我こする、ゆえに我あり。

世界のざわめき、音の記憶:リュック・フェラーリ・フェスティバル

不気味に美しい。

2006-08-03 00:11:00 | 報告
じつは先日のエントリーで書くべきことは書いてしまったような気がしていたのですが、宮岡氏からすごい画像が届いたので紹介します。初日の日にプレゼントされたCDの「幻のジャケット」というところでしょうか。



これは宮岡監督が今回のフェスティバルの報告に添えてフェラーリ関係者に配るために焼いたオリジナルCDで、なんとも迫力満点な絵を描いたのは甲斐荘楠音(かいのしょう ただおと)という大正から活躍した画家です。彼は溝口健二の傑作群の衣装や時代考証を担当した人だそうです。こちらに詳しいサイトがありますが、一度見たら最後、記憶から二度と消せないような強烈な女性像の数々ですのでご注意を。(T)

数の論理、数の倫理。

2006-07-29 07:40:20 | その後のアートカフェ
ようやくフェスティバルの後片づけも終わり、アートカフェは8月のワークショッップや10月の「船場建築祭」へ向けて本格的に動き出しました。

今回の上映会のデータもほぼ出揃いました。
それによると、三日間の上映で招待客を除いて180人以上の方々が来場したことになります。(各上映回の来場者の延べ人数は350人ほどになります。)

この数字については二つの見方があるようです。
ひとつは「こんなに人が来るとは思わなかった。」というもので、もうひとつは「やはりこれくらいの数のひとは来るものだ。」というものです。一見対極的ですが、どちらも潜在的な需要についての予測にもとづいている点では共通であり、違いはただその予測の内容にすぎません。それにしたがって、今回の上映会は(予想外の、あるいは、予想通りの)「成功」だったということになります。
ただ、これは「結果」だけを見ている分には妥当なように思えますが、今回の上映会を準備した当事者の感覚とは微妙にずれいています。そして、このズレは結構重要なのではないかという気がするのです。

上の見方に対する違和感は、あたかも(潜在的な)需要に応じて来場者数はおのずとに決まるかのような印象を抱かせる点に由来します。重要なのは、会場のキャパや期間に見合った適正規模の需要のあるコンテンツを選ぶことである、ということです。この見方からすれば、「フェラーリについては、そのバランスが適正であった。」ということになるわけですが、それは実際にやった後で言える(わかる)ことで、それ以前にはまったくそんなことは言えなかったわけです。

私たちが今回の上映会を準備するにあたって考えていたことは、それとは少し違うことでした。いままでフェラーリや現代音楽のことを全く知らなかった人も含めて今回上映される作品に関心を持ってもらえる人々は、おそらく大阪周辺にもかなりの数いるだろう、しかし、問題はいかにそれらの人々に作品の存在を知らせるかである、ということを考えました。いいかえれば、作品を、それと響き合う人々のもとに届けることができなければ、大失敗するだろうということでした。需要の有無の見極めや掘り起こしではなく、作品と(いまだ確固としては存在していない)受け手との〈媒介〉(メディエーション)こそが私たちの仕事だったということです。

そこで、船場アートカフェではこれまでしたことがないほどのチラシ配布と雑誌媒体への広報活動が行われました。(ネットももちろん活用しましたが。)

今回、この活動を通して私が学んだことは、この〈媒介〉の仕事は、なによりも上映される作品への愛情と、作品を作り、提供してくれたアーティストに対する敬意と責任に根ざしているのだということでした。それはまた作品と観客との出会いのために協力してくれたゲストの方々への敬意と責任でもあります。作品をしかるべき人たちに届けること、ゲストの方々を打てば響く人々とひきあわせること、それが出来なければ、上映会は失敗であり、運営者の自己満足に過ぎないものになります。
それが出来なければ、たとえ「宣伝」が成功してたくさんの人で会場が溢れても失敗なのです。
あるいは逆に、作品によっては、そのしかるべき受け手がはじめから15人もいれば十分であるという場合もあるでしょう。その場合は、その15人が当日馳せ参じれば、それで成功だといえます。

したがって、〈媒介〉の作業は「宣伝」とは似て非なるものです。

いまはべルリンで活躍する私の友人が、芸大時代に一度だけ行った貸しギャラリーでの展覧会の苦い思い出を話してくれたことがありました。ギャラリーを借りて、自分の作品を展示して、一日中ギャラリーで見に来る友人や家族や一般の人の応対をしていて、「私一体なにやっているんだろう」という虚無感に襲われたのだそうです。その経験を彼女は、「展示として全く機能していなかった」という一言で要約しました。今回、上映会を企画運営してみて、ようやく彼女の言葉の意味を実感をもって理解できました。

