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今週の美の巨人たちは、洋画家梅原龍三郎の“朝陽”が今日の作品でした。
その作品は岡山県倉敷市にある大原美術館に所蔵されています。昭和5年に
設立された日本最初の西洋美術館です。作品は別館にあります。
今日の作品は、縦115センチ、横91センチの朝焼けに生える雄大な富士
です。ゆっくりと訪れる冬の朝を描いています。深い緑と鮮烈な赤がひしめき
踊っています。鮮やかな群青で描かれた富士の稜線。その筆は力強く大胆に
走りかすれています。
彼が最初にフランスに渡ったのは20歳の時でした。そこで画家人生を決定
付ける絵画と会いました。それはルノワールの“ムーランド・ラ・ギャレッ
ト”です。彼はルノワールを生涯師事し敬愛しました。そして彼は、ルノア
ールは芸術を人生にした。ルノアールのためには生きている喜びが見る喜び
で、見る喜びが絵だと語っています。それが彼自身目指す絵画となったの
でした。5年のフランス滞在で西洋の絵画を吸収し、ルノアールから色彩の
世界を学びました。“黄金の首飾り”はその集大成でした。
しかし彼は日本に戻ってから光や湿度の違いなどで何を描いたら良いのか
わからなくなったのでした。日本の洋画とは何なのか悩んだのでした。
“座裸婦”はその葛藤の中から生まれた作品です。かつての柔らかな線は影を
ひそめ力強く大胆に絵具は厚く塗り重ねています。そして驚くのはその色彩
です。肉体から熱情と生命力が赤で表現されているのです。花を描くと朽ちる
という未来はありません。いつでも咲き誇る花の姿、美の絶頂を赤という色
で留めたのでした。
彼が最初に日本の山を描いたのは戦前でした。火山は彼が好んで描いたモチー
フでした。日本の自然に立ち向かい、独自の色彩を追及しました。そして
たどり着いたのが岩絵の具でした。群青や緑青は岩絵の具のほうが美しく描け
るそうです。
そして自分の色彩をつかんだ彼は、昭和20年敗戦後の日本で富士に挑んだの
でした。彼はただ岩絵の具を使っただけでなく油も混ぜて使っていたそうです。
一般的にはあまりそういうことはやらず、膠で溶くのだそうです。今回実験し
てみると膠で溶いた絵具よりも筆のすべりが悪く絵具がかすれたそうですが、
筆跡が残るということが味になるそうです。
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今週の日曜美術館は特別編でゆるむ・ひらく・アートの旅〜青森編〜という
特集でした。
まず青森県十和田湖の近くにある十和田市現代美術館を女優の水野美紀さんが
訪問しました。4年前にオープンしたそうです。以前紹介しましたね。最初に
草間彌生の作品が出迎えてくれました。雪の中に真っ赤な作品が展示されてい
ます。次の作品はイギリスの彫刻家ロン・ミュエクの"スタンディング・イー
マン"です。およそ4メートルという物凄い大きさのお婆さんの彫刻です。
物凄いリアルですね。
一方青森市にある青森県立美術館を元格闘家の須藤元気さんが訪問しました。
6年前にオープンしたそうで白で統一された近代的な建物です。舞台にもなる
ような広いスペースに大きな幕のような作品が三方に3点展示されています。
縦9メートル、横15メートルのロシア出身のマルク・シャガールがバレー
の舞台セットとして描いた作品です。深い青の空に浮かぶ恋人たちや夜空を
駆ける馬など幻想的な世界が描かれています。
また十和田に戻って次の作品はアルゼンチン出身のトマス・サラセーノの
"オン・クラウズ"です。雲の上という意味ですね。透明な球体に黒い紐が
からまっていてそれが数多く浮いているような感じです。その中に入ること
が出来るようになっていて幻想的です。
こちらは国内外21人のアーティストの現代アートが展示されています。彼ら
は実際に十和田を訪れそこで人々と触れ合って作品のコンセプトを練り上げ
作品として制作したのだそうです。地元ボランティアが活躍して作品の解説
