どうも近日、財政赤字を埋めるための増税という愚かしい愚行が官僚組織により蠢いている。 やはり、経済学などたいして勉強などしたこともない頭でっかちの官僚どもが体面だけを重んじて執行した政策であろう。 経済学の概念を少しでも理解すればこのような単純かつ愚直な政策に甘んじることは無かったであろう。 少なくともミクロ、マクロ、そして計量、経済を学んでいれば『時系列的』そして『横断的』に経済政策を考慮し、その場その時において未来および広い範囲での経済効用をもたらす経済政策を掲げよう。
そこで、今回は『減税』政策による経済喚起の効用について話そう。 減税ということで、今回はミクロ経済に基づいて各個別の税制における減税について話していく。
★消費税
まず、今一番ホットトピックとなっている消費税であるが、これこそ今デフレ下にある日本において増税を図る意味がほとほと無い税制もないであろう。 もともと、消費税のようなものは財源として徴収する場合は所得税(個人および法人を含む)を徴収しづらいような発展途上国において断念して採用されるような税制である。 また、先進国においてその税制がとられる場合は、財源としてよりも、過度な経済活動によるインフレ発生への対抗処置として執行されている税制である。 第一、この税制は逆進性の強いもので、増税が購買力へ反比例する低所得層〜中所得層への影響がもっとも大きいために、総需要を落とす。 故に、マクロ経済レベルでの停滞を最も招きやすい税制である。
更にこの税制は最も脱税しやすい税制であることも顕著である。 海外への輸出している産物においては『輸入戻し』なる措置がとられ、免税措置がとられる。 日本国内においても免税店なるものが存在し、免税店で販売されている限りは国内で販売されても免税される。
こと更に、旧西ドイツで採用されていたTurn Over Taxや現在EU全土で採用されているVAT(付加価値税)と違い、サービス産業への課税があやふやである。 たとえば、理髪店においてシャンプーへの課税を行うか理髪師の提供するサービスそのものへかけるかが問題となる。 シャンプーへ課税すれば、理髪師への営業税との二重課税により理髪店への営業を圧迫するし、理髪師のサービスのみに課税を行えば理髪師の知り合いへ他の販売店よりも廉価で理髪師がその知り合いへシャンプーを売却することで理髪師とその知り合い等が税制の裏で得をすることになる。
また、居酒屋においての酒の扱いにも問題が出る。 居酒屋が問屋と提携して取引をしていれば最終卸売段階は居酒屋に特定できる。 しかし、居酒屋がちょびちょびと近所の販売店で足りない酒を購入して売りつけているような状況であれば、消費税がその販売店と居酒屋の双方で課税され、その双方の負担は居酒屋の顧客にも振りかかる。
だがなんにしろ、この税制の最大の問題は、国家間ないし地域間を移動して経済活動を行なっている者がいる場合であろう。 たとえ、地域Aにて消費税に貢献していても、彼女が地域Bに在住していた場合、その徴税は彼女の生活している地域には還元されない。 これが国家間で起こっているならばなおさら問題で、日本国内で生産され外国で売られたものは輸入戻しで無税であるが、国家で起こった新興企業や輸出出来るだけの規模がない中小企業は課税により搾取されている。
結局は、即得利権を得て海外へ多く売っている大手企業は税の輸入戻しで得し、国内市場で頑張っている中小企業は課税により苦しめられる結果となっている・・・。
★ VAT(付加価値税):
EU設立の際に欧州の殆どの国家で採用された最も進歩的な間接税といえよう。 これは消費税と異なり理髪店や居酒屋などで起こったいざこざが起きない。
ただ、その他の諸問題は消費税と同じく、デフレ状況である日本において採用すべき税制ではない。
また、消費税よりもより洗練された各店舗による簿記の明記および提出、添削が義務付けられなければならない。
また、贅沢品への課税の比率を上げているという話であるが、これは『贅沢』という『無形の付加価値』への課税をしているのである。 故に、日本とアメリカ合衆国にある消費税よりもより『主観的』な尺度が設けられていることも事実である。
更に、『何を贅沢』として位置づけるかも問題である。 原料品の食料であっても、高価なフルーツにはただ『贅沢』という『無形の付加価値』をつければいいであろう。 しかし、テレビは昔はぜいたく品であり、つい最近までは必要品、そして最近は無用の長物という意見もある。 パソコンは昔はとても贅沢な品物であったが、今では必要品ともいえよう。
それに、付加価値の多いものや贅沢品に課税することによってそれらの購買意欲を削ぐことは経済的にはマイナスではないか? 付加価値の多いということは、その製品およびサービスを提供する上で、それらを購入することにより多大な経済活動と雇用を産むであろう。 その経済活動と雇用を抑制することは果たして、この不況下において得策か? むしろ、贅沢品への税を廃税して贅沢するだけの余裕を庶民に持たせて、経済活動と購入の促進だけでなく、庶民への文化的生活水準の向上を勤めさせるべきではないのか?
★ (個人)所得税:
これはもっとも不公平であるが最も効率的な税制である。 累進課税であればあるほどに不公平ではあるが最も効率的である。 そもそも効率的という意味は少ない費用(コスト)で最大限の効果を発揮できるということである。 つまり、能力と成果の分だけ働いて稼いだ所得を根こそぎ分捕る税制ではあるが、どうせ貯蓄へ廻る所得分に対して税として徴収するわけだから総需要を減退させない、つまりマクロ経済的な費用が少ない。 更に、手取り所得を貯蓄に回すだけの余裕がない中所得層へは少なめに、そして低所得層へは免税となるために彼等の購買力は温存される。 故に累進的であればあるほど所得税は直接余裕のある層から税を徴収し余裕の無い層には余裕を与えるという直接的な計画性を持つ。
しかし、やはり不公平という問題に直面する故に、保守層および自由尊重論者等からの反発を受ける。 やはり、それ相応の所得を受ける立場の者からより多くを取るという趣向が人民の向上心をそぐのではないか?という意見を呼ぶ。 だが、あくまで公的部門を必要としその財源として徴税が必要であるかぎり、この税制は最も低費用で確実に取れる財源として欠かせない。
もし、仮にこの税制において免税が許される場合であれば、公的部門のそう元締めを仰せつかっている国家政府の財政赤字および国債発行高を極限まで減らす必要があるであろう。 たとえ、好景気であれど、いや!好景気だからこそ過度な経済過激によるインフレなどの悪影響を回避するためにも、財政赤字の払拭および国債の減額のためにより累進性の高い所得税を導入してマクロ経済的費用を抑えつつ財源を確保するしかない。
だがかわりに、不景気の時にこそ、国家赤字を暫定的に容認し、暫定的に国債発行を促して、低〜中所得層への免税措置を促して高所得層へも比較的低税率を設けて、刺激的なマクロ経済面での景気喚起を促進させるべきであろう。 さすれば、たとえ税率が前年と同等でも、経済喚起がなされた後であれば納税可能な個人も増え、税率が同一であろうとも税収そのものが増えるという仕組みになる。 むろん、インフレなどが懸念される場合であればリバウンド防止のために増税してインフレを食い止めるべきではあるが、税率を上昇させるか否かはケースバイケースであろう・・・。
★法人所得税:
共産党などの社会主義勢力が最も上げたいと思っている税制である。 だが、我々にとっては最も下げたい税制である。 実は、冷戦後のグローバライゼーションにおいて最も降下の激しい税制である。 日本とアメリカ合衆国、ドイツのみがこの波からは遠ざかっている。 ドイツはともかくアメリカ合衆国とは驚きを隠せないであろう。 だが、今から話す真実を話せばそれも納得がいく。
法人所得税とは、グローバライゼーションにおいて外資勧誘にとって最も重要な課題といっても過言ではないであろう。 そもそも、課税の低い国でビジネスしたいという欲望はどの企業でも持ち合わせているはずである。 ドイツで未だ50%も法人税を掛けている理由は、ドイツというお国柄でそれだけ課税しても、ドイツに進出する外資系企業にとっての恩恵が高くポリティカル・リスクが極限に低いという見解がある。