今回のアンケートでは、フェラーリの名前を上映会ではじめて聞いたという方や現代音楽をはじめて聴いたという方がポジティブな感想を書いてくださいましたが、作品と受け手をつなぐ仕事ができたのなら、今回の上映会は成功だったのではないかと思っています。

もちろん、私たちが上述のようなことに気がつき、学んでいったのは、実際の作業を通してでした。最初はまったくのんびり構えていました。そんな私たちスタッフの尻を叩いて「教育者」として振る舞ったのが、スタジオマラパルテの西原さんと宮岡さんだったのです。正直、最初私たちにはマラパルテが広報活動やメディアへの露出を強調することに違和感がありました。その意味がわかっていなかったからです。フェラーリへの愛情と敬意、作品を彼らに託したブリュンヒルトさんに対する責任、それらがその根底にあることが、そして、彼らが語っているのは「宣伝」や「動員」についてではなく、作品としかるべき受け手との〈媒介〉についてであるということが、最初すぐには飲み込めなかったのです。

ちなみに、芸術の分野で作品と観客との媒介の役割を伝統的に担ってきたのは、批評でした。しかし、私も関わっている映画の分野では、批評にもはや媒介の役割はありません。だれも映画館に行く前に(そして行った後にも)批評など読まないからです。おそらく、今日映画批評を必要としているのは、作り手だけなのでしょう。

作品を来るべき観客に届けること、という仕事を、今回はじめて出来たような気がしています。
ひょっとしたら、これこそが今日的な批評のあり方なのかもしれません。(T)

アンケートを読む。

2006-07-26 09:06:18 | その後のアートカフェ
昨日は事務局に行ってイベントの後片付け。
それぞれの日の入場者数やパンフの販売数などを確認したあと、会場で回収したアンケートにざっと目を通しました。

- 大阪以外から来てくれたひとが多いこと。
- 社会人の方が少なからず来ていたこと。
- 「大いなるリハーサル」については、字幕の要望が多かったこと。
- 二日目の冷房が強すぎたこと。
- ゲストの方々のトーク、講演、ライブが好評だったこと。
- お目当ての作品としては、『ある抽象的リアリストの肖像』、『シュトックハウゼン』、『セシル・テイラー』がトップ3だが、実際に見てよかった作品としては『ヘルマン・シェルヘン』が大健闘していたこと。
- 今回のような上映会の継続希望があること。

などがアンケートによってわかりました。ご協力いただいた方々、ありがとうございました。
簡単にコメントすると:

今回は大阪と京都を中心にかなり広い範囲にチラシを配布しました。本当は神戸にも重点的に配布したかったのですが、神戸アートビレッジセンター以外、どこに置いたらよいのかわからぬままに準備期間が過ぎてしまいました。神戸ならどんな場所があるんでしょうね? もし知っている方がいらっしゃいましたら、教えてください。

社会人の方がたくさんいらしていたのは、大変心強いです。学生のあいだだけでなく、むしろ学校を出たあとも働きながらアートに関わることができるのが、本当の豊かな社会だと思います。船場アートカフェでは、さまざまな企画を通して、日々の生活のなかに「気づき」をもたらし、人や場所とのあらたな関係を作り出す端緒になるようなアートとの関わりを探求しています。8月から始まるジャワのガムラン講座や本作りのワークショップでは、じっさいに作る楽しさを体験できますので、興味がおありの方はぜひ参加してみてください。(しかも、ほとんどのイベントは無料です!)

字幕の要望があるだろうことは上映前からわかっていましたが、予算などの関係でそれができないことも明白でした。そこですこしでもその要望に応えるために、パンフに「発言集」を掲載しました。これは船場アートカフェのオリジナル・コンテンツです。とくに語りの多い『ヴァレーズ』については重要発言を網羅しましたので、そちらを読んでもらえればと思います。

冷房の件は、確かに二日目は強すぎました。ご指摘を受けて三日目は弱めに設定しました。

ゲストのお三方にたいしては、感謝の一言です。正直なところ、ゲストの方々の発言・考察・演奏が、三日間を通して相互にこれほど見事な反響を生み出すことになるとは、主催者の私も予想していませんでした。今回のイベントが単なる上映会以上の体験になったとすれば、それはゲストの方々が主催者のぼんやりとした構想を明敏に察知し、それに形を与えてくださったからだと思います。