などもしているのだそうです。ボランティアの方は最初違和感を感じたそうで
すが日々日常で触れ合う中でとても気に入るようになったのだそうです。
商店街まで作品が展示されたりイベントを行ったりというアートの街に変化し
てきたそうです。驚きですね。
また青森県立美術館に戻ります。生涯青森の風土にこだわり39歳で亡くなった
写真家小島一郎の作品が紹介されました。津軽の厳しい風土での日常を撮影した
作品が紹介されました。その隣にまったく異なる印象の作品で下北半島の海岸を
歩いて撮影した作品があります。ぬくもりはなく黒と白のコントラストが印象的
です。ほとんど人間は写っていないのですが、自然の厳しさを表現したのだそう
です。
この美術館は特に順路はなくきままに移動していきます。次は大きな彫刻です。
弘前出身の奈良美智の"あおもり犬"です。お年寄りがこの作品の前で手を合わせ
るのだそうで確かに仏のような顔してます。
また十和田に戻ります。次の作品は栗林隆の"ザンプランド"です。水の中と外
のイメージで制作されており椅子に上って穴から顔を出すと水の中から顔を出して
見るような風景が広がります。本当に楽しい作品です。実際に制作した栗林さんが
メンテナンスのために訪問していて説明されたのですが植物は十和田のものを集め
たりとか冬に制作したので土の中に蛙が冬眠していたとか色々な制作時の話が
聞けました。
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今週の美の巨人たちは、オーギュスト・ロダンの"考える人"が今日の作品
でした。あまりにも有名な作品ですよね。
彼は19世紀近代彫刻の父と呼ばれたフランスの彫刻家です。彼の生み出す
彫刻は徹底的な写実から浮かび上がる人間の生命と情熱です。美はいたる所
にある。美は我々の眼をそむくではなく、我々の眼が美を認めそこなうと語
っています。
実はこの姿勢は実際にやるのは結構難しいのです。何故彼は無理な姿勢を形
にしたのでしょうか?また彼はこの作品を"詩想を練るダンテ"とすること
を考えていたのでした。何故なのでしょうか?
この作品を作る過程ですが、まず針金で骨組みを作ります。大まかな形が
出来たら粘土で肉付け。筋肉を1つ1つ張り付けるように人体のディテール
を作ります。この粘土を石膏で型取りし、その型を使ってブロンズで鋳造
することで同じ型の彫刻がいくつも出来るそうです。今世界でこの作品は
21体存在するそうです。
彼は1840年パリの下町アルバレート街で生まれました。近代彫刻の父と
呼ばれる彼も前半戦は不遇でした。50歳まで貧乏がもたらすありとあらゆ
る苦労を味わったと語っており、国立美術学校には三度落ちて、芸術家の
登竜門だったサロンでもなかなか採用されず、ただあせりの日々だけが流れて
いたのだそうです。当時のサロンでは勇ましい英雄の姿や美しい女性の姿な
ど人間を理想化した美が求められていました。それに比べて彼の題材は鼻の
つぶれた名もなき労働者でした。しかし人生の苦悩や悲哀、人間の内面を掘り
起こすことが彼にとっての彫刻なのでした。彼が初めて手がけた等身大の像
"青銅時代"はあまりにも骨格や筋肉が忠実な描写だったために人間から型
を取ったと非難されたのでした。しかし皮肉にもこのスキャンダルが一躍彼
を有名にしたのでした。ロダン作品で最も大きな作品は彼の成功への扉とも
なった"地獄の門"です。高さ6メートル40センチ、幅3メートル97セ
ンチの巨大な作品です。肉欲や強食にまみれた200人近くの人間が描かれて
います。1880年フランス政府は現在のオルセー美術館がある地に国立装飾
美術館の建設を?計画しました。その門の制作を彼に発注したのでした。その
題材となったのが中世イタリアの詩人ダンテが描いた「神曲」でその旅の出発
点が地獄の門でした。この門の上には考える人がいます。その左側には女性が
落ちてきています。そこから考える人に向かって行列が出来ています。右側は