しかし、アメリカのケースはどうであろうか? あの自由と権利の自由資本主義の大家であるはずのアメリカ合衆国がなぜにイギリスやフランスよりも高い40%もの法人税を掛けているのか? それは、まぎれもなく外資を追っ払うためである! そんでもって、アメリカ合衆国地元の中小企業が国家政府のパトロンである大企業に歯向かうことを阻止するための政策でもある! そりゃぁ、企業ってったてぇ、お金持ちの企業ばかりか、この不況下においてはこの日の食い扶持をつないでいくのがせいぜいな企業がたくさんである。 そんな時世において高い税率なんて御免被りたいものである。
ちなみにいっておきますが、法人税は個人所得税とちがって累進しづらい、ってか累進できないものなんですよね! 個人の所得であれば掛ける利潤と費用(その差である利益も)を大きな範囲で直ぐに調節するのが困難かつ経済全体におよばす可能性はそんなに高くないですが、企業となれば会計上の調整はいろいろとできますしそのおよばす影響は大きいです。 んまぁ、利益に課税するなれば費用の水増しをすればいくらでも脱税はできます。 そんで、利潤に課税すれば今度は逆に費用をリスク増大可能性ギリギリまで引き下げればその企業にとっては嬉しことです。
そして、左翼政党および偏狂な愛国政党にいわせれば法人税は外資の侵略を阻止するものだ!といっておりますが、果たして国民のためをおもえば外資の参入は思わしくないものなのでしょうか? 先ほどアメリカ合衆国の例えでも言いましたように、どちらかというと国内にある即得利権を保持する企業を守るために存在していると断言しても過言ではありません!
むしろ、外資が日本国内企業に参戦すると同時に、労働需要が上がります。 つまりは、労働者市場において雇用の需要があがり、買い手市場から売り手市場に変わり雇用者のエコノミックレントが上がるわけです。 つまりは、高い法人税による即得利権保持のために、被雇用者による剰余価値による搾取の根源とされていた雇用者等が買い手市場の独占により市場価格よりも少ない費用で雇われる代わりにより多くの利益率を被雇用者に分け与えていわけです! だが、法人税を激安にするかゼロにするかによって、より競争を強めることにより逆に被雇用者が他の競争相手の被雇用者よりもより多くより良質の雇用者を雇うために遠慮して雇用者を雇う賃金を市場価格よりも上げる傾向になるわけです。
★ 土地や建物への税
土地へ掛ける税は間接税(例:消費税)のような公平性(使った分だけ払う義務)と直接税(例:所得税)のような効率性(マクロ経済における少ない影響など、より小さい費用でより大きく取れること)の双方の利得を有する税制である。 小さな政府を目指すジオ・リバータリアンというリバータリアンの一派や、ミルトン・フリードマン博士のような新自由主義者の代表とされる人物が土地税と支持している。
まず、公平性(使った分だけ払う義務)においては、人口密度の大小(需要の大小)や開拓や維持(維持費の大小=供給の大小)により使った分そして使いだけの費用に応じて個人が納税する義務を果たすからである。 つまり、消費税のように経済活動を停滞させモラルハザード(ペナルティを加算するべきところに加算されず、ペナルティを加算されるべきでないところにペナルティを加算させる)が起きることもない。
また、効率性(より少ない費用でより多く徴税できること)においては、より人口密度の多い(経済活動が活発)地域でより広い土地を保有するものの可処分所得を貯蓄へ回せるだけの余裕がある個人であることが殆ど、かつ土地の保有から生まれる付加価値発生率が高いことに所以する。 そして、『土地の使用』という外部に与える影響に比例して課税するわけである。 可処分所得に余裕がある個人に課税することは所得税と性質が似ているが、所得の保有は個人の努力や成果に報うためのものであるが、その所得を土地の購買に回したり、その土地から利潤を得ることは、少なくとも土地という自然資産(自由主義者のトマス・ペイン殿もこれは個人資産と異なり公平に分け与えるべきであると説く)の使用である故に他個人への多大なる影響を与えると同時に自然資産の使用権利の受諾という意味でも課税への公平性がある。
そして、ジオ・リバータリアンとミルトン・フリードマン博士が土地税を支持した理由の最大の理由は需要と供給に影響する価格弾力性が殆どゼロであるという理由からである。 つまり、価格の変動によって供給量が変わらないということであり、税金を課せたところで土地の売買の所有や売買の影響がでないということである。 そして働いた分、成果の分へ比例して課税することにより成果主義を損ねるという不公平さも生じない。 価格弾力性の無い理由として、まず土地は直ぐに供給を増減させることができず、供給量が固定されたものであるということである。 故に、需要はそこの必要性や便利性によって変動するもの、つまり価格は変動する、が供給量に変わりがない。 つまり、課税で価格を引き上げても需要される供給分への影響が出ないため、経済活動に被害を被ることなく課税できる。

上記の図のように、供給における価格弾力性がゼロなために、課税により居住者への負担は無く、負担は供給者である地主に課せられる。 供給における価格弾力性がゼロの場合は、もし居住者に負担を強いた場合は需要曲線よりも上の値段になってしまうので需要が供給よりも減退して過剰供給となってしまう。 故に、需要と供給の均衡点へ戻るために仕方なく地主が負担することになる。
もし課税されなれれば、この供給における価格弾力性の無さを生かしてその土地所有者がより多くの利益を得ている場合が殆どである。 それは、価格弾力性の無さを利用して、需要と供給の均衡点上の価格よりもかなり高い価格を設定して、その土地保有者の得るべき利益よりも多い利益を得ているからである。 それは、価格を釣り上げてもその土地を使用する個人等、たとえばその家を借用している個人等や商業を営んでいる個人等、はその土地の立地条件(仕事に最寄りだとか家族が住み慣れているとか経済活動が活発な商業地区であるとか)故にいくら不当に高い利用用を払われてもそこを出ていくわけにはいかない。 故に、その必要以上に高い利益率を独占されることを拒むために課税して、その土地保有者への利益に比例した課税をしたり、その不当な利益の分をマクロ経済レベルで恩恵を与える部所に公的投資として投下することができる。
もし課税が少しでも供給に影響を与える傾向が少しでもある(供給における価格弾力性が有る)場合は、土地の供給が減るということなので、居住者達はその減少した供給を得るために課税の一部負担として地下の高騰を認めるであろう。 だが、供給における価格弾力性がゼロの場合は、課税により供給が減らないので価格を上げて居住者たちが負担を増やして供給をせめぎ合って奪う必要もなくなる。 また、地主が値段を上げた場合は居住者も流石に徐々に撤退をはじめる。 故に、土地税の課税による負担は供給側である地主のみの負担にするために、地主のみが利益を独占することを防ぎつつ、居住者への負担を無くす(多数派の個人の可処分所得への影響が出ない)ことがこの税制の強みである。
ただ、この税制の問題は、土地や自然資源が限られていて環境への負の影響を懸念されている国や地域では上記の理論は完全なる正当性を持つであろう。 しかし、問題は、土地が余っているような国や地域でもそこそこまかり通る理論ではあるが100%適応できる税制理論とも言えないということである。 それは、Wikipediaでも記載されているボリビアの例でも見られる。 経済活動が未だ貧弱で土地が余っているような国や地域では、むしろ土地への課税を無税にするべきではないのであろうかという意見がある。 またこのような国でも、比較的人口密度と経済活動が活発な都心部の土地に課税した場合は、課税によりその国から退却する地元の投資家や外資が撤退してしまう。 むしろ、都心部への課税を減税もしくは廃税して、その余分の可処分所得を地方へ回せるような配慮をした方が良いという意見もある。 つまり、都心部の土地売買を活性化させるとともにその相乗効果を土地が余っている地方へも波及させるという魂胆である。
