朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。 
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの黙示録 18章

2017年06月17日 | ヨハネ黙示録
黙示録18:4 わたしの民よ。彼女(大淫婦バビロン)から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれなうようにせよ。

先の17章では、大淫婦と呼ばれる「女」について見ました。それは、霊的姦淫をおかしつづけてきた偽りの宗教団体のことでした。 
※終わりの時代には、堕落した教会をはじめ諸宗教をひとつにした宗教団体が誕生するのではないかと思われる。彼らは大きな発言力があり、政府(地上の権力)と結びついて「獣」の活動を支援するだろう。

聖書はこの「女」のことを都の名で表現しています。その都の名は「バビロン」です。都とは王が住む場所です。バビロンとはまさに悪魔が住むところ、悪の巣窟(そうくつ)にふさわしい呼び名です(18:2)

ここで整理しておきましょう。キリストの花嫁である教会も「女」です。花嫁である教会は、ひとりの夫に貞操をつくす乙女のように、イエス・キリストだけを愛し、イエス・キリストだけを礼拝する人々のことです

かたや、大淫婦と呼ばれる「女」は、偶像礼拝によって堕落した教会です。夫であるイエス・キリスト以外の男との関係をくり返す霊的姦淫の女として描かれています。

彼女は自分のことを、「私は女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない」と言っています(8:7)。女王というのですから、どのような王の妻なのでしょうか。

その王とは、この世の王です。彼女は地の王たちと結ばれています。そして、その背後にあるのは獣であり悪魔(サタン)です。聖書は、悪魔のことをこの世の君(王)、闇の世の主権者だと呼んでいます

彼女は世俗の王たちと結びつき、世俗の利権を手にして、物質的には肥え太っているが、霊的にはやせ細っています。

さて、大淫婦が「バビロン」という都の名で呼ばれているように、キリストの花嫁である教会も都の名で呼ばれています。その都の名は「エルサレム」です。

黙示録の21章では、キリストの花嫁のことを聖なる都エルサレム」として描いています。都とは王が住む街です。神の御国の王であるキリストが住まわれるにふさわしい都、それはエルサレムです。

私たちの王であり、花婿であるイエス・キリストは、花嫁である私たちのただ中に来て住まわれるのです。私たちを都のようにして、私たちのただ中にあって神の御国を治められるのです。

ですから、キリスト教会は「花嫁」のようでもあり、王の住まう「聖なる都エルサレム」のようでもあります。何という光栄、何という喜びでしょうか。そのことを聖書はこう預言しています。

主は言われる、シオン(エルサレム)の娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むからである(ゼカリヤ2:10)

かたや大淫婦と呼ばれる「女」は、バビロンの都にたとえられています。その都は、この世の王、闇の世の主権者である悪魔が王として住むところです(18:2)

バビロンとは現存する特定の都市だとする解釈もありますが、大淫婦によってもたらされる物質中心主義人間中心主義の世界を表現しているとも解釈できます。

このように、聖書は花嫁と大淫婦というふたりの「女」を区別しています。そういう意味で、終わりの時代に向かって、教会は大きくふたつに別れて行くのではないかと考えられます。

キリストの花嫁として霊的純潔を求めてきよく生きようとする教会と、大淫婦のように世俗化し、堕落して偽りの宗教団体へと変貌を遂げる教会と別れて行くでしょう。

だから、私たちはフィラデルフィアの教会を目指します。イエスの御言を守って愛し合う教会です。イエスの御名を否まずイエスだけを礼拝する教会です。

かつて、世俗の国々と結びついた教会……霊的姦淫をおかした教会が、多くのクリスチャンたちを迫害し、その血を流した歴史があります。それと同じようなことが、終わりの時代には加速するでしょう。

大淫婦バビロンとは、「預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流された」(18:24)と記されている通りです。

また、世俗の国々と結びついたかつての教会は、莫大な富を得て贅沢の限りをつくした歴史があります。そのようなことが、終わりの時代に再び加熱することでしょう。

黙示録18章を読むと、大淫婦バビロンがいかに地上の富に酔いしれていたかが分かります。しかし、霊的姦淫に対する神の厳しいさばきがくだるのだと預言しています。それは、地上の富を主人とすることへの神の御怒りです。

富には魅力があります。その魅力は魔力です。「人々はこの魔術にだまされた」と記されているとおりです(18:23)

まことの主人であるイエスから目をそらすなら、やがて世の富の魔術にだまされるようになるでしょう。だから、イエスこそが主であると告白する礼拝がいかに大切なことでしょうか。

この世の富を主人としない者こそ、キリストの花嫁にふさわしい教会です。私たちは、イエスこそ我らの主であり、礼拝すべき方であることを、終わりまで告白し続けます。

そして、今日の御言は私たちに命令しています。彼女から離れよ……と。その罪にあずかってはならないその罪の結果である災害に巻き込まれないようにせよ……と。(Ω)
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