骸骨の手から逃れようとあえぐ人々がいます。考える人の左はこの世で、右は
本物の地獄なのでした。つまり考える人が死者を裁く地獄の審判なのでした。
パリ南西部のムドンにもう1つのロダン美術館があります。数々の名作の原型
となった石膏像のアトリエの中に"地獄の門"の原形があります。ここの20
0人近くもの像をつけたりはずしたり試行錯誤をしたのでした。そしてそこに
ある人間たちを独立した作品としています。彼は"地獄の門"を思考の倉庫と
したのでした。なので"考える人"もその1つだったのだそうです。当初彼は
この像をダンテと考えていたのでした。しかしダンテの痩せた姿では"地獄の
門"に埋没してしまうので力強い裸の男にしたのでした。
何故こんなに筋肉質で何故こんな不自然な恰好をしているのでしょうか?その
答えはミケランジェロが知っているそうです。イタリアフィレンツェのサン・
ロレンツォ聖堂の中のミケランジェロが制作したメディチ家礼拝堂の作品に
影響を受けたのでした。彼が35歳の時に出会ったのだそうです。骨格や筋肉
が大理石とは思えないくらい生々しく表現されており、彼は圧倒されたのだそ
うです。そして極端なまでに曲げられた身体美に影響されたのだそうです。
1889年に友人のモネと開いたパリの展覧会で"考える人"を独立した作品
として発表しました。この展覧会は思わぬ反響を呼んだそうです。そしてパリ
市民達が市内にこの作品を設置しようという動きが起こり彼らの募金活動で
1906年パンテオン前に設置されたのでした。この日広場は人々であふれた
そうです。広場に合うようにと現在の大きさに作られ、現在ロダン美術館にある
ものだそうです。
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今週の美の巨人たちは、京都清水三年坂美術館にある高瀬好山による"鯉"
が今日の作品です。大きさは片手で持てるほどの29センチです。明治から
大正にかけて作られた自在置物と呼ばれた金属工芸の一品です。銀で作られ
ています。この自在置物と呼ばれる理由ですが、口は本物と同じように動き
ます。胸ヒレや腹ヒレも動きますし尾ヒレは縦に開くのです。更に鱗に覆わ
れた胴体も動きます。明治から昭和の初めにかけて多くの自在置物が作られ
たそうです。そのほとんどが身近な生き物でした。
平安神宮に近い京都市岡崎西天王町あたりに高瀬好山の工房があったそうで
す。彼は明治2年に現在の石川県金沢市に生まれました。しかしその生涯は
ほとんどわかっていません。幼少の頃狩野派の絵を学んだ後、14歳で神戸
の輸出専門の陶磁器を扱う貿易会社に入り、陶器への絵付けの仕事をしたそ
うです。何故自在置物を始めたのかはわかりませんが、冨木伊助という名工
の下で修業した後に24歳で工房を開いたそうです。
彼の技術を持った職人がまだ残っているそうでその手法の解説がありました。
蝦を作るところでしたが、まずは型を用意します。この型に合わせて金属の板
からパーツを切り出します。そして打ち出しで甲羅の絶妙の質感を出し、更に
鏨'(たがね)を使って棘を際立ださせます。足の部分は折り台という道具
で金属の板を丸く曲げていきます。こうして筒状の蝦の足が出来ます。合わせ
目は蝋付けしてやすりで仕上げます。曲げる部分は針金を通し軸にします。
はみ出た軸を金づちで打って固定します。蝦のパーツは全部で約300個だそ
うで一体3ヶ月かけて作るそうです。気が遠くなりますね。
この工房で明治から大正にかけて名品を作ったのでした。"鯉"は目まで動く
ように出来ていて本当に驚きです。それでも鱗まで動くというのは本当に謎
です。これは扇形に地金取りをしたものを丸めて、そこに鱗を刻み入れ、それ
を穴を開けて繋げていくことで胴体が出来るのだそうです。胴体の中に軸が
あるのですが、その軸よりも穴を大きくすることで動かすことが出来るのだ
そうです。物凄い技術と経験ですね。
本来置物なので動く必要はないのですが何故動かしたのでしょうか?その原点
