朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。 
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 12章

2017年04月29日 | 民数記
民数記12:2 主はこれを聞かれた。

先には民の中から不平不満が炎のように燃え上がりましたが、今度は最も身近なところからです。姉のミリアムと兄アロンはモーセを非難したのです。「モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した」とあります(12:1)

モーセにはチッポラという異邦人の妻がいましたが、それが「クシの女」なのか、あるいはチッポラとは死別し、クシ人の女性をめとったのか定かではありません。いずれにせよ異邦人の女性がモーセの妻であることを、姉のミリアムは快く思っていなかったのではないかと思われます。

しかし、表面的にはモーセの妻のことを非難しているようですが、それは口実であって、その背後には「なぜモーセだけが神の御言を語るのか」という「ねたみ」が隠されていました。

「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」と、その本心が現れてきました(12:2)

このように、批判や非難には何か別なものが隠されていることがあります。表面的にはまっとうな批判のように見えて、実はその奥に潜んでいるのは「ねたみ」とか「やっかみ」であるかも知れません。

ですから、批判や非難に対して謙遜を失って感情的に対応してしまうと重要なことを見落としてしまいます

この場合、モーセは敵対しませんでした。感情的に対応しませんでした。それは、彼が「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」からでした(12:3)。 ※新改訳では「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」と翻訳。

謙遜とは何でしょう。黙って反論せずぺこぺこして非難が止むのを待つ姿ではありません。すべてが神のご支配の中にあることを認め、主を畏れることこそ本当の謙遜です

ミリアムとアロンはモーセを非難しているようですが、聖書は「主はこれを聞かれた」と記しています。モーセも聞きましたが、もっと重要なことは〝主が〟聞かれたのです。

主が聞かれており、主が対処なさることを知って、私たちは謙遜でなければなりません。

話しは変わりますが、モーセは自分だけが預言者であるとは考えていませんでした。先の70人の長老たちにも聖霊が臨み、彼らが預言を語ったという話のくだりで、すべての民が聖霊によって預言できればよいのにと願っています(11:29)

大切なことは、主からゆだねられた賜物に忠実であることです。預言をする者であれば信仰の程度に応じて預言をし、奉仕をするものは奉仕をし、教える者は教え、寄附をする者は惜しみなく施すのです(ローマ12:6~)

このような秩序と謙遜が求められます。互いの働きを認め尊敬し、仕え合うことこそ、旧約の民であれ新約の教会であれ大切なことです。

さて、神の特別な介入によって、ミリアムは一瞬にしてらい病(ツァラト)になってしまいました。なぜ、ミリアムだけだったのか。アロンは問われなかったのか。この問題はミリアムが主導してアロンを巻き込んだためであろうと思われます。

このような事態に至っても、モーセは敵対したミリアムのために執り成して祈りました。ざまぁ見ろと思いますか。卑しい心にはそんな思いが浮かんできますが、モーセにならって柔和で執り成す者であろう。(Ω)
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