そして、更なる問題は、後者の供給における価格弾力性がある場合ではなく、前者の供給における価格弾力性が無い場合に、政府に課税の自由裁量を許すのであれば、この土地の所有者が価格弾力性の無さの有利性を使って不当利益を得ていたことを政府が行う事もできる。 つまり、価格弾力性が無いために需給量を減らさず増税をして、政府が必要以上の課税を強いることも可能である。 経済環境を配慮した良識的な政府である分にはその心配はないであろうが、政権が愚直で経済環境に無知な政府が台頭した場合には怪訝しなければならない状況である。
あと、土地そのものに課税するのではなく、土地の上に建っている一軒家、アパートやマンションなどの一部屋、商用テナントなどに課税する制度がある。 これは、土地税の延長であり、土地の上に建っている不動産への課税である。 この場合も土地税と同じく人口密度や維持費、環境への影響、その不動産への需要量を考慮した公平な税である。 また、その不動産の価値およびそれから得れる利潤と比例した課税になるので、より可処分所得に余裕のある不動産所持者により多く課せられる税でもある。
また不動産税は上記に述べた土地税と同じ欠点をも持つ。 そして更に土地税にはない不動産税の弱点は、先程紹介した付加価値税(VAT)のように、「なにをもって価値付け判断を行うか?」というダイレマに悩まされる。 たとえばU.K.の不動産税の場合はフラット(アパートメント&マンション)には安く、テラス(現代式/西洋式の長屋)には中ぐらいに、そして一軒家にはより高く課税している。 むろん、人口過密地帯ではフラットへ低所得層が住む傾向にあり、人口密度の低い一軒家へは高所得層が住む傾向があることは否定できないから、人口密度に比例するのではなくタイプ別に累進課税する理由も解る。 しかし、所得税が既に存在している場合であれば、所得に関して既に累進課税が施されているので、不動産税において所得への累進性を考慮するべきか? むしろ、居住者もしくは所有者の所得以外にも考慮しなければならないであろう。 もっとも、重要なことはフラットよりもテラスや一軒家の方が維持費が高いことと見栄えが良いことである。 維持費が高い上に更に高い課税を強いられたら、古き良きテラスや一軒家を大切にして過ごすという感覚がそこなわれ、みな殺風景なフラットへ住むことを期待しかねない。 その場合は、街や田舎の景観に影響を及ぼし、『景観が損なわれる』であろう。 それになにより人口の過密化も激化する。 故に、より混雑し殺伐とした都会化が進み、田舎の過疎化および景観の損傷が懸念される。 それが既に日本でも起こって、田舎のムダなアパートメント林立という愚行を招いた。
土地税率と不動産税率を全地域にて固定化した場合には、需給のバランスが偏る形になることは目に見えているから、その弱点については多く語らない。 土地税や不動産税をより自由裁量にした場合には、人口密度や環境への影響、所得率に合わせた公平かつ効率的な税制を敷くことが可能である。 ただ問題は、地中海の人々のように職場に近い環境に住むケースが大多数である場合には人口密度に比例した課税は良くないであろう。 地中海の国ではその他の国々と違って長距離の通勤通学を好まない。 そして、農業国が殆どなので地方が得ている所得や利潤率も都会部の中低所得層よりも高い。 それに、地中海世界の人々のカントリズム(生まれ育ち慣れ親しんだ土地で長く一生を過ごす主義)が強いために、地域による人口の偏りも諸外国ほどではなく人口も土地利用様式もその土地の必要性に従って均衡配分されている。 故に自由裁量制の土地税と不動産税も必要なく、土地税や不動産税はより固定的なものが好まるであろう。
小生個人の意見では土地税が不動産税よりも能率的にも倫理的にも優れていると考える。 土地は自然資産だが家、フラット、商業テナントは個人資産である。 自然資産は公共物と考え公共物を管理する組織、つまり現代では政府、が管理に責任を持つこと然りである。 むろん、小生は土地を市場に出して売買を否定するつもりは毛頭ない。 横暴な計画経済として国有化して制御せよという意味ではない。 むしろ、土地の売買をより個人や企業に任せた方が政府が環境や商業活動の傾向、住宅模様の流行などの情報を逐次把握しなければならないような非効率なやり方をしなくて住む。 それで、土地の売買を自由市場という自然発生的な物流システムに任せて、そのシステムが暴発したり停滞しないような修正装置として土地税が必要であろう。 建物などに掛ける不動産税であれば、先程紹介したとおり価値付け判断の問題が大きいし、なにより個人資産への課税という私有財産への介入という倫理的な問題を産む。 それに、先程紹介したような景観問題においても、不動産税は助長させる原因となるが、土地税であればそれを阻止する効果がある。
ただ、これは土地税が上記にあげたすべての税制、そして後に述べる排出税とインフレ税よりも優れているという話であって、この税制に問題が無いわけではない。 それは先程述べたように政府がその税制の性質を逆手にとって悪用する場合も十分にありえることである。 そして、政府介入せずに土地も自由市場に委ねた方が自然に人民が需給にあわせて人口密度や土地使用様式を変えてくれると期待することもできる。 たとえば、その土地利用者が得ている利益(需要と供給の均衡点よりも高い価格)を課税して政府の税収とするよりも、購入や投資などで民間市場に流した方がマクロ経済的効果があるかもしれない。 また、その利益が土地使用者の懐に貯まるような状況であれば、その土地使用者の市場における評判が低下して彼もしくは彼女のビジネスと評判が危うくなる。 また、土地使用様式の偏りの解消も課税による誘導でなくとも自由市場でも可能であろう。 人口密度については、政府にとってその過疎地が有効な場所であっても民間にとっては興味の対象に無い場所であることもある。 また、環境問題に関しては排出税の項目で詳しく述べるが、環境に関してもその偏りが見られれば民間の自由意志で交渉もしくは抵抗を行うことができる。 それに、最初はその場所の便利性により価格が高騰しても、環境や人口密度過多もしくは過疎による影響が出れば、それは即座に市場に現れ価格修正が行われるであろう。
★環境税:
この税は英国古典経済学者のピグー博士のよって考案された税制から学んだものである。 それは、製品やサービスを生産することによって、金銭的な費用など内因的な費用だけでなく、この生産過程から輩出される公害や資源の過剰搾取による資源枯渇など外因的な費用の存在をピグー博士が指摘したことに所以する。 その外因的費用はその生産者には負担を強いないが、その周りの環境および個人等に負担される。 その負担への損害をその生産者に負担させ被損害側へ補償を行う役目を政府が環境税という形で行うべきだという発想である。 故に、この生産高に比例した課税方をピグービアン税と言われる。
最近一番の話題となっているものは排出税であろう。 この排出税はCO2の一定の排出量を定めてそれを上回ればペナルティとして課税させられ、下回れば交付金が得られる。 そして、地域間や国家間で排出量の取引がなされ、土地面積ごとの排出量密度などを測定し、余分に公害を輩出するための権利を政府から排出税を余分に払って得ることや、より排出量密度の低い、つまりは課税率が低い、経済的過疎地へ工場を移転させるなどという例が見られる。
だが、この環境税はここ近年登場した税制であって未だ税率の決定法や課税対象への価値付けなど議論されている盛りである。 例えば、この排出量というのもどのように計量するかという問題もあれば、その計量された基準値はどのように決められるかが問題である。 その計量する基準および猶予される排出量が実際にどれだけ環境およびそこの住人に影響を与えるかという疑問は払拭されていない。 むしろ、これらの基準はなにかと比例もしくは反比例して計量できるものなのか?