は甲冑です。甲冑は戦の防具で頑丈でなければならず、動きやすくなければ
なりません。戦国時代に明珍と呼ばれる甲冑職人の集団がいました。鉄を自由
自在に加工できる職人だったそうです。鉄の家柄とも呼ばれたそうです。しかし
江戸時代には戦がないので甲冑のニーズが減少したのでした。そこから自在置
物というものに変わったのだそうです。
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今週の日曜美術館は、宮城県出身で昨年亡くなった彫刻家佐藤忠良
の特集でした。70年以上にもわたり作り続けたのは人間の姿でした。
そこから生まれてくる美を模索し続けてきたのでした。
震災で一時閉館していた宮城県美術館ですがこちらに別館として佐藤
忠良記念館があります。戦後日本を代表する彫刻家の作品をいつでも
見られる場所が欲しいという県民の声から生まれたのだそうです。
現地から放送されました。
彼は朝食後すぐにアトリエに入り粘土を手に夜8時まで制作に没頭し
たそうです。この生活を70年間続けたそうです。彼が作る人間は
自然の摂理にあった人間の姿を描きたいと思って作っていたのだ
そうです。
彼は明治45年1912年宮城県で生まれました。幼い頃父が亡くなり
母は親戚を頼って移り住んだ北海道の炭坑町で針仕事をしながら家族
を支えました。最初画家を目指していたのですが20歳でロダンの
作品集に感銘を受け彫刻家を目指します。苦学の末、22歳で東京美
術学校に入学しました。卒業後彫刻家の道を歩み始めますが、昭和19
年32歳で召集されソビエト国境近い中国東北部に送り込まれました。
1年後敗戦し、捕虜としてシベリアイルクーツクの収容所に抑留され
ました。氷点下30度で強制労働があり枕木一本捕虜一人が死ぬという
過酷な場所で3年間過ごしたそうです。シベリアから帰還したのが
昭和23年でした。ただ生きるだけで精一杯だった中でも優しさを持っ
た人々がいて強さややさしさはどこから来るのか考える日々だったそう
です。
帰還から4年後の昭和27年、専門学校の美術講師などで生計を立てて
いた彼に福島県の常磐炭礦を採掘する会社から仕事の依頼がありました。
増産計画を無事故で達成した褒賞金10万円で記念の彫刻を作りたい
という依頼に対し、炭坑で働く父親を見守る母と子の姿を高さ2メー
トルあまりのセメントの像で作りました。この作品は彼と地元の職人が
共同で作ったのだそうです。報奨金だけではブロンズなどの材料費が
足りなかったのでした。そのため彼はセメントを使い地元の人に手伝
ってもらえないかと提案したのでした。大工が骨組みを作り、左官屋が
セメントを塗って、彼はそれを削ったのでした。誰とでも垣根なく付き
合った彼の宿舎には毎晩職人たちが差し入れを手に訪れたそうです。
2ヶ月間かけて作ったのでした。彼は制作中に街のあちこちをスケッチ
しました。ただ山や川を描くのではなく、その中で人間がどのように生
きているのか、どんな生活をしているのか掘り出しているようだったそ
うです。
そして彼の転機となる作品が生まれました。1956年の"常磐の棟梁"
です。モデルは現場で一緒に働いた大工の棟梁です。この頃から山村や
漁村を歩き働く人達の顔を彫刻にしました。顔は国土と社会と思想の
絶え間ない命の歴史、顔は人が咲かせる花なのだと語っています。彼は
土に生きる人々の中に見出した美を次々と制作しました。日本人によっ
て初めて日本人の彫刻が作られたと高い評価を受けました。
それから50年後今その作品が震災により大きな傷を受けた東北の人達
の心を深くとらえています。
彼は1970年代後半から野外彫刻を多く手掛けるようになりました。
仙台市の台原森林公園の高台に66歳の時の傑作"緑の風"があります。
青空の元森を渡る風を受けながら立つ健康な女性をイメージした作品です。
彼の野外彫刻の作品は全国で100点に上ります。
何故彼の作品は自然の中で豊かな表情を見せるのでしょうか。ポーズ
