朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。 
聖書を一日一章、読んでみませんか。

創世記 17章

2016年10月11日 | 創世記
創世記17:1 アブラムの99歳の時、主はアブラムに現れて言われた。

アブラムがカランを出発したとき75歳でした(12:4)。主は約束の地カナンの土地所有と子孫の繁栄などを約束されました。しかし、あとを継ぐ子もなく、具体的には何も進展していないように見えました。

神の約束の実現には「神の時」があります。そのタイミングは私たちの期待と異なる場合がほとんどです。

アブラムとサライは神の時を待ちきれずに、女奴隷ハガルによって子を得ましたが、それは神の御心ではなく、神の方法ではありませんでした。アブラム86歳の時です(16:16)

こうして失意の内に13年が経過し、アブラムの99歳の時、主は現れて「来年、アブラハムとサラとの間に子が生まれる」と約束されました。ついに「神の時」がやってきました。

ここにいたるまで、アブラムは人間的な可能性を使い果たしました。子を生むことに関してはまったく無力になっていました。このように神の時は、多くの場合、私たちが無力になった時です。

それは「自分がそれをしたのだ」と高慢にならないためです。「わたしの力はあなたの弱いところに完全に現れるのだ」(Ⅱコリント12:9)と主は言われます。ですから、アブラムのように「失意の13年」があるかも知れません。しかし、それは神の御業が完全に現れるために通過すべき道です。

私が救われたのは、自分に何か良きものがあったからですか。人間的な功績が認められたからですか。誇るものもなく、罪人で、無力で、無きに等しい者であった時、主は救ってくださったではありませんか。

さて、神はアブハラム(この契約から、「アブラム」ではなく「アブラハム」と呼ばれる)に対して割礼をほどこすよう命じられました。男性の包皮を切り取る儀式です。

このことは、後の新約においては心の割礼を意味しています。つまり、かたくなな心が砕かれ、切り裂かれることを意味しています。自分中心という頑固が砕かれること……それが心の割礼です。神に反発する自我が砕かれること……それが心の割礼です。

アブラハムは割礼を受けて、「神の時」が実現しました。つまり、約束の子イサクを得ました。そのように、私たちも約束の結果を受け取るには「心の割礼」を経なければなりません。

「失意の13年」に意味があります。心の割礼に至るための、神の慈愛に満ちた取り扱いだからです。あなたは心に割礼を受けたでしょうか。神に対するかたくなな心は打ち砕かれたでしょうか。(Ω)





 
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