安積咲

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自分がどんな「ファン」でありたいかについて

2013-12-11 04:24:59 | ブログ記事
私はミーハーを自認していて、好きな芸能人の舞台やテレビ観覧を積極的に観に行っていた方だけど、ファンとして本人にすごく近づきたい!という気持ちはそんなになかった。全くないとは言わないけど。レスポンスが欲しい!という欲求がそんなになかった。見て楽しめればいい、みたいな。

ある意味冷たいファンなので、相手にプレゼントしたいとか、ファンレターを送って返事をもらうとか、そういう行動に出る事が少なかった。往々にして私が好きになる頃にはその対象はお金に困ってはいないので、モノ贈られても有り余るだろうし、こっちが相手の喜べるものを遅れるとは限らないし。

だから歌手ならCDを買うし、役者なら舞台を観に行くし、そのパフォーマンスに対し対価を払う事が、ファンとして一番できる事と思っていた。それが「応援」だと思っていた。

でも、確かに、憧れの本人と話せたり、握手できたりしたら、それは嬉しい。ファンミーティングが盛んな人を見ると、ああいいなぁ、とかちょっとは思うし。でもそれはファンからの応援というよりも、相手のファンサービスだと思っていた。ある意味、こちらから支払う対価への返礼とでも言おうか。

どんな芸能人や役者でも、基本的にファンを嫌がりはしないだろう。でもいつも愛想よく対処できるとは限らない。ファンサービスは、あくまでサービス。過剰に求めたら迷惑になる。彼らが自分たちに与えてくれるのは活動が生む作品、そこから得られる楽しさ。それ以上はエクストラなのだと考えている。

「応援の声を送りたい」と思う気持ちはファンなら誰だってあって、それはきっと相手も嬉しいものだろうけど、その送り方を間違えたら迷惑になる、と思っている。

昔からその距離感が取れないファンというのはいて、全てがSNSの発達のせいではないだろうけど、簡単にコンタクトできる相手ではなかった芸能人や役者に、気軽に話しかけられるツールがあるというのは、そんな距離感を余計に縮めてしまったのではないだろうか。良くも悪くも。

芸能人や役者を崇めろというのではなく、ファンとは往々にして相手を「よく知って」しまうので、まるで知り合いや友達のように親しい感覚で見てしまうけど、あくまで他人同士という事を忘れてしまうという意味で。

この距離感の喪失は、相手が芸能人ではなくとも起こりうると思う。例えばツイッターのアカウントでも。こっちは長く購読している相手で、相手への情報を得ていても、向こうにとっては1フォロワーにすぎない、通りすがりの他人、みたいな感じで。

その感覚の差は、時にしつこいストーカーまがいのつきまといになったり、そんなネガティブなものではなくとも、誰かへの過剰な憧憬になったり、互のリアルな存在を超えた何かを生んでしまうように感じる。

そして最近は、そんな対象の一つが「福島」になってしまったのではないかと感じている。

皆に応援してもらえる福島。大好きだと言ってもらえる福島。それは嬉しいけど、震災前には全くと言っていいほどなかった扱いなのは事実。基本的には本当に、本当に嬉しく感謝しているのだけど、その憧れの先にある「福島」が、私からはとても遠く感じる時がある。

まだ復興には程遠い場所も多々あり、問題も抱えているのだから、救いの手が必要なのも事実なのだけど、例えば繰り返されるファンミーティングの盛り上がりを、遠い目でしか見れない自分がいる。

集う人たちは楽しいのだし、それを嬉しく思う福島の人の方が多いだろう。 異端なのは私の方だろう。もちろん悪いというつもりは全くない。応援の気持ちに感謝をしているのも本当。ただ、一部の「福島のファン」と、私のファンとしての在り方は、違いがあると感じるだけ。

単に福島に住んでいるというだけで、過剰な応援や憧憬の声をいただく事への罪悪感か。それが私自身ではなく、福島という地への復興に向けられていると分かっているつもりでも、まるで己へのものへと勘違いしかねない自分を恐れているのかもしれない。

「福島」という冠を取った時、自分が空虚になりはしないか?

震災前は何の問題にもならなかった出身地、在住地、それがあるだけで、発言のひとつひとつに注目を集められる。放射能汚染は、どんなに程度が軽くとも長引くのは事実で、それを語っていればいつまでも注目をする人がいる。私はそれを知っている。でも、そこにしがみついてしまうのは嫌だと思う。

それはある意味、震災の利用だと感じるから。

果たして自分が「福島」を背負わなかった時、どれだけの人間が私の発言を見るだろう?それはずっと、考えている事だ。

政治家の運転手になり、色々な有名人や著名人の元に出入りするようになった人が、「自分まで偉くなったような気がしてさ」と冗談で言ったと言う。そんな勘違いが自分に生まれるのが恐ろしい。福島を語る事、福島を強く応援する事、それを自分の存在意義にするのは嫌なのだ。

元々、地元と深く関わり、地域振興に尽力していた人ならいいだろう。でも私は違う。どちらかというと田舎を忌避していた人間だし、地元の寄り合いや会議所の誘いも逃げ続けてきた。そんな人間が、ここぞとばかりに地元を語るのは、卑怯ではないかと思う。

福島の未来、そして復興、それは前にもコラムに書いたけれど、先人の築いた歴史と、物言わぬ多くの人たちの日常に支えられた先にあるもので、ある日突然用意され、導かれるものではない。

少なくとも、特別に何かをしていない「何もない日常」の営みを馬鹿にするような人間が、未来を作り出せるとも思わない。

だから自分は何もしません、と言ったらそれはそれで卑怯と言われるのは分かっている。そう言う意味での卑怯者呼ばわりなら受けるのも致し方ない。それでも、私が何者にも利用されたくはないと望んだように、私も「福島」を利用したくはない。絶対に、全く、というのは無理であっても。

私が2011年夏、ロンドンに行った時、私が関わった多くの人々は驚く程「福島」に無関心だった。おかげで放射能汚染についての差別も受ける事はなかったが、それ以上に日本の震災など忘れていた人が多かった。それが私にとっては安堵する出来事だった。「何者でもない自分」に戻れたからだ。

(これは後でまた改めて書くと思うけど、私はあの時、行く先々で「福島から来た」と名乗り続けた。「海外ではもう日本なんて」と言われるのが悔しくてそれをこの身で試したかったからだ。でも彼らはそこまで日本を気にしてはいなかった。彼らにとってはリビアの紛争や9.11の十周年が重要だった)

一度でも何かの理由で注目を集めてしまった人間は、それを失うのを恐れる。ひどく喪失した気分になる。それも私は知っている。だから、自分は何者でもないと、福島に住んでいる事を利用するなと、自分に言い聞かせ続ける。

強大な敵もいない。使命感もない。ここに住んでいるだけ。自分が目指すべきものを好き勝手に求めるだけ。震災以前の自分に戻る事を恐れないように。震災で得たものに寄りかからないように。

「福島」の「ファン」で、福島とのファンミーティングを楽しむ人にとっては、私は異端で、可愛げなく映るだろうし、嫌悪感も持たれるかもしれない。でも私はそういう距離感でしか接する事ができない。その好意に感謝していても。

私のミーハー応援スタンスは「相手に迷惑にならない程度に対価を払って、距離感をもってその存在を楽しむ」事。それを「福島」にも貫きたい。

誰よりも、私自身が福島の利用者とならないために。

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