に秘密があるのではないかと言われています。"緑の風"も髪を持つことで
穴が出来てそこから風景が美しく見れるという形になっています。こうい
った背景との組み合わせを考えたポーズで制作した点が魅力的なのでは
ないでしょうか。屋外彫刻観に行きたいですね。
晩年の彼は精魂を傾けた作品が仙台市の宮城県立こども病院にあります。
それは入り口にあるレリーフ"おおきなかぶ"です。縦80センチ、
横1メートル70センチの作品です。90歳で制作しました。子供達は
自由に作品に触れることが出来ます。彼が描いた絵本をレリーフにしたの
ですがお爺さん、お婆さん、孫、犬、猫、鼠が大きな株を一緒に協力して
引き抜くという気持ちを忘れて欲しくないとこの絵本を描いたのだそうです。
故郷の子供病院から開業を記念する作品を依頼され直接自分の手で触れて
欲しいとこのレリーフを制作したのでした。制作は1年に及んだそうです。
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今週の美の巨人たちは、先週の続きでルーブル美術館、更にオルセー美術館
の特集でした。
1515年フランソワ1世がミラノに侵攻した際にレオナルド・ダヴィンチ
に会いました。そしてルネサンスに心酔していた彼は1516年にレオナルド
を最愛の弟子サライとともにフランスに招いたのでした。ロワール川沿いの
アンボワーズ城にレオナルドは住まいを与えられました。
しかしレオナルドは新たな作品を残したという記録はありませんでした。
実は別の目的があったようです。
レオナルドがフランスに来た時には3枚の絵を持ってきていました。1枚は
"聖アンナと聖母子"です晩年に描いた作品です。マリアの母アンナとマリア、
キリストが描かれています。もう1枚は"洗礼者ヨハネ"です。最後に描いた
作品です。天に一刺し指を向けるポーズは救世主キリストが再来するという
事を示しています。モデルは最愛の弟子で不思議な微笑をしていますね。
最後の1枚は"モナ・リザ"です。この絵はスフマートという輪郭線を描が
かず陰影のみで描いていますがこの手法はレオナルドが生み出しました。
"モナ・リザ"はレオナルドの死後フランソワ1世のものとなりました。彼
とレオナルドが出会った時、彼はまだ22歳、レオナルドは64歳でした。
彼はレオナルドを父のように慕っていたそうです。そして2人はあるプロ
ジェクトの実現に向けて綿密に計画を練っていたようです。しかし滞在わずか
3年でレオナルドは亡くなってしまったのでした。その夢のプロジェクトは
どうなったのでしょうか。
ロワール地方にあるシャンボール城。着工は1519年9月でレオナルドの
死後4ヶ月が過ぎた頃です。左右対称のシンメトリーで住居部分が正方形で
中央に階段がありルネサンス様式と言えると思います。これはレオナルドの
アイデアなのだと言われているそうです。イタリアでレオナルドが描いたデッ
サンでも中央に階段がある絵が残されています。この階段ですが2重のラセン
構造となっていてそれぞれ別々に交差しないようになっています。これは
レオナルドがイタリア時代から構想していたものだそうです。レオナルド
の知恵を城作りに反映させたのでした。外付けの廊下や無数の窓があり、
余りにも無防備で戦の多かった時代としてはありません。また屋根には大小
365本もの煙突があります。これは建築や造型の知識や美学を世界に知ら
しめるためだったようです。彼の夢はルネサンスの息吹でフランスを彩る
ことでした。そのためにはどうしてもレオナルドの知識が必要でした。しかし
死によって道半ばで途絶え残されたのが"モナ・リザ"でした。彼はどうや
って"モナ・リザ"を手に入れたのでしょうか。
ルーブル美術館には古いコレクションリストがあります。これは1810年に
ナポレオン1世が命じたものだそうです。ナポレオン1世が1793年にルー
ブル宮殿を美術館にしたのですが、遠征で手に入れた美需品や歴代の王達の
美術品が膨大にあり、コレクションリストを作らせたのでした。ここに
