Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

日記 5031

2005-10-31 11:39:55 | Weblog
日記 5031

今日で天津滞在はあと、2週間となりました。
今の天津の気候は、暑くなく寒くなく、秋の
安定した好天にまぐまれ、絶好のシーズンです。
ただ、私の住む経済開発区は、観光する所が、全く
無いので、お出でくださいと言えないのが残念です。

よく、紅葉はどうですか?と聞かれますが、この
周辺は、まっ平らなのが、良くないのでしょうか、
赤くなる木が、一切有りません。一方、北京は、
首都要塞の地だけあって市の西側は急峻な山に
囲まれており、香山の紅葉が、今頃の名物になって、
凄い人出に驚かされます。

ただ、日本の紅葉のように赤くなる木がなく、やや
赤みを帯びた黄色い葉を愛で、山からの眺望を
楽しむことにねるようです(1度行きました)。

日本に帰ってから、紅葉は楽しめる筈です。
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日記 5027

2005-10-27 21:14:49 | Weblog
日記 5027

今日は、帰国の航空券を買う予定で、旅行社に
電話しました。そしたら、いつも私が頼りに
している日本語の上手な美華さんが、お客さんを
案内して、北京に行っていると言うことで、
代わりの陳さんという女性が対応してくれたん
ですが、これが不作で、往生しました。

私は日付を指定して、A航空会社の東京往きを
買いたいと言いました。値段も安いので、会社も
喜ぶ筈です。そして、時間帯がもっと良いB社の
運賃は幾らなのか、聞いて欲しいと頼みました。
その時、A社の予約を入れるように言わなかった
のが、私のミスでもあるんですが、旅行社の担当
としては、大ミスで予約を入れずに、B社の運賃
を調べることをしてしまったのです。

B社の運賃の回答が1時間ほど経って、私の電話に
入りました。高かったので、A社に決めると、
言ったところ、A社の航空券はキャンセル待ちに
なっていますとのこと。それで、なんで?さっき
予約を入れなかったのか?と聞いたら、入れません
でしたとのこと。

私が怒鳴りとばしたので、暫くたってから、北京の
美華さんから、謝りの電話がきましたが、キャンセル
待ちの状況が改善された訳では、ありません。まー
ここは、中国だから・・・しょうがないんです。
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日記5023

2005-10-23 08:57:16 | Weblog
日記 5023

昨日は、日本から来客で、その会社の中国
工場で、わが社の製品を使いたいと言うことで
工場視察と、供給ルートと量の問題を話し合い
これが、実質私の最後の仕事になりそうです。
すると、11月末までここに居る必要もないので、
多分、11月12日で帰国になる、そんな感じです。
ま、別の日系のお客さんから、重要な話が飛び
込まない限り、そうします。

25日は、天津の旅行仲間の送別会を兼ねた食事
会になりました。多分、2次会は無いはずです。
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河西回廊-11-銀川(最終)

2005-10-19 09:20:38 | Weblog
天津181           5018

河西回廊-11-銀川(最終)

6日目、最もきつい日程の夜が明けて、今日が最
終日となりました。17時20分には銀川空港から
北京へ飛びます。

銀川市は寧夏回族自治区の首都、南から北へ黄河が
流れ、緑豊かな平原の都市です。北西で内蒙古自治
区と接しています。地区人口130万人、市内人口
80万人。西夏王墓と言う観光資源を有し、3年前に
スキー場を開設しました。農産品では米が美味しく、
梨、リンゴが出来ます。近くの山から、石炭、石、
薬石、硯が採れるそうです。産業も誘致しており、
化学工業、タイヤ企業が来ている。日本企業も2社
あるとか。寧夏回族自治区の人口は540万人で回族
は260万人、主に省の南部に住んでおり、銀川では、
モスクの周辺に多いとのこと。

西夏王墓
西夏は、チベット系タングート族が起こした国で、
建国は1038年で滅んだのは1227年。ガイドさんも
189年間存在しました、と言い切っていた。その領
土は、寧夏回族自治区の東部から敦煌に及ぶ広大な
ものであったが、長安は落とせなかったようです。