『ヘルマン・シェルヘン』の人気は、個人的には嬉しい限りです。おそらく今回上映された作品中、最も地味ですが、とても感動的な作品ですから。

今後もどんなテーマになるかはわかりませんが、上映会を行っていきたいと思います。そのさいはぜひまたいらしてください。(T)


フェスティバル終了。

2006-07-24 11:45:42 | 報告
昨日、無事全プログラムを終了しました。
ご来場くださった皆さん、スタジオマラパルテ(宮岡さんと西原さんの最強コンビ)、清水穣さん、長嶌寛幸さん、寺井昌輝さん、素敵なパンフをデザインしてくれたニュートラルの檜垣さん、PAを担当したアーツアポリアの小島さん、当日会場で動いてくれたアートカフェのスタッフ(ちなみに多くは大阪市立大学の教員と学生です)、皆様に心から感謝いたします。
そして、やむなく入場をお断りしなければならなかった方、もうしわけありませんでした。

最終日は

シュトックハウゼン+テイラー
Dowser のライブ
抽象的リアリストの肖像+シェルヘン

というプログラムでしたが、初日の宮岡監督のトーク、二日目の清水さんの講演と進んだ今回の上映会を総括するようなプログラムになりました。最初からそう意図していたのではなく、昨日、会場の外で上映中の作品の音を聴きながら、ふとそうなっていることに気がついたのです。

演奏するダウザーのお二人は、とてもかっこよかったですね!
全く異なる個性の持ち主だからこそ成立する自由で対等な対話としての演奏は、この日上映された音楽家たちの姿と見事に響き合っていました。
そんなお二人によって〈いまここ〉で音がつぎつぎにシンセサイズされていく様子は、スリリングの一言でした。

そして、最後はシェルヘンの独特な編曲によるフーガの技法が会場に鳴り響き、ちょっと出来すぎた上映会の締めくくりになりました。

これからしばらくこのブログ上で、今回の上映会を企画運営してみて気がついたことなどを書いていきたいと思っています。

このブログはスパム対策としてコメントを承認制に設定していましたが、少しのあいだ、制限を解除したいと思います。
もし上映会のご感想やご意見などがありましたら、お聞かせください。(T)

二日目。

2006-07-23 08:20:45 | 報告
無事二日目も終了しました。
今回の上映会はアーツアポリアの小嶋さんがPAを担当されているのですが、今日は昨日以上に小島さんのミキシングが冴えわたりました。とてもクリアーにかつ力強く一つ一つの音が像を結んでいて、とても通常の映画館では体験できない音響が生み出されていたと思います。アートカフェは映画館ではないので、後ろの人はスクリーンが見づらかったりもするのですが、この音でそれも相殺されるのでは、などと思いながら見ていました。

清水さんの講演は流石でしたね。
音楽における「具体」と「抽象」とはなにかという話からはじまって、現代音楽、とくにシュトックハウゼンにとって電子音と声が持つ大きな意味、それらが西欧音楽の伝統において占める独特の「余所者」的な位置、そして両者の密接な関係などなどについて、豊富な具体例とユーモアにみちた話術で語っていただきました。
お話をとおして、シュトックハウゼンとフェラーリとの関係やフェラーリが音楽史で占める位置も、おのずと見えてきたのではないしょうか。

それとこれも清水さんの講演で触れられていたことですが、シュトックハウゼンにとってライブが持つ重要性というのは結構、多くの現代音楽についても言えるのではないか、なんてことを思いました。「構造」としての音楽は、犬の鳴き声のようないわゆる具体音を用いようが楽器の音のような抽象音を用いようがまったく揺るがない。そこでシュトックハウゼンは具体と抽象との間を行ったり来たりし、ひとつのもの(例えばヴァイオリンの弦を弾くこと)にそれとは別のもの(キスの音を出すこと)を付け加えるわけですが、そのとき「ライブ」とは演奏行為そのものというよりはこのたえざる「移行」の出来事性のことなんでしょう。そして、今回の上映会で気づいたことのひとつは、この現代音楽のライブ性というのは、それを「見る」ことによってはっきりと浮かび上がってくるということです。大真面目にやっているからこそ滑稽なパフォーマンスを見ることが、CDなどで音を聴くだけではとっつきにくい現代音楽への最良のイントロダクションでありうるというのはちょっとした驚きでした。
じっさい、『モメンテ』を演奏する楽団員とセシル・テイラーのカルテットのプレイは、映像で見るととてもよく似ていることがわかります。フェラーリがそこに同じ種類の音の探求を見ていたことは、この二本の映画見ると一目瞭然です。

