朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨシュア記 20章

2017年07月15日 | ヨシュア記
ヨシュア20:2-3 のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。

私たちは故意に罪をおかすこともあれば、誤っておかしてしまう罪もあります。そこで神は、あやまって人を殺してしまった者を保護するためにのがれの町」を定められました。

律法では、「目には目を、歯には歯を」と言われているように、目が被害を受けたなら、おなじ目でもって償わなければならないと定められていました。 
※これは「やられたらやり返せ」と報復を奨励しているのではない。目をやられたら目だけにしておけという意味。過剰な報復を戒めている

ですから、殺人に対しては死をもって償わなければなりませんでした。これが原則です。しかし、故意によらない殺人もあります。事故や自己防衛の場合が考えられるのですが、そのような場合、「死には死を」を根拠に報復してしまわないために、のがれの町は定められました。

のがれの町は、イスラエルの各地に点在し、どこからでも1日路ほどの距離にありました。

あやまって人を殺した人が、のがれの町に逃げ込んだ場合、町は彼を保護し、彼はこの町で正当なさばきを受けることができました。このように、助かりたい者は、のがれの町逃げ込むことができました

神は、罪人が滅びるのを喜ばれません悔い改めて生きることを願っておられます(エゼキエル18:32)。その悔い改めて生きようとする者が生きられる方法が「のがれの町」だったのです。

まさにイエス・キリスト新約時代「のがれの町」です

旧約ののがれの町は過失の罪をおかした者に対する保護とゆるしでしたが、新約のイエス様は〝誰でも〟です。

新約には〝誰でも〟という語に特徴があります。「誰でも重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」。「今やキリスト・イエスにある者は誰でも罪に定められることがない」。

旧約時代に定められたのがれの町は、やがて実現するイエス・キリストによる救いを予表しています。

旧約時代ののがれの町が救済できる罪人には限度がありましたが、イエス・キリストにあっては〝誰でも〟です。このイエス様にのがれる者は、誰でも救われます

旧約の律法によれば、油断してのがれの町を出てしまうなら、追っ手によって彼は殺されることもありました。そのように、イエスから出てしまうなら、追っ手である悪魔は私たちの罪を根拠に容赦なく責めて滅ぼしてしまうでしょう。

イエス様から出てはいけません。イエスの中にとどまってください。イエスの中で私たちはゆるされ、イエスの中で救われ、イエスの中でいのちを得るのですから。(Ω)
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