西夏に対しては、守りきった漢民族も、次の蒙古族
には、1271年の侵攻であっさりと全土を席巻され、
都は北京へ移り、交易路は海へ比重が移ります。

漢民族にとっては脅威であった西夏も蒙古に滅ぼ
されます。西夏王国を徹底的に破壊し、滅亡させた、
蒙古軍の有様は東京新聞・中日新聞の日曜版に詳しく
報道されました。別注。これらに出てくる西夏王墓は
丸いピラミッドのように見えますが、破壊されなけ
れば、外側は楼閣で覆われていて、今見えてるのは、
中に有った土の芯です。

賀蘭山岩絵
がらんさんの岩の表面に刻まれた素朴な絵です。
BC8世紀頃を最古として、それ以降刻まれ続けてき
ました。何故山の岩の表面に様々な絵を彫り付けた
のか、訳は判っていないようです。

これで、私達の長い旅も終わりました。銀川市内を
抜けて、空港へ向かいます。途中渡った黄河は水が
茶色に渦巻いていました。check inの手続きは、地元
ガイドさんがしてくれます。その間を利用して、最後
のお土産買いをし、いよいよ時間となりました。
敦煌から最後までガイドしてくれた李さん、いろいろ
有難う。1672kmを安全にドライブしてくれた楊さん
にも有難うを伝えてください。固く握手をして、
さようなら。

回族の説明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E6%97%8F
銀川、東京新聞より
http://www.tabichina.com/anomati/020120.htm
成吉思汗、モンゴル帝国
http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu14.html
賀蘭山岩絵
http://www.iijnet.or.jp/xipec/sight/west/nx/nx05.htm
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河西回廊-10-銀川へ

2005-10-18 10:00:27 | Weblog
天津180           5017

河西回廊-10-銀川へ

5日目、張掖賓館を7時7分出発、まず武威へ向かう。
武威から銀川まで、当初の計画では列車の予定で
したが、出発の4日前に、この日は列車が無い日です
との連絡が入り、一瞬あせった問題の日です。結果
は、このままバスで突っ走ることになり、早めの
出発となりました。

山丹古長城
有り難いことに、高速道路ができていて、快適な
走行が続きます。山丹と言う村に明代に造られた
長城があり、その東には漢代の長城が延々と続く。
暫くは、2本の長城と平行して走っていましたが、
ついに我々のバスが走ってきた道が、それをぶち
切って通っているのには、残念な気がしきました。
いつかは、何処かで、そうしないといけないのは
判っているのですが。

道路の両側の金網にときどき、赤いビニール袋が
何個か結びつけられていました。この辺りの、蒙古
系の住民がキノコ(干してある)を売っているのです。
白いのと黒いのと有るのですが、黒いのは椎茸の
ようです。白いのは、マッシュルームをスリムにした
感じです。生の時に、針に通した糸(1mくらい)で
茎の下部を突き刺し、数珠つなぎにして、そのまま
干して、そのまま売っていました。

武威
ここは、オアシスの規模が大きいのでしょう。緑が
濃く、緑地の面積も大きいです。年間降雨量120mm
とのこと。敦煌から長安に近づくにつれて多くなって
きます。武威地区の人口120万人、市内人口85万人の
大きな町です。

文廟
甘粛省最大の孔子廟とのこと。孔子は、今でこそ、儒教
の始祖として、人々の尊敬を集め、神様にもなって
いますが、生前は何処の国にも受け入れられず、仕官も
ならず、諸国を放浪したとか。都から1000kmも離れた
武威で教えていたんですね。

武威市博物館
文廟の敷地内にある。西夏文字を刻み、裏に漢字で訳文
を刻んであるので西夏文字解読の手掛かりとなった碑文
が見逃せない。

雷台
ここは、雷神の廟なのだが、有名になったのは、後漢
時代の墳墓が発掘されたことによる。ご多分に漏れず
ここも盗掘に会ってはいたのだが、心有る(?)どろ
ぼーは、金銀財宝だけを盗み、銅製の俑を、そっくり
残していってくれたのです。始皇帝の墓の兵馬俑には
敵いませんが、馬39頭、車14両、人物45体、牛1頭が
有りました。この中の飛燕を踏む馬、銅奔馬がここの
名物となり、土産物として売られています。