              * * *

上映終了後は、人員整理で大活躍した増田氏を隊長に「船場居酒屋探検隊」を結成、アートカフェ周辺の飲み屋カルチャーを探求すべく総勢9名でフィールドワークを敢行しました。
思いのほか近くに料亭ならぬ「漁亭」があることを発見し、さっそく潜入。
プロレスラーのような風体(というかほんとにレスラーかもしれない)の店長に勧められるまま「アントニオ猪木直伝スペアリブ」を筆頭にユニークな料理をつぎつぎ注文。
店内はある意味、ネタの宝庫。
バイト女子学生は携帯やデジカメで写真を撮りまくる。きっといまごろ彼女たちのミクシィ日記にアップされていることでしょう。
私は早々にウーロン茶に切り替えましたが、レスラー店長は持ってくるなり、「ルイボスティー頼んだの、だれ?」「ウーロン茶なら頼んだけど。」「じゃああんたや。」「え?」「ルイボスティー、みのもんたが一時期激やせしたやろ? あれこのお茶のせいなんや。」「じゃあ、ウーロン茶じゃないの・・・?」「うん。いや、これほんま体にいいんや、お勧めやで。」とグラスを私に手渡すのでした。
最後には、浪花グランドロマン代表でもある福島氏がマイ筆ペンを取り出し、勘亭流で「船場アードカフェ」とボトルに書き込み調査終了。店長はその筆跡を見て、「おお、綺麗やな・・・」といたく感銘を受けておりました。(T)


オープニング・ナイト

2006-07-22 06:53:35 | 報告
とうとう初日が開けました。
午前中まで降り続けた豪雨は嘘のようにあがり、少し青空までのぞく素晴らしい天気になりました。

ご来場くださったみなさん、スタッフの方々、そして、宮岡監督、どうもありがとうございました。
昨日は帰宅するや倒れるようにそのままベッドへ。
いま宮岡監督のプレゼントを聴きながらこれを書いています。

ライブ用のサウンドシステムで上映された作品からは、テレビで見ていたときには聴こえてこなかった音がたくさん聴こえてきました。
「大いなるリハーサル」は私もきちんとしたフォーマットで見たのははじめてでしたが、セシル・テイラー・カルテットの演奏が凄すぎて、見終わった後にはライブの後のような脱力感に襲われてしまいました。

トークの司会初体験はというと、ほんとに難しくて、宮岡さんに助けてもらいっぱなしでした。
正直、情けなかったですが、いい経験になりました。
当たり前なのですが、やっぱり見るのとやるのは大違いですねえ。

さて、今日と明日も上映があるわけですが、本日同様、立見をお願いしなければならないことになると思います。来場される方には混雑していろいろとご不便をおかけすることもあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。
また、万が一、それでも入りきらず定員オーバーになった場合には、やむを得ずご入場をお断りしなければなりません。最低限の安全性を確保するための措置ですので、その場合は、どうぞご理解ください。(T)

いよいよ

2006-07-20 23:18:13 | 報告
明日から始まります。
「リュック・フェラーリ・フェスティバル -世界のざわめき、音の記憶-」@船場アートカフェ。

しかし、この雨、いつか止むんだろうか?



本日はビルのオーナーでもある岡本さんのサポートを得て、音響関係の機材を搬入およびセッティング。
アーツアポリアの協力で今回のサウンドシステムは、大きなサブウーファーを含めたスピーカー全4台体制。
十分にライブができる音響環境での上映が実現します。
このサウンドシステムで、宮岡作品のフェラーリの演奏や「大いなるリハーサル」に登場するマエストロたちの演奏がどんな風に聴こえるのか。
作業を見ていてワクワクしてきました。

ちなみに、先日掲載した「アートカフェへのたどり着き方」をバージョンアップしておきました。写真も増やしてちょっと詳しく、正確になっています。
明日はおそらく雨になると思いますが、どうぞ無事会場にたどり着いてください!
整理券は17時30分から配布します。

初日ですので多少バタバタするかもしれませんが、どうか大目に見てやってくださいますようお願いします。

では明日お会いしましょう。(T)


マラパルテからのおくりもの。

2006-07-16 15:58:02 | 報告
「贈り物は、相手がはっとするほどに、その心を深く打つものでなければならない。」(ベンヤミン)