"モナ・リザ"に関してモデルは美人で有名だったフィレンツェの豪商フラン
チェスコ妻ジョコンダ夫人、これを4000エキュで買ったと書かれています。
4000エキュは最愛の弟子サライが受け取ったのでしょう。これは師匠を
失くしたサライへの餞別でイタリアへの帰国費用の額だったと言われている
そうです。フランソワ1世はレオナルドだけでなくラファエロなど多くの
イタリアルネサンス絵画を飾っていたそうです。その多くは素晴らしい大作で
"モナ・リザ"は単なる肖像画でそれほど大事に考えていなかったそうです。
当時は聖書の物語や歴史を題材としていた作品のほうが重要な作品でした。
"モナ・リザ"が有名になるのは20世紀に入ってからでした。びっくりですね。
1911年に"モナ・リザ"盗難事件が起きたそうです。有名人も巻き込んだ
事件だったそうです。シュールレアリズムの詩人ギヨーム・アポリネールが
容疑者として逮捕され、世界的に有名になったのでした。犯人は結局ルーブル
美術館に出入りしていたガラス職人ヴィンチェンツォ・ペルッジャという男
でした。ここから世界中の研究者が"モナ・リザ"の研究を始めたそうです。
イタリアのシルヴァーノ・ヴィンチェンティ博士は"モナ・リザ"の眼の中に
LとSというアルファベットが描かれていると語っています。これはモデルを
表しているということだそうです。LはレオナルドとSはサライのことです。
サライは最愛の弟子で美しい青年だったそうです。フランスでもずっと一緒に
いて"モナ・リザ"を売ったのもサライです。そして教授は絵の背景に数字が
見えるとも言っています。今なおミステリアスな名画のようです。
"皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠"はルーブル美術館の最大
規模の作品です。縦6メートル29センチ、横9メートル26センチです。
新古典主義の巨匠、皇帝の首席画家ジャック・ルイ・ダヴィッドが描きました。
無数の人々の表情が丁寧に描かれています。ローマ教皇がナポレオン1世の
戴冠を祝い祝福のポーズをしています。ダヴィッドはナポレオン1世の権威を
象徴するために本人ではなく、皇后の戴冠式を描いたのでした。
"グランド・オダリスク"はアングルの作品です。ダヴィッドの後継者として
一時代を築きました。裸体の美しさ、しなやかな身体の曲線美を表現するため
にあえてデフォルメしました。アングルはフランス芸術アカデミーの重鎮で
ルーブル美術館はアカデミーに認められた芸術家の作品を並べる場所となった
のでした。
"民衆を率いる自由の女神"は新古典主義の後に生まれたロマン主義の画家
ドラクロワの作品です。1830年に起きた7月革命を描いています。
ルーブル美術館には似つかわしくない天井画があります。キュビズムの巨匠
ブラックが描いた"鳥"です。アンリ二世の控えの間にあります。
20世紀ピカソとともに新時代を築いたのがジョルジュ・ブラックでした。
複数の視点を1つの画面に収めるという新しい絵画でした。まるでキューブ
のようだというピカソの一言からキュビズムと呼ばれるようになったのでした。
前衛的なキュビズムは伝統的なフランス絵画に慣れていた人達を驚かせ熱狂
させたそうです。しかしサロンでは大批判に会い大論争になったのでした。
そんなブラックの作品を何故ルーブルに描いたのでしょうか。71歳の時に
ブラックが描いたそうです。ノルマンディーの海を覗く小さな村ヴァラン
ジュヴィルを訪問しました。晩年ブラックはパリとこの村を行ったり来たり
して作品を作り続けたそうです。同じような絵がこの村の教会サン・ヴァ
レリー教会にも残されているそうです。ステンドグラスとして残されてい
ます。1953年にこの構想を考えたのだそうです。当時この教会にも
ルーブル美術館にも似合わないと批判されました。しかし第二次世界大戦
以降芸術の発信地として力を失い芸術の都としてのプライドを失いました。
当時作家で文化大臣だったアンドレ・マルローはフランスを再び芸術国家
