Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

夏草や兵どもが夢の跡

2007-12-25 19:37:12 | Weblog
夏草や兵どもが夢の跡             2007-12-25

横濱タウン新聞文化講座「奥の細道」は、今日クリスマスの寒
空のもと、この句をもって今年の講座の終わりとなり、来年は
1月22日から出羽路に入ります。今日は松島、瑞巌寺、石巻、
平泉を購読しました。文章の達人松尾芭蕉が、推敲に推敲を
重ねた美文に酔い、尾島政雄先生の名解説にうっとりと聞き
惚れた90分でした。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先ず高館に
のぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城を
めぐりて、高館の下にて大河に落入る。泰衡が旧跡は、衣が
関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義
臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて
山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷きて、時のうつる
まで泪を落し侍りぬ。 

そして有名な上の俳句となります。この一節は、私の高校の
教科書に有り、教わった記憶が有ります。頼朝の命に背いた
木曽義仲を、頼朝の命に従って討った義経は、落ち延びて行く
平家を追い詰め、壇ノ浦に滅ぼしましたが、やがて頼朝に疎ま
れ、追われる身となり、苦労の末に、自分を育ててくれた藤原
の秀衡の居城にたどり着く。しかし秀衡の子泰衡は父の遺言に
背き、頼朝の意向に沿って、義経を亡き者にしてしまう。義経
主従は高館に籠もって泰衡の軍と戦うが数の差いかんともし
難く、全員討ち死(自刃)。その跡は今は夏草がぼうぼうと。

芭蕉がここを訪れたのは、新暦では6月末のことでした。時の
移るまで涙を落とした芭蕉は、平家物語の中で不遇であった、
つまり頼朝に良いようにあしらわれたこの2人の武将、義仲と
義経に非常に同情的です。死んだら義仲の墓の傍に埋葬して
欲しいと頼んだ話は、既に紹介しましたが、もし義経の墓の所
在が明であったなら、きっと彼は、義経の墓の傍に埋葬して欲
しいと遺言したに違い無いと私は信じています。そうすれば
芭蕉の葬儀の後の俳句は:

判官と背中合わせの寒さかな  となっていたかも知れません。
義経の首は鎌倉に送られ、首実検の後藤沢ちかくに、残された
胴は宮城に埋葬されたそうです。

http://puchitabi.jp/archives/2007/05/post_4288.html
http://www.hitomachi.city.hiroshima.jp/kameyama-k/machi/yositune.html
http://page.freett.com/maru5/2004b/181.html
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic29.html

しかし義仲寺のように、有名な場所では無いために、芭蕉も
隣には入れなかったのでしょう。義経の墓が、明確にここに有る
と言えないためでしょうか、彼は平泉で死なずに中国から蒙古に
渡り、ジンギスカンになったと言う話も有るようです。
好きにすればー。