そして、森林伐採や漁獲量の規制などにも環境税が掛けられる。 EUにおいては、漁獲量に比例した課税が魚師にかなり掛けられている。 だから、ヨーロッパでは魚の値段が非常に高い。 これは魚の過剰需要による魚の枯渇を回避させるために設けられた。
しかし、問題は需要における価格弾力性である。 価格弾力性が高ければ課税によりその需要量に抑止をかけることができるであろう。 それはヨーロッパでは魚が高ければであれば肉を買おうという代用効果などにより価格弾力性が高くなる。
しかし、日本や多くのアジア諸国では魚は生活必需品であり代用効果は望めない。 故に、価格弾力性は低く、課税による需要量変化は望めないどころか、庶民の可処分所得を圧迫してマクロ経済レベルの疲弊を招く。 故に日本などでは魚の養殖を活性化させて魚の枯渇を防いでいる。
どの環境税も問題なのは、「具体的な価値基準の定義の不明瞭」および「具体的な被害は絶対的なものであり相対的なものではないこと」である。 それはやはり「起こってみなければ」わからなかったり、「その立場になってみないと」わからない状況である。 不明瞭な計量法による基準よりも、実際にそこにいる住人団体や企業格付機関などに具体的な損害があれば、彼等の定時する具体的な額からものごとを考慮するべきであろう。 たとえば、住民が団結してとある企業を訴え補償もしくは賠償を要求したときに、原告側と被告側の双方が納得する補償額もしくは賠償額などを決めるべきであろう。 そして、公害を排出する企業への格付を落とすような処置を公営部門なり民間部門なりの格付機関が取ればいい。 そして、公害の排出の減少に努力する企業への格付を上げるようにすれば良い。 ピグー理論に基づいた具体性に欠ける尺度を用いて課税するよりも、被害者集団および環境への影響を格付けする機関が具体的に定時する補償額をもって排出取引を行うべきであろう。
小生の結論においては、公害問題こそ自由市場により決定されるものであり、政府が介入した市場によりあやふやな尺度定義で課税することは公平性にかなわないし、あやふやな排出量計量のための情報収集費用はその対象とされる公害の計量が困難なために非常に高くつくため非効率である。 故に排出税の撤廃を求めたい。
そして、資源枯渇抑制のための課税も、需要への価格弾力性の度合いに著しく左右されるために、課税の効果が吉とでるか凶とでるか微妙である。 もし、枯渇が懸念されるほど高い需要量があるのであれば、代用品の宣伝および開発を優先させるか、需要そのものを減退させる「戒律」のようなものが必要であろう。 この課税による可処分所得への影響は逆進性も高いし購買力の低下による総需要の低下が怪訝されるだけでなく、生活様式に課税するという不条理な条件のためにその地域に住む個人等の功利の計が減退する。 故に、代用または戒律を用意するなり、その資源を需要する人口そのものを減少させるしか多大な費用と功利の計の減退を招かず資源を守る方法といえよう。
★インフレ税:
最後に述べる税金はインフレ税である。 上記に述べた税金のように誰かがなんらかの方法で具体的に形ある方法でお金を取っていく方法である。 しかし、このインフレ税は其等の税金と異なり、具体的な形を帯びた税制ではなく、税金と同じような効果を働くものという意味で税と呼ばれている。
この名前は、ミルトン・フリードマン博士などにより頻繁に使われていた用語で、インフレ(物価高騰)が悪影響を及ぼすと象徴するために用いられた単語である。 それは、インフレとは時を経てお金の価値が物資とサービスに比べて減少していく現象である。 つまり、年間のインフレ率が10%だった場合、今年得た所得が£100であればその所得の実質的価値は来年は£90しかないということである。 もちろん、名目上は£100として残るが、今年の品物の値段が£100であれば来年その品物の値段は£110である。 故に、その所得の価値は£10減少しているのである。
だが、インフレ税とは政府が意図的に貨幣を総生産力の増加率よりも高い率で発行し続けた場合に起こるインフレとしてその言葉が使用される。 つまり、政府が輪転機を回して余分に貨幣を発行してその貨幣で財政支出分を支払う。 そして、その結果、その国の生産力の増加率よりもはるかに高い量の貨幣が市場に投下されることを意味するので、貨幣の価値が貨幣発行率とその国の生産力の増加率との差の分だけインフレが起こる。 もし、その在出がその国の生産力を高める方向に使用されたのであれば良い経済効果が見込めるであろう。 だが、生産力の急激な上昇も一部の供給の上昇にその他の供給の上昇についていけない事態や資源需要が資源供給に追いつかない事態が起こりインフレになる。 生産性の有無に関わらず、その政府の施策の付けはインフレとなって現れる。 政府の施策による可処分所得への負担ということで、「税」のあだ名をインフレに付けたのがインフレ税と呼ばれる。
故に、減税による効用を主張する上でインフレの抑制も主張しなければならない! インフレとはそもそも、可処分所得の価値を減退させ、銀行など金融機関への負担(インフレ率が高ければ高いほどその予測率と実際率との差が開くので予測費用が高くなる)も多くなる。
それに、インフレ率とは逆進性が最も高い税金である。 所得や所持している不動産や高価な代物、環境や経済効果を考慮して個々別々に裁量される税金ではなく、万人が一律に同じ税金を支払わらせられるようなものである。 また、逆進性の強い消費税のように選択する自由も与えられない。 それは、インフレという現象が地域全体に降り掛かっている現象であり、そこの住人の可処分所得の実質価値を無差別に減らすからである。
インフレが経済活動の活性化によりある程度発生している場合であればインフレ「税」とは呼べるものではないが、政府が余分な財政支出を補うために中央銀行から余分に貨幣発行させて起こっているような負のインフレをインフレ税と呼ぶ。 また、バブル景気など市場の経済活動が過度に活性化されて起こるインフレおよびバブルが弾けた時に被る損失も政府の怠慢によるその経済圏の住人たちの可処分所得の損失なのでインフレ税である。
そこで、今回は『減税』政策による経済喚起の効用について話そう。 減税ということで、今回はミクロ経済に基づいて各個別の税制における減税について話していく。
★消費税
まず、今一番ホットトピックとなっている消費税であるが、これこそ今デフレ下にある日本において増税を図る意味がほとほと無い税制もないであろう。 もともと、消費税のようなものは財源として徴収する場合は所得税(個人および法人を含む)を徴収しづらいような発展途上国において断念して採用されるような税制である。 また、先進国においてその税制がとられる場合は、財源としてよりも、過度な経済活動によるインフレ発生への対抗処置として執行されている税制である。 第一、この税制は逆進性の強いもので、増税が購買力へ反比例する低所得層〜中所得層への影響がもっとも大きいために、総需要を落とす。 故に、マクロ経済レベルでの停滞を最も招きやすい税制である。
更にこの税制は最も脱税しやすい税制であることも顕著である。 海外への輸出している産物においては『輸入戻し』なる措置がとられ、免税措置がとられる。 日本国内においても免税店なるものが存在し、免税店で販売されている限りは国内で販売されても免税される。
こと更に、旧西ドイツで採用されていたTurn Over Taxや現在EU全土で採用されているVAT(付加価値税)と違い、サービス産業への課税があやふやである。 たとえば、理髪店においてシャンプーへの課税を行うか理髪師の提供するサービスそのものへかけるかが問題となる。 シャンプーへ課税すれば、理髪師への営業税との二重課税により理髪店への営業を圧迫するし、理髪師のサービスのみに課税を行えば理髪師の知り合いへ他の販売店よりも廉価で理髪師がその知り合いへシャンプーを売却することで理髪師とその知り合い等が税制の裏で得をすることになる。