銀川までバスで
武威から河西回廊を離れます。目的地、銀川までは、
地図上の直線距離では330km程。

しかし、地形のためでしょうか、その330kmを底辺と
する三角形の2辺を通らねばならず、540kmを走る
ことになりました。ガイドブックでは、武威から銀川
行きのバスの走行時間は10時間となっています。午後
2時に出発して長時間のバスの旅になりました。幸い
道路は良くて、バスはぐんぐんスピードを出して走り
ます。

結果的に、列車より早く、10時半にホテルに
到着できました。夕食ですが、皆空腹です。4時頃
つなぎにパンを(他に何もない)食べてますが、早く
食べたい訳です。だから途中の小さな町の、小さな
レストランで13人が食べるのは無理としても、銀川に
入ったら、大きなレストランで食べてからホテルに
着きたいのが人情です。これが無理なんですね。銀川
に入れば、地元ガイドさんの指揮下に入ります。そし
て彼は、夕食のレストランを手配して待っています。

我々は空腹であっても、どうしても、そこに行かなけ
ればならない仕組みです。夜11時の食事です。皆さん
この時間では、重い食事は出来ないと言うことで、焼
麺を大皿で取り、分け合うことになりました。空腹で
したから、店側で1皿で足りますよと言うのが、足り
なくて、追加注文となり、今度は、それが出てくるの
が遅くなりで、なんともちぐはぐなことで時間もロス
しました。あれは、なんとかしたかったです。

山丹古長城のweb
http://www.wada-denkido.co.jp/yingying/photo.html
武威を説明したweb
http://www.h4.dion.ne.jp/~jukutabi/newpage74.htm
西夏文字について(頭が痛くなります)
http://teacher.wtuc.edu.tw/92029/html/xmoji.htm
雷台他、他の見学場所の写真豊富web
http://www.nicchu.co.jp/photo/lanzhou/lanzhou.htm
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河西回廊-9-張掖へ

2005-10-17 10:03:36 | Weblog
天津179           5016

河西回廊-9-張掖へ

4日目、酒泉賓館を8時10分出発、張掖へ向かう。
ここまでの旅で訪問した場所で、記述漏れがあり
ました。

橋湾城
安西⇒玉門鎮の間、ゴビ(砂礫の砂漠)の中に残って
いる清代の橋湾城跡。幻の城は、忽然と姿を現した。
砂漠の真ん中に巨大な城壁。ところどころ壁が崩れ、
砂に埋もれているが、確かに存在したことが判る。
ガイドブックには約250年前、清の乾隆帝が夢の
中で見た美しい城を再現させたと書いているが、
正しくは、2代前の康熙帝(展示館で確認した)
その命により、故宮と同じ城郭を目指して建てら
れたのが橋湾城だという。

ところが、建設担当大臣が賜った金7万両のかなりの
部分を着服し、城は故宮には及びもつかなかった。
数年後別の大臣が会計検査に訪れ、その汚職が発覚
してその大臣は処刑された。彼の皮をはいで太鼓を
作り、橋湾城の櫓にぶら下げて朝晩たたかせ、彼の
頭蓋骨で杯を作ったという。両方とも展示館にあるが
太鼓は直径20cm足らず。ま、おぞましいものです。
だが、この話、現代でも聞くような気がします。
流石、中国、歴史は深いですね。

黒水城
但しこれはNHKスペシアル・シルクロード、西夏
大国カラホトのそれとは、全く別物の黒水城です。

張掖に入る手前、黒水河のほとりにある。どんな
民族が何の目的で作った城か、資料が全く無い城で、
このままだと、いずれ砂に埋もれて行くのでしょう。
ところが、我が旅行団一行には大変気にいられた
ようで、皆さん、結構色々な物(陶器の破片、レンガ)
を拾い集めておられました。

張掖
旅も後半に入り、疲れが出る頃でしょうか。この日の
予定は楽目に設定してくれて有りました。ホテルは、
張掖賓館、着いて昼食、部屋で一休みして、徒歩で
見学散策。

