朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。 
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 28章

2017年05月18日 | 民数記
民数記28:2 すなわち、わたしの供え物、わたしの食物を定めの時にわたしにささげることを怠ってはならない。

神へのささげ物の規定や例祭などの規定は、既にレビ記でも詳しく記されていますが、約束の地に入る前に再確認するかのように、民数記でも取り上げられています。

大切なことは何度も確認します。教会で語られる内容は、おしなべて言うならいつも同じです。イエス・キリストが救い主であることです。でも、それが最も大切なことです。そして、くり返し語られるべきことです。

さて、冒頭の聖句は興味深い記録です。神への供え物のことを、神は「わたしの食物」とおっしゃっています。神はお腹がすかれる方でしょうか。人間のささげる供物で空腹を満たすお方でしょうか。これは擬人的表現として受け止めるべきです。

レビ記で学んだ事ですが、火で焼いてささげるその香りを嗅いで神は満足なさると言われました。まるで、食事の前に「う~ん、良い香りだ」と満足なさり、それを召し上がって満腹される……。そんなイメージです。もちろん実際に食されるわけではありません。

神へのささげ物は神を喜ばせ、その喜びをもって私たちも聖なる喜びにあずかりますこれが礼拝の祝福です。実は、私たちの献身としての礼拝は芳しい香りを放つのです。その献身の香りを神は喜ばれるのです。

イエス様が十字架に死なれる前、マリヤは300デナリもする高価なナルドの香油をイエスに注ぎました。マリヤのできる限りの精一杯の献げ物です。もちろん香油ですから良い香りがしたことでしょう。しかし、それ以上に霊的な麗しい香りが放たれたに違いありません。

周囲の人々は「なんという無駄なことをするのか」と彼女を叱責しましたが、このような大胆な献げ物と献身は、神への芳しい香りとなって周囲を潤し、天にまでとどく香りであったことでしょう。

旧約の時代の「全焼のいけにえ」は、火によって完全に焼きつくしてしまう献げ物です。だからこそ芳しい香りが献げられました。それと同じように、私たちの肉なる思いも聖霊の火によって焼き尽くすことで、芳しい香りを主に献げるのです。

マリヤを揶揄した弟子たちの「無駄ではないか」とか「惜しい」といった肉なる思いも焼いてしまいます。自己中心とか自己正義といった肉なる生き方も焼き尽くします。何と麗しい香りでしょうか。このような捧げものを神は食して満足なさるのです

霊と真理をもってささげる礼拝とは、そんなすばらしい香りを天にとづけるのです。それは、神がおっしゃるには「わたしの食物」なのです。(Ω)

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