また、居酒屋においての酒の扱いにも問題が出る。 居酒屋が問屋と提携して取引をしていれば最終卸売段階は居酒屋に特定できる。 しかし、居酒屋がちょびちょびと近所の販売店で足りない酒を購入して売りつけているような状況であれば、消費税がその販売店と居酒屋の双方で課税され、その双方の負担は居酒屋の顧客にも振りかかる。
だがなんにしろ、この税制の最大の問題は、国家間ないし地域間を移動して経済活動を行なっている者がいる場合であろう。 たとえ、地域Aにて消費税に貢献していても、彼女が地域Bに在住していた場合、その徴税は彼女の生活している地域には還元されない。 これが国家間で起こっているならばなおさら問題で、日本国内で生産され外国で売られたものは輸入戻しで無税であるが、国家で起こった新興企業や輸出出来るだけの規模がない中小企業は課税により搾取されている。
結局は、即得利権を得て海外へ多く売っている大手企業は税の輸入戻しで得し、国内市場で頑張っている中小企業は課税により苦しめられる結果となっている・・・。
★ VAT(付加価値税):
EU設立の際に欧州の殆どの国家で採用された最も進歩的な間接税といえよう。 これは消費税と異なり理髪店や居酒屋などで起こったいざこざが起きない。
ただ、その他の諸問題は消費税と同じく、デフレ状況である日本において採用すべき税制ではない。
また、消費税よりもより洗練された各店舗による簿記の明記および提出、添削が義務付けられなければならない。
また、贅沢品への課税の比率を上げているという話であるが、これは『贅沢』という『無形の付加価値』への課税をしているのである。 故に、日本とアメリカ合衆国にある消費税よりもより『主観的』な尺度が設けられていることも事実である。
更に、『何を贅沢』として位置づけるかも問題である。 原料品の食料であっても、高価なフルーツにはただ『贅沢』という『無形の付加価値』をつければいいであろう。 しかし、テレビは昔はぜいたく品であり、つい最近までは必要品、そして最近は無用の長物という意見もある。 パソコンは昔はとても贅沢な品物であったが、今では必要品ともいえよう。
それに、付加価値の多いものや贅沢品に課税することによってそれらの購買意欲を削ぐことは経済的にはマイナスではないか? 付加価値の多いということは、その製品およびサービスを提供する上で、それらを購入することにより多大な経済活動と雇用を産むであろう。 その経済活動と雇用を抑制することは果たして、この不況下において得策か? むしろ、贅沢品への税を廃税して贅沢するだけの余裕を庶民に持たせて、経済活動と購入の促進だけでなく、庶民への文化的生活水準の向上を勤めさせるべきではないのか?
★ (個人)所得税:
これはもっとも不公平であるが最も効率的な税制である。 累進課税であればあるほどに不公平ではあるが最も効率的である。 そもそも効率的という意味は少ない費用(コスト)で最大限の効果を発揮できるということである。 つまり、能力と成果の分だけ働いて稼いだ所得を根こそぎ分捕る税制ではあるが、どうせ貯蓄へ廻る所得分に対して税として徴収するわけだから総需要を減退させない、つまりマクロ経済的な費用が少ない。 更に、手取り所得を貯蓄に回すだけの余裕がない中所得層へは少なめに、そして低所得層へは免税となるために彼等の購買力は温存される。 故に累進的であればあるほど所得税は直接余裕のある層から税を徴収し余裕の無い層には余裕を与えるという直接的な計画性を持つ。
しかし、やはり不公平という問題に直面する故に、保守層および自由尊重論者等からの反発を受ける。 やはり、それ相応の所得を受ける立場の者からより多くを取るという趣向が人民の向上心をそぐのではないか?という意見を呼ぶ。 だが、あくまで公的部門を必要としその財源として徴税が必要であるかぎり、この税制は最も低費用で確実に取れる財源として欠かせない。
もし、仮にこの税制において免税が許される場合であれば、公的部門のそう元締めを仰せつかっている国家政府の財政赤字および国債発行高を極限まで減らす必要があるであろう。 たとえ、好景気であれど、いや!好景気だからこそ過度な経済過激によるインフレなどの悪影響を回避するためにも、財政赤字の払拭および国債の減額のためにより累進性の高い所得税を導入してマクロ経済的費用を抑えつつ財源を確保するしかない。
だがかわりに、不景気の時にこそ、国家赤字を暫定的に容認し、暫定的に国債発行を促して、低〜中所得層への免税措置を促して高所得層へも比較的低税率を設けて、刺激的なマクロ経済面での景気喚起を促進させるべきであろう。 さすれば、たとえ税率が前年と同等でも、経済喚起がなされた後であれば納税可能な個人も増え、税率が同一であろうとも税収そのものが増えるという仕組みになる。 むろん、インフレなどが懸念される場合であればリバウンド防止のために増税してインフレを食い止めるべきではあるが、税率を上昇させるか否かはケースバイケースであろう・・・。
★法人所得税:
共産党などの社会主義勢力が最も上げたいと思っている税制である。 だが、我々にとっては最も下げたい税制である。 実は、冷戦後のグローバライゼーションにおいて最も降下の激しい税制である。 日本とアメリカ合衆国、ドイツのみがこの波からは遠ざかっている。 ドイツはともかくアメリカ合衆国とは驚きを隠せないであろう。 だが、今から話す真実を話せばそれも納得がいく。
法人所得税とは、グローバライゼーションにおいて外資勧誘にとって最も重要な課題といっても過言ではないであろう。 そもそも、課税の低い国でビジネスしたいという欲望はどの企業でも持ち合わせているはずである。 ドイツで未だ50%も法人税を掛けている理由は、ドイツというお国柄でそれだけ課税しても、ドイツに進出する外資系企業にとっての恩恵が高くポリティカル・リスクが極限に低いという見解がある。
しかし、アメリカのケースはどうであろうか? あの自由と権利の自由資本主義の大家であるはずのアメリカ合衆国がなぜにイギリスやフランスよりも高い40%もの法人税を掛けているのか? それは、まぎれもなく外資を追っ払うためである! そんでもって、アメリカ合衆国地元の中小企業が国家政府のパトロンである大企業に歯向かうことを阻止するための政策でもある! そりゃぁ、企業ってったてぇ、お金持ちの企業ばかりか、この不況下においてはこの日の食い扶持をつないでいくのがせいぜいな企業がたくさんである。 そんな時世において高い税率なんて御免被りたいものである。
ちなみにいっておきますが、法人税は個人所得税とちがって累進しづらい、ってか累進できないものなんですよね! 個人の所得であれば掛ける利潤と費用(その差である利益も)を大きな範囲で直ぐに調節するのが困難かつ経済全体におよばす可能性はそんなに高くないですが、企業となれば会計上の調整はいろいろとできますしそのおよばす影響は大きいです。 んまぁ、利益に課税するなれば費用の水増しをすればいくらでも脱税はできます。 そんで、利潤に課税すれば今度は逆に費用をリスク増大可能性ギリギリまで引き下げればその企業にとっては嬉しことです。
そして、左翼政党および偏狂な愛国政党にいわせれば法人税は外資の侵略を阻止するものだ!といっておりますが、果たして国民のためをおもえば外資の参入は思わしくないものなのでしょうか? 先ほどアメリカ合衆国の例えでも言いましたように、どちらかというと国内にある即得利権を保持する企業を守るために存在していると断言しても過言ではありません!
