朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。 
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの第二の手紙 1章

2017年04月06日 | ヨハネ書
Ⅱヨハネ1:6 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。

ヨハネの手紙は、愛し合うことの大切さを強調しています。その理由は、神が私たちを愛してくださったからです。このことは、第一の手紙の中で次のように記されていました。

神がこのように私たちを愛してくださったのであるから、私たちも互いに愛し合うべきである(Ⅰヨハネ4:11)

イエス様はたとえ話の中で、王から借りていた1万タラントの借金を免除してもらったのに、自分が100デナリ貸していた仲間をゆるしてやらなかった男の話をなさいました。

その時、王は、「私が哀れんでやったように、あの仲間を哀れんでやるべきではなかったのか」と言って怒りました。自分が神からどれほど哀れんでもらったかを忘れる者は、愛し合うことができないのです

主イエスは「多くゆるされた者は多く愛します。しかし、少しゆるされた者は、少しだけ愛します」と言われました。これは、神が人をゆるすにあたり、多くゆるす人と少しだけゆるす人とがあるという意味ではありません。

神の愛は無制限の愛です。時間の制限も、人数制限も、罪の種類の制限もありません。すべての人に制限のない愛が注がれています。問題なのは、自分がどれほど多くゆるしてもらったのかを知らないことです。それを知れば知るほど、私たちはさらに多く愛し合うことができます。

さて、ヨハネの第二の手紙では、互いに愛し合うことが大切な理由として、次のように記しています。不思議な理由です。

「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世に入って来たからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである(Ⅱヨハネ7)

この箇所は新改訳では、「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が……」と訳しています。イエスが「人として来られた」とは、「肉体をとって来られた」ことです。

互いに愛し合わなければならない理由は、「イエス・キリストが肉体をとって来られたことを否定する者たちが出てきたからだ」と教えているのです。どうですか。答になっていますか。どことなししっくりと来ません。

これには説明が必要です。「イエス・キリストが肉体をとって来られたことを否定する」という考えは、グノーシス主義者たちの主張です。これはプラトンらのギリシャ哲学から来ている思想で、物事の本質は目に見えない霊であると主張します。

かたや、不完全で弱さのある肉体は悪であると主張しました。だから、肉体を卑しめて、霊的な知恵に目覚めるようにと教えました。 ※グノーシスとは「霊的知恵」を意味する言葉。

この思想は古今東西をとわずあります。難行苦行で肉体を弱めることによって、霊的な感覚を研ぎすまそうとするのもその類(たぐい)です。肉体を卑しめることが霊的なことだ勘違いしているのです。

霊と肉体という理論からすれば、聖書の主張と似ています。しかし、似ているからこそ混乱させるのです

そういうわけで、グノーシス主義に影響されたクリスチャンたちは、「霊なる神が、悪である肉体をとって来られるずがない」と主張しました。つまり、キリストが肉体をとって来られたことを否定したのです。霊こそ本質であって、肉体は卑しいものとする思想がそうさせたのです。

しかし、肉体は卑しいことではありません。イエスが肉体をとって来られたからこそ、神の愛をあらわすことができました。その肉体の死によって悪魔のわざは滅ぼされ、私たちは救われました。

このように、神は、ご自身の聖なるご性質である愛をあらわすために、肉体を用いられました。そのような肉体を、人間である私たちも受けています。何のために、霊的存在である人間に肉体が与えられたのでしょうか。

天使は霊的存在ですが、肉体がありません。だから、眠らずに働きます。ご飯もお金も必要ありません。天と地を自由に往来します。

しかし、私たちは肉体を宿としている間は、弱さを身にまとっています。肉体はその弱さゆえに誘惑を受けます。そのため、悪と罪のために肉体が用いられることもあります。

しかし、この肉体は、神の愛をあらわすための器です

「あなた方の死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなた方の肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」(ローマ6:12-13)。

神はなぜ、私たちを「肉体をもつ霊的存在」として創造なさったのでしょうか

①それは神の愛を受けとめる「器」です。

水を入れるのに器が必要です。そのように、器がなかったら、神の愛を受け止められません。神の愛を注ぐ器のようにして、神は私たち人間に肉体をお与えになりました。

すべての人に雨が降り注ぎます。雨を受け止める器を用意すれば水を蓄えることができます。用意がなければ水は流れ出てしまいます。

神の愛も万人に注がれていますが、この肉体が神の愛を蓄える器です。

私たちは神の愛を受けるために存在しています。神の愛を蓄える器として存在しているのです。それなのに、その肉体を、悪の働きのために用いて良いはずがありません。

②それは神の愛をあらわす「器」です。

私たちの心は目に見えませんが、肉体を通して表現されます。喜びも悲しみも、顔の表情や体のしぐさを通して表されます。肉体は、見えない心の中身を表現する器です。

同じように、神の愛は、この肉体という器を通して表現されます。神の愛を表すために、この肉体が与えられています。神の愛を実行するために、この肉体があります。

ですから、決して肉体は卑しいものではありません。グノーシス主義者の主張は間違っています。

肉体は弱さをもっていますが、だからこそ愛が必要です。私も隣人も同じ弱さをもっています。弱さを指摘したり責め合うのではなく、互いに愛し合うために、私たちは弱さを持っています。

互いに愛し合うことは、肉体を与えられた人間にとっていかに重要な使命でしょうか。祈りましょう。この弱さのある肉体を、悪のために用いる器としてでなく、神の愛を受け止め、あらわす器としてください。(Ω)
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ヨハネの第一の手紙 5章 | トップ | ヨハネの第三の手紙 1章 »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。