大仏寺
このお寺は,ホテルの裏口から出てすぐのところに
あります。ここの名物は、大きな寝釈迦で、十大弟子
の塑像もあるが、大掛かりな修復中で、その足場の
ために、良くは見ることができませんでした。大仏寺
を出た通りには骨董屋がずらりと並んでおり、我が
一行も買い物を楽しんだようです。

万寿寺木塔
1925年に再建された塔なので、もとは隋代に建てら
れたと言うことが意味があるのかよく判りません。
九層八角で木で組んであるとか。中の階段の手すりは
鉄でした。釘を使わないで出来てるそうですが、日本
の五重の塔でも聞いたことがあるような気がします。
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河西回廊-8-魏晋(ぎしん)壁画墓

2005-10-15 17:08:46 | Weblog
天津178            5015

河西回廊-8-魏晋(ぎしん)壁画墓

中国での旅の日記ですから、漢字が多くて読み
難いです。壁画墓は墓の内部に絵が描かれている、
そういう墓です。魏晋は時代の名前です。後漢が
滅んで魏・呉・蜀の三国時代に入ります。これが
西暦220年頃。これが60年ほどで西晋に、更に
30年で東晋へと王朝が目まぐるしく変わります。
この時代を魏晋南北朝時代と言うそうです。

酒泉に入る手前のゴビ灘の中に、周囲10kmに
わたって1000以上もの墓が点在します。1970年
代に13墓が発掘され、幾つかが壁画墓だったとの
ことです。墓はゆるやかな地下道を降りて行くと、
3室あって、手前から使用人の部屋、真ん中の
部屋が居間、奥が寝室でそこに夫婦の遺体が置か
れていたとのことです。各室とも素焼きレンガを
全周囲に積み上げ、広さは三畳より大きく、四畳半
よりは狭い感じです。積み上げたレンガは天井
(高さ2m余)に行くほど絞り込まれて、ドームを
形成して、天井の中心がKey stoneになっており、
これを抜くと、天井が崩れ落ちることになって
います。

Key stoneには、灯りを吊るした形跡があり、墓を
密封した際に、灯りを点し、死者の霊を慰めると
ともに、墓内を真空状態にしたために、壁画とか
埋葬品の保存状態が異常に良い結果を生んだそう
です。

現代の発掘の前に、ちゃんと盗掘に会っており、
このどろぼうは、よく研究したようで、中室の壁
から継ぎ目無しで、なだらかに天井になる、その
辺りに入り口の穴が開くように、地上から穴を掘り、
見事に金銀財宝を盗っていきました。多分3人で
入ったのでしょう。最初の一人(リーダー?)が
地上に出た後で、残りの2人を置き去りにして、
埋めてしまいました。現代の発掘の時に、生き埋
めにされた2人の遺体が発見されています。

ここの壁画は、莫高窟のような大きな壁画ではなく、
レンガ1個に収まるサイズの壁画が沢山あります。
レンガに白の下塗りをして、生活の絵、墓主と
思われる男性の正装(役人とのこと)、食事、飲酒、
農耕、豚を殺して(血が吹き出ている)、解体し、
枝肉を吊るす光景が一こま一こま描かれています。
その鮮明さは1600年以上前のものとは、到底信じ
られない程です。

見学者の中から「これは何を意味するんですか?」
と質問が出ました。答えは、研究しているが、まだ
判りませんという絵が有りました。それはレンガ
1個の表面に黒い線で、○○○と言うデザインです。
白いレンガに黒丸3つ、今でも謎です。

墓内撮影禁止。魏晋(ぎしん)壁画墓については
写真を載せたwebが見つかりません。唯一つ。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~mou/kasaikairou/kasaikairou/kayokukan/kayokukan001.htm
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河西回廊ー7-酒泉