むしろ、外資が日本国内企業に参戦すると同時に、労働需要が上がります。 つまりは、労働者市場において雇用の需要があがり、買い手市場から売り手市場に変わり雇用者のエコノミックレントが上がるわけです。 つまりは、高い法人税による即得利権保持のために、被雇用者による剰余価値による搾取の根源とされていた雇用者等が買い手市場の独占により市場価格よりも少ない費用で雇われる代わりにより多くの利益率を被雇用者に分け与えていわけです! だが、法人税を激安にするかゼロにするかによって、より競争を強めることにより逆に被雇用者が他の競争相手の被雇用者よりもより多くより良質の雇用者を雇うために遠慮して雇用者を雇う賃金を市場価格よりも上げる傾向になるわけです。
★ 土地や建物への税
土地へ掛ける税は間接税(例:消費税)のような公平性(使った分だけ払う義務)と直接税(例:所得税)のような効率性(マクロ経済における少ない影響など、より小さい費用でより大きく取れること)の双方の利得を有する税制である。 小さな政府を目指すジオ・リバータリアンというリバータリアンの一派や、ミルトン・フリードマン博士のような新自由主義者の代表とされる人物が土地税と支持している。
まず、公平性(使った分だけ払う義務)においては、人口密度の大小(需要の大小)や開拓や維持(維持費の大小=供給の大小)により使った分そして使いだけの費用に応じて個人が納税する義務を果たすからである。 つまり、消費税のように経済活動を停滞させモラルハザード(ペナルティを加算するべきところに加算されず、ペナルティを加算されるべきでないところにペナルティを加算させる)が起きることもない。
また、効率性(より少ない費用でより多く徴税できること)においては、より人口密度の多い(経済活動が活発)地域でより広い土地を保有するものの可処分所得を貯蓄へ回せるだけの余裕がある個人であることが殆ど、かつ土地の保有から生まれる付加価値発生率が高いことに所以する。 そして、『土地の使用』という外部に与える影響に比例して課税するわけである。 可処分所得に余裕がある個人に課税することは所得税と性質が似ているが、所得の保有は個人の努力や成果に報うためのものであるが、その所得を土地の購買に回したり、その土地から利潤を得ることは、少なくとも土地という自然資産(自由主義者のトマス・ペイン殿もこれは個人資産と異なり公平に分け与えるべきであると説く)の使用である故に他個人への多大なる影響を与えると同時に自然資産の使用権利の受諾という意味でも課税への公平性がある。
そして、ジオ・リバータリアンとミルトン・フリードマン博士が土地税を支持した理由の最大の理由は需要と供給に影響する価格弾力性が殆どゼロであるという理由からである。 つまり、価格の変動によって供給量が変わらないということであり、税金を課せたところで土地の売買の所有や売買の影響がでないということである。 そして働いた分、成果の分へ比例して課税することにより成果主義を損ねるという不公平さも生じない。 価格弾力性の無い理由として、まず土地は直ぐに供給を増減させることができず、供給量が固定されたものであるということである。 故に、需要はそこの必要性や便利性によって変動するもの、つまり価格は変動する、が供給量に変わりがない。 つまり、課税で価格を引き上げても需要される供給分への影響が出ないため、経済活動に被害を被ることなく課税できる。
上記の図のように、供給における価格弾力性がゼロなために、課税により居住者への負担は無く、負担は供給者である地主に課せられる。 供給における価格弾力性がゼロの場合は、もし居住者に負担を強いた場合は需要曲線よりも上の値段になってしまうので需要が供給よりも減退して過剰供給となってしまう。 故に、需要と供給の均衡点へ戻るために仕方なく地主が負担することになる。
もし課税されなれれば、この供給における価格弾力性の無さを生かしてその土地所有者がより多くの利益を得ている場合が殆どである。 それは、価格弾力性の無さを利用して、需要と供給の均衡点上の価格よりもかなり高い価格を設定して、その土地保有者の得るべき利益よりも多い利益を得ているからである。 それは、価格を釣り上げてもその土地を使用する個人等、たとえばその家を借用している個人等や商業を営んでいる個人等、はその土地の立地条件(仕事に最寄りだとか家族が住み慣れているとか経済活動が活発な商業地区であるとか)故にいくら不当に高い利用用を払われてもそこを出ていくわけにはいかない。 故に、その必要以上に高い利益率を独占されることを拒むために課税して、その土地保有者への利益に比例した課税をしたり、その不当な利益の分をマクロ経済レベルで恩恵を与える部所に公的投資として投下することができる。
もし課税が少しでも供給に影響を与える傾向が少しでもある(供給における価格弾力性が有る)場合は、土地の供給が減るということなので、居住者達はその減少した供給を得るために課税の一部負担として地下の高騰を認めるであろう。 だが、供給における価格弾力性がゼロの場合は、課税により供給が減らないので価格を上げて居住者たちが負担を増やして供給をせめぎ合って奪う必要もなくなる。 また、地主が値段を上げた場合は居住者も流石に徐々に撤退をはじめる。 故に、土地税の課税による負担は供給側である地主のみの負担にするために、地主のみが利益を独占することを防ぎつつ、居住者への負担を無くす(多数派の個人の可処分所得への影響が出ない)ことがこの税制の強みである。
ただ、この税制の問題は、土地や自然資源が限られていて環境への負の影響を懸念されている国や地域では上記の理論は完全なる正当性を持つであろう。 しかし、問題は、土地が余っているような国や地域でもそこそこまかり通る理論ではあるが100%適応できる税制理論とも言えないということである。 それは、Wikipediaでも記載されているボリビアの例でも見られる。 経済活動が未だ貧弱で土地が余っているような国や地域では、むしろ土地への課税を無税にするべきではないのであろうかという意見がある。 またこのような国でも、比較的人口密度と経済活動が活発な都心部の土地に課税した場合は、課税によりその国から退却する地元の投資家や外資が撤退してしまう。 むしろ、都心部への課税を減税もしくは廃税して、その余分の可処分所得を地方へ回せるような配慮をした方が良いという意見もある。 つまり、都心部の土地売買を活性化させるとともにその相乗効果を土地が余っている地方へも波及させるという魂胆である。
そして、更なる問題は、後者の供給における価格弾力性がある場合ではなく、前者の供給における価格弾力性が無い場合に、政府に課税の自由裁量を許すのであれば、この土地の所有者が価格弾力性の無さの有利性を使って不当利益を得ていたことを政府が行う事もできる。 つまり、価格弾力性が無いために需給量を減らさず増税をして、政府が必要以上の課税を強いることも可能である。 経済環境を配慮した良識的な政府である分にはその心配はないであろうが、政権が愚直で経済環境に無知な政府が台頭した場合には怪訝しなければならない状況である。
