朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。 
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 26章

2017年05月16日 | 民数記

民数記26:64 ただしその内には、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエルの人々を数えた時に数えられた者はひとりもなかった。

民数記の第1章では、20歳以上の男子の数が各部族ごとに数えられました。それは、荒野の旅が始まった当初の数で合計603,550人でした。

そして40年後、荒野の旅路の終わりにあたって、神はもう一度、民の数を数えるようにと命じられました。その記録が26章です。20歳以上の男子の数は601,730人でした。

ただしその中には、エフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて、当初に数えられた時の者はひとりもいませんでした(26:65)

荒野の40年を通じて、出エジプトした世代は死んで新しい世代に生まれ変わっていました。これは何を意味するのでしょうか。そして、エジプトを出て直接カナンに入らずに荒野を通過しなければならなかったのは何を意味するのでしょうか。

それは、エジプト時代に培われた偶像礼拝の習慣・価値観・発想・感受性を荒野で滅ぼし、神の御言によって養われた新しい民となって約束の地を受け継ぐためです。

荒野における神の意図は新約の民であるキリスト教会も同じです。出エジプトした民がエジプト時代に身につけた生き方があったように、新約のクリスチャンも罪の奴隷であった時代に培われた習慣や価値観、発想や感受性を引きずっています。それを聖書は、「肉の思い」とか「」と表現しています。

例えば、イエス様の弟子たちが度々争ったのは、「だれが偉いのか」ということでした。これは肉の問題です。しかしイエス様は、「しもべになりなさい」「仕える者になりなさい」と天国の価値観をお示しになりました。

コリント教会の人々が争ったのは「だれを誇るのか」「何を誇るのか」という問題でした。自分は誰それから受洗したとか、有名な誰それ先生に師事したとか、肉なる発想から生じる問題でした。

しかし、聖書は「誇る者は主を誇れ」「人々には愚かとされる十字架を誇るのだ」と新しい価値観新しい発想を示しています。

私たちは地上生涯という「荒野」を旅する中で、この肉なる人が完全に死んで……最後には肉体も死んでしまいます……新しい人となってつまり御霊に属する人となって、復活のからだを受けて天国に入って行きます

肉は神の国を受け継ぐことが出来ないのです。だから、肉は滅んで、新しい人となって御国を受け嗣ぎます。憎しみを持ったまま天国に入っても楽しくないでしょう。不平不満の心を持ったままで天国に行っても、その恵みは台無しです。

だから、神は、この地上という「荒野」を通して、私たちの古き人を滅ぼし、新しい人となって天国に入るように取り扱われるのです。それを表現するかのように、出エジプトした世代は荒野で死んで、新しい世代のイスラエルが約束の地に入ったわけです。

こうして、イエス・キリストを信じた当初に数えられた「肉なる人」も、荒野の旅を終える時になって数えてみるとひとりもいなかった……といえる時が来るのです。荒野に込められた意味を知って生きよう。(Ω)

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