宮岡秀行という人は、そんな贈り物をする才能に恵まれているに違いない。
「スタジオマラパルテによる映画史」の初日、ジョナス・メカスの作品を見にシネヌーヴォに駆けつけたひとなら、同意してもらえると思う。あの日、宮岡氏は、観客のためにあるプレゼントを携えていた。前日の夜に不意に思いついたという「ある作品」を、急遽広島から持参したのである。
あらかじめタイトルの告げられぬまま、その作品がメカスの映画に続いてスクリーンに投影されたとき、会場の空気は一変した。それをそこにいなかった人に言葉で伝えるのはむずかしい。しかし、これこそ映画体験と呼べるものだった。上映されたのは、宮岡氏がノルシュティンからプレゼントされたという『外套』のフッテージ。エモーション・ピクチャーズ。スクリーンに明滅するイメージの運動が、それを息を殺して凝視する観客の感動と一体となって、巨大なうねりを作り出していた。

21日の上映初日の来場者(先着25名)にプレゼントしたいものがある、と宮岡氏から連絡が入る。
宮岡氏が個人的に知るフェラーリ、エリック、テイラー三人の記憶に連なるようなものだとのこと。
それが何かは私もまだ知らない。(T)

アートカフェへのたどり着き方。(改訂版)

2006-07-15 21:19:33 | 報告
船場アートカフェは、この界隈に来たことがない人にはちょっとわかりにくいところにあります。
まずはグーグルマップで場所を確認してみてください。

最寄り駅は地下鉄御堂筋線の本町駅です。この駅には異様にたくさんの出口があり、それがひとを迷わせるもとなんですが、僕がいつも使うのは9番出口です。この出口から中央大通り方面の階段を上がり地上に出ると、中央大通りに面した場所に出てきます。そこから中央通りを渡り、船場センタービルのガード下を抜けて心斎橋筋を南下し、最初の通り(鈴木株式会社の角)を左折すれば船場郵便局に面した角に来るはずです。
もうひとつの簡単な行き方は、とにかく「御堂筋東側」に出てくる出口を選んで地上に出て、御堂筋をそのまま南下する方法です。しばらく行くと、TOTOのショールームがある角に来ます。ここを左折して心斎橋筋を横切って直進すると船場郵便局に面した角です。
船場郵便局の向かい側にはコンビニのampmがあります。アートカフェはこのコンビニの並びの建物の地下です(1階のテナントはうどんの「げんき家」)。すぐ隣にはアートNPOのCAS(キャズ)が入ったビルがあります。ちなにみに、アートカフェの入ったビルの並びには自動販売機だけが置かれたスペース(ドリンクステーション)があり、座席もたくさんあるので、早く着きすぎた場合にはここで本などを読んで快適に時間をつぶせます。雨の日も安心です(ただし日曜はしまっているらしい)。
これで大体場所はわかりましたでしょうか? (T)
もうひとつ参考地図

映像人類学の夕べ

2006-07-15 20:47:26 | 報告
昨日はダウザー寺井さんが下見でアートカフェに来場。
アーツアポリアの小嶋さん(当日PAを担当していただきます)を交えての打ち合わせはあっという間に終わってしまい、そのあと、タイ音楽講座で使われている楽器でひとしきり遊ぶ。半分に切った竹が赤く塗られて木の枠にはめられているだけの楽器(ちゃんと名前があるはずです、もちろん)があって、ほんとに単純極まりない構造にもかかわらず、じつにいい音がする。
演奏するときの身振りがまたユーモラスでいい。
その後プロジェクターのテストを行ったあと、中崎町にあるかなりユニークなカフェ(?)Salon de AManTo に行く。京都大学の若手研究者主宰の映像人類学の夕べである(寺井さんのご紹介)。細い路地にある古い一軒家で、なんでも一切廃材を出さずに人家をリノベーションして多目的空間にしたらしい。学生風の人からアート関係者、研究者、会社員、地元の人まで、じつに多様な人々が集まって、自由に対話するというとても魅力的かつ知的な空間が生まれていました。
今回上映された作品はおもにフィールドワークで撮影した映像を上映会用に20分程度に編集したものだったようですが、僕には正直、短すぎました。リベットやワイズマンみたいに退屈さを恐れずに4時間くらいの作品にしたらきっと相当面白いものになるのではないか。経済のグローバル化が呪術や魔術を消滅させるどころかむしろそれらを再活性化し、危機に直面した人々がそれら伝統的なリソースを(再)発見していくというのは、とても興味深い。(T)