あと、土地そのものに課税するのではなく、土地の上に建っている一軒家、アパートやマンションなどの一部屋、商用テナントなどに課税する制度がある。 これは、土地税の延長であり、土地の上に建っている不動産への課税である。 この場合も土地税と同じく人口密度や維持費、環境への影響、その不動産への需要量を考慮した公平な税である。 また、その不動産の価値およびそれから得れる利潤と比例した課税になるので、より可処分所得に余裕のある不動産所持者により多く課せられる税でもある。
また不動産税は上記に述べた土地税と同じ欠点をも持つ。 そして更に土地税にはない不動産税の弱点は、先程紹介した付加価値税(VAT)のように、「なにをもって価値付け判断を行うか?」というダイレマに悩まされる。 たとえばU.K.の不動産税の場合はフラット(アパートメント&マンション)には安く、テラス(現代式/西洋式の長屋)には中ぐらいに、そして一軒家にはより高く課税している。 むろん、人口過密地帯ではフラットへ低所得層が住む傾向にあり、人口密度の低い一軒家へは高所得層が住む傾向があることは否定できないから、人口密度に比例するのではなくタイプ別に累進課税する理由も解る。 しかし、所得税が既に存在している場合であれば、所得に関して既に累進課税が施されているので、不動産税において所得への累進性を考慮するべきか? むしろ、居住者もしくは所有者の所得以外にも考慮しなければならないであろう。 もっとも、重要なことはフラットよりもテラスや一軒家の方が維持費が高いことと見栄えが良いことである。 維持費が高い上に更に高い課税を強いられたら、古き良きテラスや一軒家を大切にして過ごすという感覚がそこなわれ、みな殺風景なフラットへ住むことを期待しかねない。 その場合は、街や田舎の景観に影響を及ぼし、『景観が損なわれる』であろう。 それになにより人口の過密化も激化する。 故に、より混雑し殺伐とした都会化が進み、田舎の過疎化および景観の損傷が懸念される。 それが既に日本でも起こって、田舎のムダなアパートメント林立という愚行を招いた。
土地税率と不動産税率を全地域にて固定化した場合には、需給のバランスが偏る形になることは目に見えているから、その弱点については多く語らない。 土地税や不動産税をより自由裁量にした場合には、人口密度や環境への影響、所得率に合わせた公平かつ効率的な税制を敷くことが可能である。 ただ問題は、地中海の人々のように職場に近い環境に住むケースが大多数である場合には人口密度に比例した課税は良くないであろう。 地中海の国ではその他の国々と違って長距離の通勤通学を好まない。 そして、農業国が殆どなので地方が得ている所得や利潤率も都会部の中低所得層よりも高い。 それに、地中海世界の人々のカントリズム(生まれ育ち慣れ親しんだ土地で長く一生を過ごす主義)が強いために、地域による人口の偏りも諸外国ほどではなく人口も土地利用様式もその土地の必要性に従って均衡配分されている。 故に自由裁量制の土地税と不動産税も必要なく、土地税や不動産税はより固定的なものが好まるであろう。
小生個人の意見では土地税が不動産税よりも能率的にも倫理的にも優れていると考える。 土地は自然資産だが家、フラット、商業テナントは個人資産である。 自然資産は公共物と考え公共物を管理する組織、つまり現代では政府、が管理に責任を持つこと然りである。 むろん、小生は土地を市場に出して売買を否定するつもりは毛頭ない。 横暴な計画経済として国有化して制御せよという意味ではない。 むしろ、土地の売買をより個人や企業に任せた方が政府が環境や商業活動の傾向、住宅模様の流行などの情報を逐次把握しなければならないような非効率なやり方をしなくて住む。 それで、土地の売買を自由市場という自然発生的な物流システムに任せて、そのシステムが暴発したり停滞しないような修正装置として土地税が必要であろう。 建物などに掛ける不動産税であれば、先程紹介したとおり価値付け判断の問題が大きいし、なにより個人資産への課税という私有財産への介入という倫理的な問題を産む。 それに、先程紹介したような景観問題においても、不動産税は助長させる原因となるが、土地税であればそれを阻止する効果がある。
ただ、これは土地税が上記にあげたすべての税制、そして後に述べる排出税とインフレ税よりも優れているという話であって、この税制に問題が無いわけではない。 それは先程述べたように政府がその税制の性質を逆手にとって悪用する場合も十分にありえることである。 そして、政府介入せずに土地も自由市場に委ねた方が自然に人民が需給にあわせて人口密度や土地使用様式を変えてくれると期待することもできる。 たとえば、その土地利用者が得ている利益(需要と供給の均衡点よりも高い価格)を課税して政府の税収とするよりも、購入や投資などで民間市場に流した方がマクロ経済的効果があるかもしれない。 また、その利益が土地使用者の懐に貯まるような状況であれば、その土地使用者の市場における評判が低下して彼もしくは彼女のビジネスと評判が危うくなる。 また、土地使用様式の偏りの解消も課税による誘導でなくとも自由市場でも可能であろう。 人口密度については、政府にとってその過疎地が有効な場所であっても民間にとっては興味の対象に無い場所であることもある。 また、環境問題に関しては排出税の項目で詳しく述べるが、環境に関してもその偏りが見られれば民間の自由意志で交渉もしくは抵抗を行うことができる。 それに、最初はその場所の便利性により価格が高騰しても、環境や人口密度過多もしくは過疎による影響が出れば、それは即座に市場に現れ価格修正が行われるであろう。
★環境税:
この税は英国古典経済学者のピグー博士のよって考案された税制から学んだものである。 それは、製品やサービスを生産することによって、金銭的な費用など内因的な費用だけでなく、この生産過程から輩出される公害や資源の過剰搾取による資源枯渇など外因的な費用の存在をピグー博士が指摘したことに所以する。 その外因的費用はその生産者には負担を強いないが、その周りの環境および個人等に負担される。 その負担への損害をその生産者に負担させ被損害側へ補償を行う役目を政府が環境税という形で行うべきだという発想である。 故に、この生産高に比例した課税方をピグービアン税と言われる。
最近一番の話題となっているものは排出税であろう。 この排出税はCO2の一定の排出量を定めてそれを上回ればペナルティとして課税させられ、下回れば交付金が得られる。 そして、地域間や国家間で排出量の取引がなされ、土地面積ごとの排出量密度などを測定し、余分に公害を輩出するための権利を政府から排出税を余分に払って得ることや、より排出量密度の低い、つまりは課税率が低い、経済的過疎地へ工場を移転させるなどという例が見られる。
だが、この環境税はここ近年登場した税制であって未だ税率の決定法や課税対象への価値付けなど議論されている盛りである。 例えば、この排出量というのもどのように計量するかという問題もあれば、その計量された基準値はどのように決められるかが問題である。 その計量する基準および猶予される排出量が実際にどれだけ環境およびそこの住人に影響を与えるかという疑問は払拭されていない。 むしろ、これらの基準はなにかと比例もしくは反比例して計量できるものなのか?
