやくAさんは解放された。しかし、Bさんに迎えに来てもらい帰路についたAさんに、神作被告から次のような脅迫電話がかかってきた。「今回はこんなもんで済んだけど、今度はもっとエスカレートするからな」

すぐに、Aさんは最寄りの竹の塚署に駆け込んだという。
まさに野獣としか言いようがない言動ばかりだが、神作被告の暮らしぶりはどんなものだったのか。

「神作被告は服役中に両親が離婚したこともあり、姓を変更していた。そのため、周囲でも大事件の当事者としてあまり知られていなかった。約5年前に出所後、アルバイトをしながら母親と住み、埼玉県八潮市にある自宅1階の焼き肉店を手伝っていたようです」(社会部記者)

近所の住人が言う。
「地元では、あまり15年前の事件のことを知っている人もおらず、お店もまあまあ、はやっていた。男の子(神作被告)は派手な感じだったけど、礼儀正しかった」

ところが、母親が経営するスナックが繁盛し、人手が足りなくなった焼き肉店は数年前に閉店。神作被告はその後、職を転々とした。

捜査関係者が語る。
「神作被告はある広域組織に出入りするようになり、繁華街にワゴン車で乗りつけて、花やフルーツを販売する仕事をしていたようだ。また、15年前の事件についても、酒の席でたびたび周囲に話したりしていた」

事件直後には、被害者の女子高生の冥福を祈り、連日写経をしていたとも伝えられた神作被告。しかし、出所後の彼の行動からは、反省する様子はまったくうかがえない。

当時、コンクリート詰め殺人事件を取材したジャーナリストがこう証言する。
「逮捕された4人の少年のうち、主犯を除いた3人がすでに出所しましたが、神作被告以外は行方がわからない状況。ただ、監禁場所を提供した少年は、すでに地方で家庭を築いているという話はある。また、別の少年は少年院のイジメが原因で引きこもりになり、彼らの消息を追った報道番組に出演後は、行方不明になっている。主犯格の少年は逮捕当初こそ、被害者女性の霊におびえたりしていたそうですが、今では刑務所内でも、一目置かれる存在になっているとか。少年の更正という点では、はなはだ疑問が残る状況です」

さらに地元関係者からは、こんな話も伝わってくる。
「当時、取り調べを受けたものの、逮捕されなかった少年が何人もいる。その中には、いまだに地元で当時の事件を自慢げに話したり、『実はビデオまで撮影していた』などとうそぶくヤツまでいる。これでは、惨殺された女子高生も報われません」

今回、暴行被害にあったAさんも怒りを隠さない。
「正直言って、神作には当時の事件に関して、まったく反省の様子が見えなかった。重大な犯罪を起こした少年が更正するなんて大ウソですよ。今度こそ、できるだけ長く社会に戻ってきてほしくない」

しかし、逮捕監禁致傷の罪では、最高でも懲役10年。“野獣”が再び放たれるのは、予想以上に早いのだ。

👆《週刊アサヒ芸能 2004.7.22号》👆
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大須田勉
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