2005-10-14 12:52:51 | Weblog
天津177             5014

河西回廊ー7-酒泉

現在の嘉峪関市は以前は、酒泉市に属していた。
ところが、嘉峪関地区にある酒泉鉄鋼と言う会社
が、大成功で見る見る業績を伸ばし、地元に経済
的な恩恵をもたらして、嘉峪関市として独立して
しまった。嘉峪関と言う全国区の観光スポットに
加えて、酒泉鉄鋼(地元で鉄鉱石が採れる)の
お陰で裕福な都市である。空港もあり、殆どの
列車が止まり、長距離バスの拠点でもある。

さて、酒泉鉄鋼を、隣の嘉峪関市に持っていかれ
てしまった酒泉であるが、人口34万、1000年以上
に亘って河西回廊の中心の緑豊かな土地である。
玉をくり抜いて、薄く薄く研きあげて作る、夜光
杯の産地でもある。杯を合わせた時に、キーンと
高い金属音が出れば本物だそうで、贋物も多いとか。

ガイドさんから聞いた酒泉のいわれ。
霍 去病(かく きょへい 紀元前140年 - 紀元前
117年)は、前漢の武帝時代の武将であった。
武勇に優れ、当時荒ぶる匈奴との闘いに18歳の時
から参戦し、23歳の時には総指揮官として、20万
(私個人としては、たかだか2000位だろうと思い
ますが・・・)の大群を率いて匈奴に大勝したそう
です。喜んだ武帝は10樽の極上の酒を霍 去病に
賜った。彼はこれをなんとか全軍で飲める方法は
無いかと考えあぐねている時に、泉のほとりで、
閃いた。酒を泉に入れて、その水を兵士達に飲ま
せようと。

これにより、全軍の将兵士卒は酒の匂いのする
美味き水を飲み、霍 去病を賞賛したと言う。この
後、この地を酒泉と呼ぶようになったと。しかし
霍 去病は翌年、匈奴との戦いの中、24歳の若さで
戦死する。但し事実は、これほど美しいものでは
なく、霍 去病は、そんな良い人では無かったと
言う情報も有ります。
http://www1.interq.or.jp/~t-shiro/data/human/kyohei.html

今日の酒泉を語る時に、忘れてならないのは、
酒泉にはロケット発射基地があると言うことです。

●「神舟6号」の打ち上げ成功 正常に軌道に入る
    〔酒泉10月12日発新華社=中国通信〕中国
の2度目の有人宇宙船「神舟6号」が酒泉衛星発射
センターから12日午前9時(日本時間同10時)打ち
上げられた。9時ちょうどにロケットに点火され、
点火から4秒後、上昇開始。136秒後、補助ブース
ターが切り離され、159秒後、ロケットの1段目の
切り離しに成功。200秒後、宇宙船を被っていた
カバーが切り離され、583秒後、高度約200キロの
ところで、宇宙船はロケットから離れた。船内の
飛行士の状態は良好で、宇宙船の状態はすべて正常。
宇宙船は正常に軌道に入った。●

私達の乗ったバスは、上記の打ち上げの設営準備の
ためと思われる兵士達が乗った軍用車両の隊列と、
酒泉の近くで行き違いました。それは、どこかの国
と戦争するんじゃないかと思える位の大軍でした。

酒泉への旅が良く判る写真の多いweb。ホテルも
私達が泊まったホテルが写っています。
http://ikokunotabi.web.infoseek.co.jp/karahoto/kara6.htm
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河西回廊ー6-嘉峪関

2005-10-13 23:25:30 | Weblog
天津176             5013

河西回廊ー6-嘉峪関

3日目、わがバスは安西賓館を7時05分出発。
今日も走行距離は300kmを超えるようです。7時26
分に砂漠から太陽が上がりました。
私達のBチームが敦煌の西の玉門関を訪ねているが
それと同じ名前の玉門鎮、玉門市を通過する。関と
鎮は350kmも離れているのに、紛らわしい。玉門
市郊外には、中国最初の油田が有って、ピーク時
年間240万トン産出したが、今は40万トンに落ちて
しまったとのこと。

嘉峪関
嘉峪関は万里の長城の西端に鎮座し、東端の山海関
(河北省)とセットでクイズなどにも出てきます。
ところが今回の旅行で、嘉峪関よりもっと西の敦煌
が漢民族の最西の砦であると言いました。玉門関
とか陽関とか、敦煌の外に関所(砦)跡があります。