そして、森林伐採や漁獲量の規制などにも環境税が掛けられる。 EUにおいては、漁獲量に比例した課税が魚師にかなり掛けられている。 だから、ヨーロッパでは魚の値段が非常に高い。 これは魚の過剰需要による魚の枯渇を回避させるために設けられた。
しかし、問題は需要における価格弾力性である。 価格弾力性が高ければ課税によりその需要量に抑止をかけることができるであろう。 それはヨーロッパでは魚が高ければであれば肉を買おうという代用効果などにより価格弾力性が高くなる。
しかし、日本や多くのアジア諸国では魚は生活必需品であり代用効果は望めない。 故に、価格弾力性は低く、課税による需要量変化は望めないどころか、庶民の可処分所得を圧迫してマクロ経済レベルの疲弊を招く。 故に日本などでは魚の養殖を活性化させて魚の枯渇を防いでいる。
どの環境税も問題なのは、「具体的な価値基準の定義の不明瞭」および「具体的な被害は絶対的なものであり相対的なものではないこと」である。 それはやはり「起こってみなければ」わからなかったり、「その立場になってみないと」わからない状況である。 不明瞭な計量法による基準よりも、実際にそこにいる住人団体や企業格付機関などに具体的な損害があれば、彼等の定時する具体的な額からものごとを考慮するべきであろう。 たとえば、住民が団結してとある企業を訴え補償もしくは賠償を要求したときに、原告側と被告側の双方が納得する補償額もしくは賠償額などを決めるべきであろう。 そして、公害を排出する企業への格付を落とすような処置を公営部門なり民間部門なりの格付機関が取ればいい。 そして、公害の排出の減少に努力する企業への格付を上げるようにすれば良い。 ピグー理論に基づいた具体性に欠ける尺度を用いて課税するよりも、被害者集団および環境への影響を格付けする機関が具体的に定時する補償額をもって排出取引を行うべきであろう。
小生の結論においては、公害問題こそ自由市場により決定されるものであり、政府が介入した市場によりあやふやな尺度定義で課税することは公平性にかなわないし、あやふやな排出量計量のための情報収集費用はその対象とされる公害の計量が困難なために非常に高くつくため非効率である。 故に排出税の撤廃を求めたい。
そして、資源枯渇抑制のための課税も、需要への価格弾力性の度合いに著しく左右されるために、課税の効果が吉とでるか凶とでるか微妙である。 もし、枯渇が懸念されるほど高い需要量があるのであれば、代用品の宣伝および開発を優先させるか、需要そのものを減退させる「戒律」のようなものが必要であろう。 この課税による可処分所得への影響は逆進性も高いし購買力の低下による総需要の低下が怪訝されるだけでなく、生活様式に課税するという不条理な条件のためにその地域に住む個人等の功利の計が減退する。 故に、代用または戒律を用意するなり、その資源を需要する人口そのものを減少させるしか多大な費用と功利の計の減退を招かず資源を守る方法といえよう。
★インフレ税:
最後に述べる税金はインフレ税である。 上記に述べた税金のように誰かがなんらかの方法で具体的に形ある方法でお金を取っていく方法である。 しかし、このインフレ税は其等の税金と異なり、具体的な形を帯びた税制ではなく、税金と同じような効果を働くものという意味で税と呼ばれている。
この名前は、ミルトン・フリードマン博士などにより頻繁に使われていた用語で、インフレ(物価高騰)が悪影響を及ぼすと象徴するために用いられた単語である。 それは、インフレとは時を経てお金の価値が物資とサービスに比べて減少していく現象である。 つまり、年間のインフレ率が10%だった場合、今年得た所得が£100であればその所得の実質的価値は来年は£90しかないということである。 もちろん、名目上は£100として残るが、今年の品物の値段が£100であれば来年その品物の値段は£110である。 故に、その所得の価値は£10減少しているのである。
だが、インフレ税とは政府が意図的に貨幣を総生産力の増加率よりも高い率で発行し続けた場合に起こるインフレとしてその言葉が使用される。 つまり、政府が輪転機を回して余分に貨幣を発行してその貨幣で財政支出分を支払う。 そして、その結果、その国の生産力の増加率よりもはるかに高い量の貨幣が市場に投下されることを意味するので、貨幣の価値が貨幣発行率とその国の生産力の増加率との差の分だけインフレが起こる。 もし、その在出がその国の生産力を高める方向に使用されたのであれば良い経済効果が見込めるであろう。 だが、生産力の急激な上昇も一部の供給の上昇にその他の供給の上昇についていけない事態や資源需要が資源供給に追いつかない事態が起こりインフレになる。 生産性の有無に関わらず、その政府の施策の付けはインフレとなって現れる。 政府の施策による可処分所得への負担ということで、「税」のあだ名をインフレに付けたのがインフレ税と呼ばれる。
故に、減税による効用を主張する上でインフレの抑制も主張しなければならない! インフレとはそもそも、可処分所得の価値を減退させ、銀行など金融機関への負担(インフレ率が高ければ高いほどその予測率と実際率との差が開くので予測費用が高くなる)も多くなる。
それに、インフレ率とは逆進性が最も高い税金である。 所得や所持している不動産や高価な代物、環境や経済効果を考慮して個々別々に裁量される税金ではなく、万人が一律に同じ税金を支払わらせられるようなものである。 また、逆進性の強い消費税のように選択する自由も与えられない。 それは、インフレという現象が地域全体に降り掛かっている現象であり、そこの住人の可処分所得の実質価値を無差別に減らすからである。
インフレが経済活動の活性化によりある程度発生している場合であればインフレ「税」とは呼べるものではないが、政府が余分な財政支出を補うために中央銀行から余分に貨幣発行させて起こっているような負のインフレをインフレ税と呼ぶ。 また、バブル景気など市場の経済活動が過度に活性化されて起こるインフレおよびバブルが弾けた時に被る損失も政府の怠慢によるその経済圏の住人たちの可処分所得の損失なのでインフレ税である。