に作るべく大胆な発想を次々実現したのでした。そこでマルローがこの
ブラックの試みを推進したのでした。鳥を描いたのは自由や解放を意味して
いるそうです。ルーブル美術館は色々な芸術を見守ってきたのですね。
次はオルセー美術館です。1986年に誕生した新しい美術館です。19世紀
後半から20世紀初頭のフランス絵画、写真、彫刻などおよそ8万点を所蔵
しています。中でもオルセー美術館といえば印象派のコレクションが有名です。
オルセー美術館は1900年代にパリ万博のために作られた駅でパリ東部の
オーステルリッツまで送るために作られたのでした。オルセー駅が終点だった
そうです。当時の鉄の柱が今でも使われています。外観は伝統的な石造りで
古めかしいくらいですが館内は鉄のアーチに支えられたガラス天井の近代的な
作りです。鉄骨はエッフェル塔を上回る1万2000トンが使われたそうです。
鉄の柱にも装飾がされています。作ったのは19世紀から20世紀に活躍し
たフランスを代表する建築家ヴィクトール・ラルーです。ラルーはフランス
中部の街トゥールで生まれエコールド・デ・ボザールで学びローマ留学後
故郷で仕事をしました。トゥール市庁舎は彼の建築でローマの遺跡から古典的
な建築美を学びその装飾性を得意としていました。しかし19世紀から20
世紀になる中で建築も変化が生まれ彼も翻弄されたのでした。
1900年はパリ万国博覧会でにぎわいました。20世紀の到来を告げる
万博は世界中の最先端技術が発表されパリはにぎわいました。華々しく誕生
したのがグラン・パレです。古代ローマ風の外観にガラスのドーム、そして
鉄のアーチが人々の目を惹きつけました。しかも4人の大建築家が関わった
大プロジェクトでした。ラルーはこれに対抗しなくてはならなかったのです。
グラン・パレ建築開始の翌年1898年からオルセー駅の建築が開始されまし
たが目の前にルーブル美術館があったために調和する重厚さを求められて
しまったのでした。そこであえて鉄を隠し外壁は石で覆いました。しかし中
はガラス天井の大ホールというモダンな駅が誕生したのでした。グラン・パレ
は駅のようで、オルセー美術館は宮殿のようだと語られたそうです。大成功
でした。開業からわずか30年で美術館に変わりました。1934年に鉄道
の転換によって役目を終えたのでした。人が訪れる事のない駅は廃墟となり
第二次世界大戦中は難民受付センターに、そしてその後ナチスの集会所と
して使われ暗い時代を迎えました。1960年代には解体して再開発という
話になったそうです。ル・コルビジェからホテルの提案もあったのでした。
そんな中、1970年代にパリの古い景観を守って良い建物は保存しようと
いう動きが生まれオルセー美術館は歴史的な建造物に指定されたのでした。
そして1973年当時の大統領ポンピドゥーはオルセー駅を近代美術館を
集めた美術館にするという判断をしたのでした。1843年から20世紀
初頭までの近代の作品が所蔵されています。
去年10月に大改装され印象派の部屋が新しく出来ました。"草上の昼食"
は印象派の父と呼ばれるマネの作品です。当時わいせつだと批判されフラン
ス美術界を騒がれました。ピクニックとヌードの組み合わせが受け入れら
れなかったのでした。モネの"ルーアン大聖堂"はユニークな主題の作品
です。同じような絵が2枚あります。構図は同じなのですが1枚はぼやか
してわかりにくくなっています。パリから北へ車で約3時間行ったところ
に印象派の画家に愛された街ルーアンがあります。ここはノルマンディー
地方の中心地です。実はモネは大聖堂を描いたのではなく、大聖堂が反射
した光を描いたのだと言われています。そのために同じ季節に何度もルー
アンを訪れ同じ構図で連作を描いたのでした。モネがこの絵を筆でタッチ
した回数を調査したら7万回もタッチしていたのだそうです。
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