朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。 
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨシュア記 22章

2017年07月18日 | ヨシュア記
ヨシュア22:10 ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地のヨルダンのほとりにきた時、その所で、ヨルダンの岸べに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった。

イスラエルは12の部族からなっていますが、その内の「ルベン族」「ガド族」「マナセ族の半分」の人々は、すでに、ヨルダン川の東側の地を受け嗣ぐことになっていました。

実は、神がイスラエルに与えると約束なさった地は、ヨルダン川の西側です。しかし、上記の2部族と半部族の人々は、東側の地が気に入ったので、それを自分たちのものにしたいと申し出たのでした。

神のご計画よりも自分たちの要望を優先したことになります

そこで、モーセは彼らの要望を認める代わりに、ヨルダン川の西側を獲得するまで、兵士を派遣して共に戦うという条件を与え、彼らはそれに従ったわけです。そしてついに戦いも終結し、ルベン族とガド族マナセの半部族は、ヨルダン川の向こう側、東の地に戻ることになりました。

今でこそ橋や道路といったインフラが整っていますが、当時、川によって隔てられることは、文化的にも信仰の面でも、隔たりが生じることは当然のことでした

そのことを危惧した2部族と半部族は、ヨルダン川のほとりにひとつの祭壇を建設しました。

ところが、他の部族からすれば、シロの幕屋とは別にもうひとつの祭壇を築くことになり、それはイスラエルの分断をもたらす危険性があるとして、人々は異議を唱えました。

彼らは戦争をも辞さない覚悟で、東側の人々に詰め寄った結果、「シロの幕屋に代わる祭壇ではない」、「東側の民は、西側の民とひとつであることの証しの祭壇である」という見解を得て一件落着とあいなったわけです。

さて、これが本当に「一件落着」であったのかどうか……。時を経なければ分からないことがあります。

神が用意なさった約束の地は、ヨルダン川の西側です。自分の都合を優先して東側にとどまり、川を渡ろうとしなかった人々は、その後スラエルの歴史から姿を消してしまいます

証しの祭壇」と呼び名は美しいのですが、気に入った領地も欲しいが、信仰的な祝福も手放したくない……そんなわがままを両立させる人工的な記念碑に過ぎなかったのではないかと思います。

主イエスは、「神と富との両方を主人とすることはできない」と言われましたが、ヨルダン川の東側の人々は、神と富との両方を主人としようとした姿ではないだろうか。考えさせられる課題です。

川を渡って神の約束の地に入り、そこにとどまるべきではなかっただろうか。イスラエル人の別名は「ヘブル人」ですが、その名の由来は「川を渡ってきた者」です。

世俗の側から神の側へ、罪の世界から神の光の世界へ、川を渡って来た者がヘブル人です。歴代の信仰の父祖たちは、数々の川を渡ることで、それ以前の生き方を葬って神と共にある新しい生き方へと渡って来たのですこれこそがヘブル人としての霊的な意味です

このヨルダン東岸のイスラエルの事例を通して、私はヘブル人となっているだろうか、と自問してみるのは大切なことです。(Ω)
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