朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの黙示録 20章

2017年06月20日 | ヨハネ黙示録
黙示録20:6 第一の復活にあずかる者は幸いな者であり、また聖なる者である。

すでに第16章で、地の王たちとその軍勢が、ハルマゲドンという所に召集されることを見ました(16:16)。彼らは獣(反キリスト)によって組織され、神と戦うために召集さた者たちです(16:14)

この場合、「神と戦う」とは、神の民であるイスラエル民族を滅ぼそうとする戦いです。獣にしてみれば、まことの神を礼拝するイスラエルは目障りで仕方がないのです。しかし、その大いなる戦いのために、キリストは天の軍勢を従えて天からくだって来られます(19:11-16)

2千年前に来られたイエス様は「しもべなるキリスト」として来られましたが、再臨の時に来られるイエス様は「王なるキリスト」として来られます。

しもべなるキリスト」は、人類の罪を取り除くために来られました。彼は十字架で私たちの罪のために死ぬために来られました。しかし、再臨のキリストは違います。王であり、さばき主として来られます。すべての悪を滅ぼしに来られます。罪をおかしたサタンと、それに付き従った者たちを滅ぼすために来られます。

聖書によると、この最後の戦いによって獣の軍勢は壊滅され、獣(反キリスト)ともうひとりの獣(にせ預言者)は、硫黄の燃えている火の池……すなわち地獄に投げ込まれます(19:19-20)

ここまでが19章までの預言です。

その後、悪魔(サタン)は底知れぬ所に投げ込まれ、千年の期間、閉じ込められます(20:1-3)。このことによって、キリストを王とした神の御国が千年の間、地上に実現します(20:6)

これを「千年王国」とか「メシヤ王国」と呼びます。

この「千年王国」については旧約聖書が多くの紙面を割いて預言しているので、黙示録では千年王国について詳細な記録は省略されています。

省略されていても、この千年王国の期間に、旧約で預言された「来るべきメシヤ(キリスト)が治める王国」についての数々の約束が実現するのでしょう。

さて、その千年王国が実現するに先だって、聖徒たちが復活します(20:4)。彼らは、患難期の中で獣を礼拝しなかった者たちであり、そのために殉教した人々です。

また、「多くの座にすわっている人々(20:4)とは、教会時代のクリスチャンたちだと考えられます。彼らは患難期を前に携挙(けいきょ)というかたちで復活します。そもそもこの復活の初穂はイエス様でした。その他にも患難期にふたりの証人が反キリストによって処刑されますが、彼らも復活しました。

これら一連の復活をまとめて「第一の復活」と呼びます。復活する時間差がありますが、いずれも救いを完成するための復活であり、総じて「第一の復活」と呼んで良いでしょう。

それ以外の死人は千年王国の後に復活します(20:5)。それはあえて言えば「第二の復活」です。この場合は、大きな白い御座でさばきを受けるために復活します。

第一の復活にあずからなかったすべての人が復活しますが、それは第一の復活とは質が違います。永遠の滅びの宣告を受けた者は、復活した体で、火の池に投げ込まれます。苦しみを感じる体に復活して地獄に入るのですから、これは恐ろしいことです。

大きな白い御座のさばきでは、「いのちの書」と呼ばれる書物や「数々の書物」が開かれて、その記録に従ってさばかれます。これらの書物には、人々の生き様が詳細に記録されているのでしょう。神はすべてをご存知なのです。ですから、このさばきでは十把一絡げに同罪ではなく、さばきの内容にそれぞれ軽重があり、それぞれが納得するさばきとなるのだろうと思われます(20:15)

ところで、第一の復活についても幾つかの解釈があります。クリスチャンといえども、第一の復活にあずかる者は信仰の勝利者であって、中途半端な信仰者は第二の復活の段階で救いに入る……という解釈もあります。

また、イエスを信じている者はみな第一の復活にあずかる……という解釈もあります。その場合、悪しき信仰生活を過ごした者は「キリストのさばきの座」において罰を受け、千年王国の祝福にあずかれません。神の国に入ることができても、祝宴に与れないという意味です。

クリスチャンでも、悪しき者は神の国を受け継ぐことがない」とは、このことを示しているのかも知れません。つまり、神の国に「入る」のですが、「受け継ぐ」ことはできないのです。

キリストと共に労苦する者は、キリストの花嫁として、キリストと共に神の国を「相続する」のです。聖書はこう記しています。「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである(ローマ8:17)

いずれにせよ、幸いで聖なる者と呼ばれるこの第一の復活を私たちは目指しています。「賞を得るために節制して走る」とパウロが語ったのは、このことです。霊的生活が祝福されますように祈ります。(Ω)
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