これを、整理すると、長城には、秦の長城と漢の
長城と明の長城が有ります。嘉峪関~山海関の長城
は明代(1372年)着工の長城です。嘉峪関より西の
関は秦、漢代(BC200-AC200)のものとなります。

それと、こういう一面が有ります。秦、漢、唐代は
みやこが長安です、明代は、北京になりました。
北東に1000kmほど移動しました。西端の守りは、
当然変化するでしょう。更に、明代には、世界の
航海術の発達により、交易路は、海のシルクロード
へ比重が移りました。長城に置かれた関の役割は
軍事防衛が中心になったようです。嘉峪関は鉄壁の
守りです。敵に破られたのは1回だけとか。

敵の軍勢が、関の中に突入してくると高さ11mの
壁に囲まれた広場(甕城)に出ます。すると上から
矢だの石などが飛んできます(やだね)。

嘉峪関説明web
http://loulantei.hp.infoseek.co.jp/chuugoku-007.htm
嘉峪関写真が有るweb
http://www.panda-style.com/dest/2002b/jiayuguan.html
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河西回廊ー5-楡林窟

2005-10-12 16:59:04 | Weblog
天津175             5012

河西回廊ー5-楡林窟

2日目、わがバスは敦煌国際大酒店を8時40分出発。
120km東の安西を目指す。バスはどんなに悪路でも、
時速30kmみておけば、なんとか到達するが、昔の
キャラバンの時速を、どうみたら良いんでしょうか。
人間の歩行速度の時速4kmなら30時間かかる。1泊
野宿をして、2日で着けばちょうど良いような距離感
だと思います。

問題は昼食でした。楡林窟へ行く街道の最後の村の
中心でバスを止め、トイレ休憩を兼ねてレストラン
との交渉です。なんと言っても国慶節の日曜日ときて
ます。うどんしか出来ないよとのこと。こっちは、
うどん大歓迎で、楡林窟見学後2時頃にまた来ますと、
そこを後に。

楡林窟は、要は莫高窟と同じことです。ただ場所が
違い、絵師や仏師も違っていたことでしょう。しかし
現代の私達からみて莫高窟との大きな違いは、保存
状態がとても良いことです。これは、街から遠い
不便な場所にあったことが幸いしているのでしょう。
外敵や、革命の嵐からも無害でした。

特に25窟(有料200元)の西方浄土と弥勒浄土変は、
唐代壁画の優品と言われていますから、1200年ほど
昔の壁画と言うことになりますが、それは信じられ
ない美しさです。

楡林窟の詳細web
http://www7.ocn.ne.jp/~yulinku/yurinkutsu.html
途中の光景web
http://ikokunotabi.web.infoseek.co.jp/karahoto/kara7.htm

楡林窟の見学を終えてバスに乗り、先ほどの村に
向かいました。レストランに着くと2時半を廻って
います。早速うどんが食えるかと思いきや、我々の
到着を確認してから、やおら粉を練って、うどんを
打ち始めました。打つと言うより、引っ張ると言う
べきでしょうか。1本が2本、2本が4本、4本が8本、
あれです。そして茹でて一人分出てきますが、待って
られない私達は、出てきたうどんをすぐに、シェア
です。小鉢にうどんを取り、タレに具が5品、好きに
取り合わせて食べる方式です。でも、結構腰も有って、
美味かったです。

鎖陽城
安西の町から南東へ80kmのゴビ砂漠にある城。漢代
には出来ていたが、現存する城跡は唐代のものとのこと。
鎖陽とは漢方の材料になる木の根。この城に立て篭
もった兵士達が、食料が尽きた時に、これを食べて
持ち堪えたとかで、見学が終わると、これの宣伝
販売となる。ここ以外で売ってる鎖陽は、効きが
悪いんだとか。焼酎に漬けておくと、やがて赤くなり
それを飲むんだそうです。皆さん、結構買ってました。


鎖陽城の物見櫓
http://dsr.nii.ac.jp/photograph/anxi/0017.html.ja
鎖陽城の詳しいweb
http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/0408-3.htm
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